インドネシアの最も東に位置するイリアンジャヤ州では、昨年12月1日に独立集会が催された後、独立派の中心人物の逮捕や治安部隊と住民の衝突などが起きた。なぜこの日に、この地域で独立・分離運動が発生したのか、その歴史的背景についてはあまり知られていない。
かつて西ニューギニアと呼ばれたこの州もインドネシアの他地域と同様、もとはオランダの植民地だった。1828年に植民地となったが、1910年にオランダ政府は現在のインドネシアの全域を含む蘭(らん)領インドから、蘭領ニューギニアを分離して、別個の植民地とした。
こうした歴史的背景もあり、49年にオランダからインドネシアへの「主権移譲」が行われた時、蘭領ニューギニアだけはオランダ領として残された。
その後、50年代、インドネシア政府は国連を通じて蘭領ニューギニアの「返還」を試みたが成果は上がらず、むしろそうした動きに対抗するかのように、61年、オランダは西ニューギニアを国連の管理下におき、将来「パプア国」として独立させることを提案。現地の独立派は、同10月19日、「暁の明星」をあしらった国旗と国歌ハイ・タナク・パプア(我が祖国パプア)を制定した。
そして、12月1日、オランダ政府は西ニューギニアにおいてオランダ国旗とパプア旗を一緒に掲揚させ、パプアに独立国の地位を付与したことを示した。こうした経緯から独立派の人々は12月1日を「独立記念日」と見なし、昨年もその日に独立・分離運動が活発化した。
しかし、この地域の帰属をめぐっては、う余曲折の道程が続いた。61年12月中旬には当時のスカルノ大統領が西ニューギニア統合のための軍事作戦を開始。その後、アメリカの仲介を通じて、63年にはオランダは西ニューギニアにおける主権を国連の暫定行政機構(UNTEA)に移譲した。
69年には国連監視のもとで「インドネシアに帰属すべきか否か」を問う住民投票があり、その結果、国連決議2504号をもって、同地のインドネシア帰属が決定した。住民投票の是非については、今も独立派の人々によって疑問視されているが、オランダ統治からインドネシアとの統合に至るまで、この地域の帰属が大国の思惑によって紛糾したことは明らかだ。
独立派「パプア評議会」代表のテイス・エルアイ氏は「パプア民族は61年12月1日に独立した」と語るが、政府との対話は歓迎している。苦難の歴史を考慮するならば、ワヒド政権も現地の分離運動に対しては、あくまでも対話路線を優先して臨むことが期待される。