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 コラム・時評
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黄瀛と「もう一つの祖国」
王 敏
前AAN客員研究員

王敏
ワン・ミン 54年中国河北省生まれ。82年国費留学生として来日。法政大学教授。著書に「宮沢賢治と中国」など。

宮沢賢治、高村光太郎、草野心平、中原中也らの詩友に黄瀛がいる。「こうえい」と呼ぶ。

……あゝ朝は実に気持ちがいゝ/窓をふいていると/暖かい風が入りこみ部屋をぐるぐるまはる/そしてあゝ/日曜の朝はいつにない日の流れ/いつにない部屋の静けさ……(1925年、「朝の展望」)

達者な日本語の詩は木下杢太郎や萩原朔太郎にも高評され、戦前の日本詩界に黄瀛の難しい名がとどろいた。まだ無名の宮沢賢治の才能を早くから認め、29年春、岩手県花巻の病床を訪ねて、賢治に会った。魯迅とは何度も文学論議を交わした。

黄瀛は今、ふるさとの中国・重慶で、闘病の身ながら98歳の高齢で余生を送っている。日中の不幸な歴史に翻弄されなければ「忘れられた詩人」になることはなかった逸材に違いない。日本文化の理解者として尽くされていたはずである。

黄瀛には日本と中国の血が流れている。

母は日本人、太田喜智(1887〜1933)という。千葉県八日市場の金物商の長女で、小学校では2回も飛び級し、18歳で女子師範学校を卒業。優等訓導として地元小学校の教員になった。開かれた視点を持った人物だったのであろう。「日清交換教員」に選ばれると、躊躇なく赴任した。外国に飛び出した勇気も特筆されるが、重慶師範学校校長、黄沢と結婚したのは当時の日本女性としては枠をはみ出した決断力といえる。黄瀛と妹(黄寧馨)を生んだ。黄沢の死後まもなく、一家は日本に移った。大正3(1914)年、黄瀛が8歳の時であった。

母は日中の融和に懸ける気概があった。東京・九段で中国人留学生を住まわせていた時、警察の無法な手入れに身を張って留学生を守ったと伝えられる。

日本の対中国侵略の姿勢が目立ち始めるにつれ、国内では中国人蔑視が広がり出す。黄瀛は小学校を首席で卒業。志望の中学に合格しながら中国人を理由に入学を許可されず、「混血」の悲哀を知った。そうした事情が己を凝視する厳しい観察力を育て、詩作に走らせたようだ。

いったん東京の私立中学に入学した黄瀛はその後、中国・青島に開校した日本人教育の中学に編入した。このころには1日20編もの詩がほとばしり出たそうだ。朝日新聞の学芸欄に掲載が重なって自信をつけ、当時の詩界をリードしていた『日本詩人』(新潮社)に応募した。「朝の展望」は18歳の時の、その応募作であり、千家元麿らの推薦で新人第1席に選ばれた。

本格的な詩作を目指して日本留学を選んだ。神田に開校した文化学院。神戸港に降りた時、黄瀛は「混血」をうたった。

白いパラソルのかげから

私は美しい神戸のアイノコを見た

すっきりした姿で

何だか露にぬれた百合の花のように

涙ぐましい処女を見た

父が……

母が……

その中に生まれた美しいアイノコの娘

そのアイノコの美しさがかなしかった

黄瀛は、師とも慕った高村光太郎をたびたび訪れた。光太郎は黄瀛の顔を彫った。実物は戦火で焼失したが、若かった土門拳が撮影した写真を今も大事にしている。

詩才と詩友に恵まれた黄瀛だが、20年代後半の山東出兵から30年代に入ると日中の間では柳条湖事件など不穏な影が覆う。母は黄瀛を軍人に育てることを決意した。詩では食っていけないとの考えもあったろう。それよりも、二つの祖国を持った子には父の祖国を守らせ、日中の相互理解に尽力させるという大義の道を選択させた。

27年、黄瀛は文化学院を中退し、市谷の陸軍士官学校に進む。2年後に卒業すると中国に渡り、蒋介石軍に参加した。

文化学院の講師でもあった与謝野晶子は「君死にたまふこと勿れ」を書いた人である。黄瀛に「黄さん、軍人はだめですよ」と諭したと言われている。しかし黄瀛は祖国・中国で軍務に励むようになる。詩作から遠ざかり始める中で、第1詩集『景星』が30年に、第2詩集『瑞枝』が34年に刊行された。いずれも日本での名声をいよいよ高めたが、置き土産にもなってしまった。

終戦後、黄瀛は日本人の帰還を担当した。草野心平と再会を喜び、収容所から救い出した。女優李香蘭を日本人山口淑子と断定して帰国させるのにも一役買った。「もう一つの祖国」への忘れられない思いがあったからであろう。こうした姿勢が新中国のもとで十数年の投獄生活を送る羽目につながる。完全に自由になるのは文化大革命の終息を待たねばならなかった。62歳で四川外国語学院の教壇に立ち、若い世代に日本を教えた。私は教え子の1期生だった。

かつて、黄瀛夫人に恩師のスーツケースを見せられたことがある。日本行きの着替え、背広、書き物が詰まっていた。片付けたくても許されない。いつでも出発できるように用意しているのだ、と。戦後の来日は、確か84年、86年、91年、96年、そして千葉県銚子市に「銚子ニテ」の詩碑が建てられた00年。いずれも、そのスーツケースを持って来日した。

2005年 7月18日
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