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 コラム・時評
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重慶―教育にかける天狗の町

王 敏
前AAN客員研究員

王敏
ワン・ミン 54年中国河北省生まれ。82年国費留学生として来日。法政大学教授。最新著は「日中比較・生活文化考」。

中国内陸部、重慶の空には天狗が住んでいるといわれる。天狗は太陽が大好物で、しょっちゅう東から昇った太陽を平らげる。だから、重慶の空に太陽がさんさんと輝く日は少ない、という。

9月24日も重慶の太陽は隠れていた。雨に煙る中、市の西郊、革命烈士陵の隣にある四川外国語学院日本語学部棟の庭で、中国人でありながら日本の詩壇に名を残した恩師、詩人黄瀛の詩碑の除幕式があった。

「ある夜/空だけが美しい反射だ/道は霜どけた砂利道だ/犬の遠吠えに立ち止るな!/竹藪の上に『三つ星』が点、点、点」(第一詩集「景星」から)と詩碑に残した黄瀛は、7月18日の当コラムで紹介して間もなく、98歳で亡くなった。私の知る限り、中国人による日本語の詩碑としては、これが中国で最初だと思う。

その日は、四川外国語学院日本語学部の30周年記念日であった。日本総領事館と共催して、学内の千人入り国際会議場の舞台で、茶道と華道を披露した。重慶で初めてといっていいほど大規模の、日本の伝統文化の舞台は満員だった。

「重慶」の名の起源は、「慶喜が重なるところ」として、宋代の1189年にさかのぼる。1997年3月に四川省から分かれて中央政府直轄市になった。直轄市は北京、上海、天津とこの重慶の4市のみだ。中国で最大の人口3090万人を抱え、49の少数民族約200万人が暮らしている。日本では昨夏、サッカー・アジアカップの試合で、観客が日本チームのサポーターにごみを投げつけたりして重慶のイメージは良くないが、他者との共生が当たり前という風土があり、古来「混血」が多い。それだからか、女性の美しさでも知られ、北京からのカメラマンが「5秒に1人」と満足そうに美人にレンズを向けていた。

重慶は現代史の舞台でもある。日中戦争が始まった1937年から9年余り、国民党政府の臨時首都になった。日本軍による空爆はよく知られるが、日本軍の攻撃を逃れて各地の最先端が引っ越してきたため、中国6大工業基地の一つに成長した。首都になった当初、第2次国共合作が進み、毛沢東、周恩来が重慶入りしている。今年8月15日には近くの大邑県に大陸初の国民党博物館が開館した。

景勝・古跡も多い。重慶は長江三峡渡りの出航地であり、李白たちに愛された白帝城も市域に入る。「三国志演義」の主役・劉備が亡くなった歴史の舞台である。世界文化遺産の「大足石刻」もある。唐代以来築かれた仏群が6万体以上という。

歴史、文化、工業の顔に加え、重慶は教育都市でもある。臨時首都であった時期に、全国の名門大学の疎開を受け入れ、今も公立大学が25校を数える。

私が通った四川外国語学院の開学は1950年。中国政府が「外国語教育七カ年発展綱要」を策定した64年当時でも、外国語大学は北京、上海、西安と四川外国語学院の4校だけだった。とくに日本語は文化大革命後まで肩身が狭く、日本からの郵便物は個人あてであってもすべて開封・検査された。そのさ中の72年、日中の国交が正常化した。これを敏感に受け止めたのが四川外国語学院だった。翌73年、日本教育研究室を設置し、75年、日本語学部開設。79年、詩人・黄瀛を迎え、中国初の日本文学と日本研究の院生クラスが事実上誕生した。

日本語ブームが起きたのも、そのころだった。ラジオの日本語講座も始まった。日本の人気テレビドラマ「赤いシリーズ」の主人公にちなんだ「幸子ヘアスタイル」が中国でも人気を集めた。ブームの背景には、やはり「日中友好路線」と「改革開放」方針の相乗効果があったといえる。実際、90年代までの中国は、日本との交流が中心だった。日本の国際交流基金は80年から5年間で600人の日本語教員を育成した。彼ら彼女らは中国全土に散って活躍した。

今、中国で日本語を学ぶ人口は48万人といわれるが、その多くは友好路線と、彼ら彼女らの熱意と努力に負っているといえよう。

「交流」とは、このようなことを言うのだろう。

9月24日の四川外国語学院。李克勇学院長(46)は初めて鑑賞した日本の茶道、華道に感動し、「心を安らげる哲学的な芸術」と評価した。私はその前日、「日本留学奮闘史」と題して講演した。中国近代革命が成功した背景に、多くの中国人留学生を受け入れた当時の日本があったことなどを話した。「東京の名園・八芳園に、孫文が住んでいた部屋から園外に通じる逃亡用のトンネルが用意されていた事実もその一つだった」と。講演の後、学生に「恨む以外になかった日本観が、今日から変わりました」と言われ、うれしかった。

日中両国の先人たちの奮闘で、中国では日本語教育は成熟し、グローバル化の深化に伴う学生の知識構造が格段にレベルアップした。これからは先人たちの成果を新しい時代に引き継ぐ第2期の創造が求められている。日本に期待するのは、中国の教育産業における日本の国際競争力である。それは、日本文化の可能性が試されている、ともいえる。母校の日本語学部創設30周年を見て、そう思った。

2005年 10月17日
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