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ワン・ミン 54年中国河北省生まれ。82年国費留学生として来日。法政大学教授。最新著は「中国人の愛国心」。 |
私の「日中異文化研究」の出発点は、宮沢賢治との出会いだった。
あれは1979年、晩秋の雨の日だった。重慶の四川外国語学院の大学院・日本研究クラスの授業中、私は一つの詩に感動を抑えられなかった。詩は慈雨のように心に染み入ってきた。
雨ニモマケズ
風ニモマケズ
……
文化大革命が終わって間もない頃で、施設も教材も貧しかった。その年の春に着任した日本政府派遣の石川一成先生(29〜91年。当時、神奈川県立国語教育センター主任)が、その日もガリ版印刷した手作りの教材を使って、賢治の詩を教えてくれたのだった。毎日、教材のガリ版を書く先生の指にはタコができていた。
イツモシヅカニワラツテヰル
その一行で、私は「諦観の境地」というものを知った。自然体の素朴は美しい。自己昇華の美意識というものに圧倒された。戦争の記憶にもとづいた「鬼のような」日本人像ではない日本人を発見した、といってもいい。私は賢治に吸い込まれ、貪るように作品を読んでいった。深く理解しようと、80年には「注文の多い料理店」を中国語に翻訳した。戦後中国で初の賢治作品の紹介になった。
賢治が生きた時代は、平和とかけ離れた時代だった。
1904年(明治37年)の日露戦争開戦は小学生の時だった。31年に柳条湖事件(満州事変)が起きた。翌?年に「満州国」が建国され、その年に五・一五事件が発生した。33年、日本は国際連盟を脱退し、戦争の道を一気に駆け上っていく。賢治が37歳の生涯を閉じたのはその年だった。
中国の大地が戦場となっていた。中国・西域を舞台にした晩年の童話「北守将軍と三人兄弟の医者」が生まれたのは、偶然とは思えない。砂漠の長い戦に嫌気がさして退役を選択した将軍の行動と、戦争を避けたい賢治の平和祈願とが重なっている。
「みにくい鳥」よだかが、殺し合いの環境から逃れる先を天上に求めて高く高く飛翔していく童話「よだかの星」に感動した。天に飛翔して体が燃えだしたと知った時に「たしかに少しわらって居りました」と書いた。
「虔十公園林」では、周囲に理解されない中でも、うれしそうに黙々と植樹を続ける主人公を描いた。「雨ニモマケズ」にある「ミンナニデクノボウトヨバレ/ホメラレモセズ/クニモサレズ」に通じている。
「いちばんばかで、めちゃくちゃで、まるでなつてゐないやうなのが、いちばんえらい」。賢治は「どんぐりと山猫」の中で、「一番偉い」をめぐって争うどんぐりに、一郎少年が世俗的な既成価値をひっくり返して「素朴の美」という原点に基づく判決を下す。それを読んだとき、「素朴の美」は日本文化の本質にかかわる特徴のように思った。
「どうか憎むことのできない敵を殺さないでいゝやうに早くこの世界がなりますやうに、そのためならばわたくしのからだなどは、何べん引き裂かれてもかまひません」(「烏の北斗七星」)。まるで銀河のように輝く賢治の言葉の星々に、私は何遍も祈りたい気持ちでいっぱいになった。
今日、日本と中国の間はぎくしゃくしている。相互にナショナリズムの興隆が不安視されていて、不信感が増幅している。そんな状況だからこそ、冷静な思考が求められている。個々人がしっかりしなければ、半世紀前の過ちの繰り返しを防ぐことができないかもしれない。
賢治の「農民芸術概論綱要」にある言葉は、今日も生き続けていると思う。「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」。それは、人々が相互に因果関係の存在であることを表している。国家や民族を超えた発信である。
賢治が人や地域をつなぐ理想郷として「イーハトヴ」という地名を造語したことはよく知られている。故郷の「日本岩手県」からインドを経由して世界に広がっていく共同体のイメージである。「虔十公園林」という作品の中、「その杉の列には、東京街道ロシヤ街道それから西洋街道……」とその一端を書き記している。賢治こそグローバル化を先取りしている。
詩「生徒諸君に寄せる」では「われらの祖先乃至はわれらに至るまで/すべての信仰や徳性は/ただ誤解から生じたとさへ見え/しかも科学はいまだに暗く」と、近代文明の受容に伴うマイナス面まで見抜いていた。
童話「雪渡り」では、歌や踊りが狐と人間に横たわる異文化の溝を超越させ、接近させる。「風の又三郎」も「鹿踊りのはじまり」も異文化交流のシンフォニーを奏でる。まるで21世紀の共生モデルを示しているようではないか。
没後72年。賢治は、時空を超えて現代に語りかけてくる。
残念ながら、中国ではまだ賢治の作品はそれほど知られていない。しかし、最近の日本人も、賢治が描いてきた「素朴の美」や「世界全体の幸福」といったことを忘れかけていると思えてならない。
苦悩を避けずに探求し続けた生活は、「求道すでに道である」(「農民芸術概論綱要・序論」)。賢治の道は、どの国においても、どの民族にとっても、どの時代、どの文化にも通じるものと私は信じる。