【国分】 いろんな話題が出てまいりまして、きょうはまず自由に3人でいろんなことを話してみて、ここにおられる50人の方がどういうところにぱくついてくるかという、その中からおそらく関心、そしてそれがこれからの運営につながっていくということになるのだと思います。論客が大勢いらっしゃいますので、発言は1回2分以内に抑えてください。
ということで、キックオフということになりますけれども、どうでしょうか。どの辺から突っつかれるかと。おそらく我々がアジア論、そしてアカデミズムと政策論、あるいはジャーナリズムとのかかわり、こんな議論もございましたけれども。
【天児慧・早稲田大学教授】 議論としては、今報告された中身についての議論に入っていけばいいのか、それともアジアフェローとしてこれからある提案をするとか、そういう議論にしていくのか、そこら辺は何ですか。
【国分】 結局、最終的にはそちらのほうに持っていくわけです。つまり、いろんなお話をまず聞いてみて、そしてその中からアジアフェローとしてこれからどういう議論におそらく集約していくのかという、数も限られていますから、多分年間3回か4回でやるということでありますので、そういうことも含めて皆様からどの辺に3人がアジアや、あるいはきょうは中国でしたけれども、もちろん朝鮮半島も東南アジアもありますが、そういう中でどこら辺に今ひっかかったかというところが1つの我々の問題提起なんですけど、その辺から少し考えてみたいということなんです。
ですから、我々がすべて決めてしまうということ自体が、これだけの論客が集まっている前では無理だということであります。
地球環境問題を真剣に
【畠山襄・国際経済交流財団会長】 何を議論したらいいのかよくわからないので、私は勝手に今のお三方の話に関係なしに敢えて言えば、こういうことを議論したらいいんじゃないかと2点だけ言います。
1点目は、アジアとアメリカという話がありましたけど、アジアとヨーロッパの時代に少しなるんじゃないか。そういう視点はどうだろうということであります。
それから2点目は、経済と文化という話がありましたが、環境という話がなかった。地球環境問題。これはアジア、中国とか、インドとか、そういうことを含めてですけど、地球環境問題をもっと真剣にお互いに議論すべきである。東南アジアを含めて議論したらいいのではないかと思いました。
【国分】 ありがとうございます。まさに我々の思ったとおりの、つまり議論されていないところを出していただくということが非常に大事なわけでありまして、畠山さん、最近のFTAの議論は非常におもしろいと思っていたんですけれども、ここの朝日にも、読売にも書かれていましたけど。
それでは小倉さん、お願いします。
日本とアジアのつながり 古代にさかのぼって考えよ
【小倉和夫・国際交流基金理事長】 小倉でございます。
これ(出席者リスト)を見ましたら、歴史学者が1人もいないんですよね。私はこのフォーラムを見て非常に驚嘆しているのは、アジアを議論する歴史学者が1人もいないというのはおかしいと。つまり、皆さん申しわけありませんが、明治維新から議論しているとは思いますが、そこに重大な間違いがある。聖徳太子はアジアを論じたわけです。ですから、日本と韓国、日本と中国を考えたときに、なぜ明治維新の後からしか議論しないのか。ここに根本的な問題がある。現在大学で教えていると、学生さんは歴史にそもそも関心がない。歴史認識とか何とか言いますけど、そもそも歴史そのものに関心がない。やっぱり朝日新聞で1つの世論をつくる一番大事なことは、歴史的な意識を国民がもっと持つということだろうと。そのためには、このフォーラムもまさに1つの役割は、もっとディメンションを広げる。特にアジアを議論するときには、きょうとか、きのうとか明治維新以後のことじゃなくて、もっと遠いかなたからの日本とアジアのつながりというものをもう一遍考え直すというほどのことがあっていいんじゃないか。
なぜそれを申し上げるかというと、アジア、脱亜論と言いますけれども、脱亜論のアジアというのは昔からのアジアじゃない。それは古いものであったというだけの話であって、アジアから何も脱しようとしたわけではない。古いものから脱しようとしただけである。ですから、アジアを議論するときに、アジアにとっての他者は何だとかということはもう一遍よく考える必要がある。それを考えるときに、やはり近代だけを考えていたのでは間違うと。やはり古代からずっと中世、なぜ日本が鎖国したか、そこまでさかのぼらないとほんとうのアジア論はできない。
歴史の知恵が欲しい
【国分】 ありがとうございました。
実はきょう私、最初はこのテーマをやろうかと思ったんです。といいますのは、現代中国をやっておりまして、かつては文化大革命までは歴史学者が発言していたんです。中国についての長い研究の京都学会にせよ、あるいは東大もそうですけれども、歴史学者が現代中国を語っていたんです。これが、政治家といいますか、政治的にかかわることの問題性というか、こうした文化大革命というこれにかかわったというのもあるのかもしれませんけれども、実はそれ以後、発言を控えているわけですよね。おそらく今、どこでもそうだと思いますね。歴史学者が現代について発言を控えるというのは、普遍的に見られる現象なんですよね。
しかし、我々は歴史の知恵が欲しい。中国とは何かという問題提起のときに、実はそこは発言されていない。きょうはこれをお話ししようとしたので、ありがとうございます。これはまさに私の思っていたところです。
ほかにいかがですか。
20年後の日本はアジアでどんな地位に?
【國廣道彦・元駐中国大使】 知的理想、思想を動員して、こういうことをやろうということについては、大変結構ですが、私は一番責任があるのは日本人が持っている漠然たる不安に答えを出すような議論をするべきではないかと思います。それは、先ほど出た環境の問題も確かにあります。インドと中国がせっせと環境を悪くすれば世界中悪くなりますし、日本はひどい目に遭いますからこれも1つですが、私が関心を持つのは、これから10年、15年、20年先の日本がアジアにおいてどういう地位を保ち得るかということだと思うんですね。
少子高齢化とか、日本にとってはあまり希望の持てない話ばっかりあって、片や中国、インドはこれからますます栄えてくると。そのときに日本がアジアにおいて尊厳、存在意義を保ちながら日本人は日本人らしく、美しい国かどうかは別としまして、誇りの持てる生活をしていくにはどうしたらいいかということが、アジアというコンテクストから言いますと一番大きな不安なんだと思うんですね。
そこに対して答えを出すような議論をいろんな側面からしなきゃいけませんが、1つ日本が生き残るのは、科学技術ということです。日本の子供が中国の子供と比べて断然算数ができないなんていうのだったら全然だめなので、とにかく人間の改造からしなきゃいけませんから、10年、15年かからないと教育の成果は上がりません。
それから、安全保障ですね。日米安保が基軸だと言いながら、やっぱりみんなちょっと不安があると。そのためにはどういう補完をしていけばいいのか、そういう議論をすべきじゃないかと私は思います。
経済統合の現実 踏まえた議論を
【榊原英資・早稲田大学教授】 私は小倉さんの意見に全く賛成でございまして、やっぱり特に中世から近世、近代に入っていくところのアジアの展開、そこにおけるアジアの欧米とのかかわり方、そういうことを議論しないと近代から現代に至るアジアと日本ということを議論しても、非常に不毛だと思うんですね。
グンダー・フランクという学者が、リオリエントの本を書いていましたけれども、まさにリオリエント現象は起こっているんですけれども、彼はやっぱり歴史をベースにしてそれを語っているわけですよね。ですから、それが非常に重要だというのが1点。
もう1点は、ちょっと国分さんの話を聞かないで、藤原さんの話が半分でコメントするのは申しわけないんですけれども、僕はアジアはあんまり理念的にとらえるというのは意味がないと思うんです。アジアというのはヨーロッパの反対概念として出てきているわけですから、むしろアジアをとらえるときには、私は経済が専門ですからそういうことを言うんですけど、現実に経済統合がここで起こっていますよと。現実にいろんな経済的な展開が起こっていますよと。そういう現実を踏まえて今のアジアをどう見るか。アジアとは何かとか、アジアの共通価値観は何かという議論をしても、あんまり意味がないと私はそう思います。
ちょっと挑発的な言い方になりますけど、おそらくそういうものはない。もちろん共通のものはあるかもしれません。多神教だとか、何だとか、いろんなことを言ってくれれば、それはあるかもしれませんけど、それをあえて探すということにそれほど大きな意味は僕はないと思っていまして、今アジアで展開している現実、特に経済面で展開している現実をどうとらえるのかと。そこで何か新しいものが出てきているのかどうか。
ですから、歴史的な展開を一方でとらえるのと同時に、現在起こっていること、私はアジアでは市場主導のマーケットドリブンのインテグレーションが進んでいるということを言っているわけですけど、これは事実としてそういうことが起こっているわけですね。そういう事実を踏まえて、アジアの人たちの意識とか、あるいは文化とか、そういうものがどういうふうに展開しているのかという議論をしたほうが私は生産的だと思うんですね。
今までのアジア論が不毛なのは、いつも価値観とか、アジアとは何かとか、そういうところから入っているので不毛なんじゃないかと。挑発的な言い方で申しわけございませんけれども、多少小倉さんのまねをいたしまして、挑発的な言い方をさせていただきます。
【国分】 全く予想していたことですので・・・。それでは天児さん、お願いします。
アジアの価値規範 いまこそ考えるべきだ
【天児慧・早稲田大学教授】 小倉先生と長いこと一緒にAANの社外委員をやらせていただいたときには、大体、朝日新聞社側から出てきたテーマについてまず小倉さんがたたいて、その次に私がたたくというパターンがあったんですが、今の小倉先生の話、それから榊原先生の話はかなり挑発的ではあると思います。やはり大物がこういうふうに言われると、我々はうん、そうだな、やっぱり歴史をもう少し長いスパンで見なきゃいけないとか、アジアもあんまり考える必要はないんじゃないかとか、そういうことを思っちゃうかもしれないんですが、私は今だからこそそういうことを考える、もう一度考え直すというか、新しい視点でもう一度考え直すということが問われているんじゃないかということをすごく感じるんですね。
それは実は国分さんが報告されたアジアという枠の云々の話の中で、アジアの脱亜という言葉、非常におもしろい表現を使われたんだけれども、しかしアジアの脱亜というのは、アジア全体が実は西欧化とか、従来のある種の価値観なり、発展のパターンがそういう方向に向かっているという話であって、その2番目にあるアジアにおける価値規範とはという問いかけは、もう少しオリジナルなアジアの物の考え方とか価値を考え直そうという問題提起ですよね。
これは必ずしもつながらない。つながらないところでとどまっていいのかという問いかけが多分あるはずで、私は、それは考える価値はあると思うんです。逆に言えば、今だから考えなきゃいけないと。やはり、グローバリゼーションが進み、確かにアジアにおけるいろんな経済発展が見られるわけですけれども、しかし同時にそこの中でこれでいいのかという、何となく漠然とした問いかけを我々はいつもしていると思うんですね。インテリゲンチアというのは、そこのところを明らかにする、クリアにしていくという知的作業が問われているのであって、それをアジアとしてくくるか、あるいはもう少し違う概念でくくっていくかはそれぞれの考え方だと思いますが、私はそこにこだわりたいなと思いますね。もう2分過ぎた?
【国分】 もうとっくに。
ナショナリズムの高まりも現実
【藤原】 挑発的な発言で若者が黙るというのは非常によくない慣行ですから、切り返すということをしたいと思います。
まず、歴史学者がいないということについては、加わる意味があるという点については大賛成です。これは挑発も何もない。おっしゃるとおりです。それは素人の歴史を避けるためです。
と申しますのは、アジアは古い、アジアの伝統、アジアの歴史を見るということが近代日本に入ってずっと繰り返されてきたことなんですね。そして、素人によってありもしない過去をつくって、それによって西欧に対抗するという現実としてのアジアというものが出てくる。これは実態としてのアジアと違うんです。
実態としてのアジアの地域史は随分発展しています。これは私の専門じゃないですから聞きかじりですが、海洋世界としてのアジアという話をすると、実は非常に多角的な通商関係が東南アジアから中国沿海部、さらに沖縄まで含んで成立していて、ここでは日本は中心ではないんですね。海で見ると地図が全く違って見えてくるとか、いろんな図面があります。
おもしろいのはこの過程で、大体、西洋の学者が中心なんですね。アメリカ人、フランス人、あるいはドイツ人などがしている仕事、日本人も入ります。ここでは、それまで国民国家の歴史の先祖として昔を見てきたところを切り離して、実在としての過去を見ようという議論をしているんですね。
ちょうど同じときに、東南アジアの学者、中国の学者のかなりの人たちが国民国家の過去という形で過去を切り取ろうという作業をしているんです。ですから、過去を語るということは、実は現在の色眼鏡を語るということにもなるということになります。
この辺は長い話をするときりがありませんから、その意味も含めて、いわば論争的な世界としての過去を考えるためにも歴史は不可欠だろうと思います。しかし、自分の議論の正当化のために使うようないい加減なのはやめようよということです。
それからもう1つ、現実を見よう、理念の話ばっかりじゃない。これは榊原さんがおっしゃるとおりだと。おっしゃるとおりなのですが、ただそのときに現実に経済統合が進んでいるじゃないか、これが現実だとおっしゃったのは、なるほど榊原さんにとってはこれは現実なんだろうなと私は思った。というのは、ナショナリズムに凝り固まって、ほかの国の人たちに対して偏見を表明する人たちが増えてくるという現実もあるんですね。ある時代のある地域の人たちがこういう考え方をするようになる。必然でも何でもない。だけどそれが増えちゃった。さあ、どうしましょう。これも現実なんです。
これは自分の理念を投影する理念論じゃなくて、こんなことをこの人たちがどう考えるようになったのかというお話なんですね。やっぱりそれを考えておく必要があるだろうと思います。つまり、ナショナリズムとデモクラシーというのは、望ましいかどうかという問題じゃなくて、アジアにできてきちゃったものなんですね。そのあつれきは残るだろうと考えています。
世界の多極化とアジアへの影響
【本田優・編集委員】 早く言っちゃわないと先に言われちゃうからと思って申し上げますが、今まで出てきたのとちょっと違う、畠山さんのおっしゃったのとちょっと似ているかなと思うんですが、世界的な大きな流れとしての多極化というものがアジアにどういうインパクトを及ぼしつつあるのかという側面は、やっぱりきちんと見る必要があるんじゃないか。その多極化ということの一番根本は何かというと、アメリカの一極、あるいはかつての二極。二極時代も、やっぱりアメリカの一極の要素が強かったと思いますが、このアメリカの影響力というのがいろいろな意味で落ちてきていることによって、その一方、中国、それからインドという新しいパワーセンターになる可能性のある国が出てきていることによる多極化、これがアジアにどういう影響を及ぼすかと。
しているんだろうと思うんですが、ただ欧州とアジアの大きな違いは、欧州は1つにすんなりとまとまってその中にパワーセンターというのが幾つか出てくる状況ではないけれども、アジアは明らかにもっと流動的な変化の目になりつつあるなと。どういう方向に行くかわからない。そこは注目すべきであると思います。
【国分】 朴さん、そろそろいきます? せっかく韓国から来たんですから。
アジアの共同のビジョンは何か
【朴チョルヒ・ソウル大学副教授】 朴でございます。きょうは、別の仕事で来て突然お邪魔させていただきました。
きょう話を聞いて、私の観点から見ると3つぐらいの概念で考えてみたらどうかという感じなんです。1つ、きょう話に流れているいろんなアジアとか我々が語るのは、この地域の国々が平和、共存して共同繁栄できる環境は何なのかということをするために、その話が必要だと思いますけど、歴史認識とかを語るときも、歴史そのものが大事ではなくて、その問題と平和と繁栄にどのような関係があるのかということを考えなきゃならない。しかし、平和というか、そのような基本的な観点がそんなに語られてないということはちょっと残念だなという感じがいたします。
2点目は、きょう、アジアを形成するためのいろんな国民国家の役割とか民族主義とかをいろいろ言われているんですが、榊原さんがおっしゃったように、プライベート・マーケット・ドリブン・インテグレーションは既に行われていることで、その中でアジア共同体とかアジアを語るときの市民の役割、プライベートセクターの役割は何かということを考えなきゃならないのではないかという感じがいたします。
最後に、小倉さんがおっしゃったように、歴史的な観点というのは非常に必要だと思いますけど、我々アジアを語るときは過去を考える。しかし、私が若いからそう言っているかもしれないけど、アジアの未来はどうなのかと。我々が考えている共同のアジアのビジョンは何なのかということを語らなくて過去ばっかり話してもしようがないという感じがするんです。だから、我々が持っていく未来というのは何かということを、少し議論してほしいという感じです。
【国分】 ありがとうございました。歴史学者がいないということはなくて、そろそろ劉さんあたり、どうですか。盛んにメモされていましたね。何か当然ありますよね。
「アジアとは何か」は避けて通れない
【劉傑・早稲田大学教授】 私は近代史が専門で、先ほどの文脈で言うと歴史学者じゃないということなんですが、ただどこからが歴史なのかというのは、かなり見方によって違ってくると思うんです。今の平成生まれの大学生から見ますと、戦後からの歴史は立派な歴史なんです。しかし年代によって、あるいは過去の経験から見ますと、やはり江戸時代、あるいはさらにさかのぼっていかないと現在の歴史は語れないというのはわかります。
ただ、近代の歴史というものを考えるときには、もう1つ大事なのは、先ほど来ずっとあるのは西洋との関係なんですが、アジアを考えるときには、今の中国も日本も、西洋、あるいはアメリカ抜きにしてアジアは考えられないというような状況が1つあって、アジアがもし1つであるというふうに考えるときには、1回ヨーロッパやアメリカに飛んでからアジアのことを考えるというような現実が1つあるわけです。ですので、これはアメリカやヨーロッパを介しないとアジアは成立しないというふうに考えてもいいような、アジアとヨーロッパやアメリカとの関係は現実にあるわけですから、そういう文脈の中で考えなければならないというのが1つ。
それからもう1つは、アジアとは何かを考える意味があるのかないのかということなんですが、アジアとは何かという問題提起をするときに、常にこれが意味があるのかないのかというのは、必ずそういう議論が出てくるんですが、それでも人々は、ずっとこれを考え求めて続けているのは一体何なのかということもやはり考えないといけない。つまり、なぜ意味のないことを人は求め続けるのかということなんです。
そこを考えますと、歴史を考えてみますと、実は意味のないことを求め続けてきた歴史なんです。ですので、むしろそれを通して考えたときに、例えば中国が歴史を振り返ることによって未来を構築しようとしているわけです。伝統的な部分を現代に生かして共産主義のイデオロギーにかわるようなものとして、まさに歴史や伝統に戻って、これを構築しようとしております。これは国内に限らず世界秩序についても構築しようとしているわけです。そのアジアを考えるときにも、やはり同じような自己認識で考えているわけです。
ですから、このようなアジアとは何かということは、我々は避けては通れない。現実としてはアジア、あるいは中国がそれをつくろうとしていると。それを目指そうとしている、そういう力がどうしても働いているわけです。その力をどういうふうに真正面から取り込んでいくのかというのがもう1つの課題ではないかなと思うわけであります。
日本はアジアの「中」なのか「外」なのか
【王】 小倉理事長先生の歴史のことに共鳴を感じております。実は、私は歴史学者ではなくて、学徒でしかない立場ですけれども、来る直前に少し勉強してまいりました。
そこで見えてまいりましたのは、663年、白村江の戦いが日中の間にあったんですけれども、遣唐使の派遣は中止しませんでした。それから倭寇の時代も、そして日中戦争の時代にも、止まらなかった日中のつながり、あるいは日中韓、東アジアのつながりは文化を中心とするソフトパワーなんです。経済はもちろんのことですので、ここで強調する必要はないと思います。もし歴史から学ぶことがあるとすれば参考になると思い、申し上げました。
もう1点、昨年から西洋各国の日本研究者たちと議論してまいりましたけれども、そこで西洋の研究者たちが、日本に向かうときにはいつも戸惑うということを言っていました。戸惑っているのは、日本をアジアの中として取り扱うのか、それともアジアの外として取り扱うのか。日本はいつもこの2つの間で揺れ動いていると。しかも、それは日本人自身の気質によって西洋人がそう見えているというような話でした。ということは、私は日本は古来の和魂漢才、特に明治以来の和魂洋才という両輪を生かして再生産してきた知恵も教訓も整理しておく必要があると思います。
そうすると、西洋人もはっきりと見えるでしょうし、アジアも日本が見えていくでしょう。そして、そこから自分を投射していって、さらにアジアとは何かを考えてもいいかもしれないというふうに思います。
以上でございます。
【国分】 いかがでしょうか。例の猪口先生とか田中明彦先生がやっているアジアバロメーターからすると、アジア人としての意識が一番低いのは、アジアの中では中国と日本というのがよく出てきますけれども、韓国とフィリピンが非常に高いという結果が出ていますけれども。ですから、ある意味では日中がアジアというものを媒介としながらの可能性というのもあるのかもしれません。
それでは榊原さん、もう一度。
アジアを概念として語るのは不毛だ
【榊原】 2度目で申しわけないですけども。アジアを概念として語るということが不毛だということを、もう一度申し上げたい。
なぜかといいますと、中世から近世にかけて、例えばムガール帝国の人たちが、アジアが何かということを考えていたか。明の人たちが考えていたか。アジアという概念が出てきたのは、近代において欧米諸国にアジアがいろんな意味で圧迫されて植民地化されるプロセスの中で、欧米の反対概念としてアジアというのができてきたわけです。インドと日本はすごく違いますし、特に西アジアまで行ったら全然文明圏が違うわけです。そういう中で、アジアを1つの言葉で語るということ自体が、我々のある意味で欧米に対する敗北なんです。
つまり、欧米の植民地主義に対するアンチテーゼとしてアジアというものが出てきたと。それを近代との関連で語り続けている以上は、ほんとうの意味でのアジアの新しい展開というのはないと思うんです。中国は中国ですし、韓国とか日本というのは中国文明のデリバティブという部分があるかもしれません。インドはインドですし、イスラム諸国はイスラム諸国なんです。それをひっくるめてアジアというのはとんでもない話で、それはそれぞれの国の文化と伝統と、もちろん藤原さんも言われたように海を通じてのインターアクションというのがありますよね。これはこのごろ海の歴史みたいなことが出てきて、いろんな方が歴史学者が語っていると思う。そこでのインターアクションと。そのときは、まさに今我々がアジアと言っているものが世界だったわけです。ヨーロッパというのは西の果てのほうにあって、若干貿易のメリットを得ていたという世界ですから、欧米中心の歴史概念をひっくり返すためには、我々がアジアというものを今までのような形で語ることをやめなきゃいけないんです。それが私は非常に重要なことだと思いますから、理念的なアジアを語るということについては断固反対したいと思います。
【国分】 ここにはアジア太平洋研究科の先生が2人おられますので、今、もう反論が2人出ていますね。それから、アジア経済研究所の方もいますので、自分自身の存在基盤にかかわりますから、まず園田さん。
アジア人意識が低い日本、中国、インドネシア
【園田茂人・早稲田大学教授】 実は(AANの共同研究に)参加させていただいたときには中央大学のと言っていたんですが、なぜか早稲田大学の園田でございます。
まず、先ほど3人の先生方から、どこにひっかかるか聞きたいということなんですが、私は藤原先生の専門家はアジアを狭く考えているけれども、アジアの論壇では大きく語っているというそこに大変引きつけられました。それはどうしてかというと、アジアというのは極めて空間的にも時間的にも、論理的には非常に大きなスペースで、それを語ろうとする意思のある、あるいは能力のある、あるいはそういうことが求められる学問と、そこから逃げようとする学問があるとすると、私の言う学問というのはそこから逃げていこうとする学問に入っているからです。多分、人類学の人たちはもっと逃げようとします。したがって、彼らがアジア論をどうやって展開するかというのは、実は聞きたいんですが、彼らは一番語ってくれないだろうと思います。
その問題は、なぜそうなのかといったときに、先ほど歴史学者の問題は、要するに現代を語れなくなった何かがあるんだという話があったと思いますが、社会学者も人類学者も、多くの場合、アジアの多様性というのに目がくらんで、そこから大きく語ろうということが非常に難しくなる。先ほど、アジアをどう語るかという話がありましたが、アジアの何を見るかというのがもう1つ重要だろうと思います。
先ほど榊原先生の話が、アジアを抽象的に語るなという話と、国分先生のアジアバロメーターの話があったので、今僕がすごく悩んでいる事実を1つだけ申し上げたいんです。先ほどのアジアバロメーターで日本、中国、もう1つ実はインドネシアがそうなんですが、非常にアジア人としての意識が低いと。じゃ、アジア人意識が高い人はどんなのかと見ると、実は英語圏の人たちと全然違う結論が出ているんです。どういうことかというと、日本、中国、インドネシアではインターネットを見る人のほうがアジア人という意識を持っていないんです。ところが、英語をよくしゃべる、フィリピン、マレーシア、シンガポールでは、インターネットをよくクリックする人のほうがアジア人だと思っているんです。
これは何を意味するんだろうというのがずっと考えて、今アジアには2つの中間層ができ上がっているのではないかという仮説を立てているんです。要するに、どこに注目するかによって全く違うアジア像が出てきてしまう可能性がある。私たちは、自分は何を見ているのかというところを意識しながら、アジアを表現したり、アジアを説明していかなきゃいけないんじゃないかなというふうに思っています。
【国分】 それでは趙さん、お願いします。
イニシアチブを取ろうとせずにアジアを語れば・・・
【趙景達・千葉大学教授】 私は歴史学が専門です。今の話を聞いておりまして、榊原さんの話は大変よく理解できて、全くといっていいほど同感であります。
岡倉天心がアジアは1つだと言ったのは有名ですけれども、あれは竹内好に解説させれば、抵抗において1つなんです。アジアというのは多元極まりないです。これを1つのものとして理念系的に打ち出したのは、榊原さんの言うように欧米がやったわけであって、そのことを、今度は日本がアジアに押しつけたわけです。本来、多元的なものとしてあるものを日本人が1つのものとして理念化し、それを蔑視、排除していった、そういう歴史があろうかと思います。
日本に蔑視されたアジアの側はアジアをどう認識したかということが実は問題であって、私が専門とする朝鮮では、少なくとも日本が言うアジアに対しては警戒的です。当初から警戒的でした。後になって、日本人はほんとうにアジアのことを考えていると思った人たちが親日派に走っていきます。朝鮮では、アジアに対する対応の仕方は是か非かの2つです。そして、是といった人間は、後に近衛の東亜共同体声明のときに、雪崩打って日本万歳と走っていって、これは植民地でしたけれども、近衛に見事にだまされるという話になるんです。
したがって、アジアを語ることはアジア人にとっては、少なくとも朝鮮人にとってはそれほど重要ではないし、あまり語りたくないことなんです。にもかかわらず、日本人が過去一貫してアジアを執拗に語りたがる。それは一体何なのかということをまずもって考える必要があると思うんです。なぜアジアを語らなければいけないのか。アジアを語ることは、実は自画像なんです。陰画としてのアジア、陽画としての日本。陽画としての日本を引き立たせるためにアジアを語り続けている。少なくとも朝鮮や中国では、日本がイニシアチブをとろうとしたことに対する懐疑の念というのがあったのであって、日本がイニシアチブをとるというような考え方を、まずもって捨てた上でアジアを語るということならば、私は理解が得られるだろうというように考える次第です。意味がないことを語るというよりは、意味があるように語っていくべきであろうというふうに考える次第です。
【国分】 非常にわかりますよね。自画像からすると、今の美しい国というのはどういうことになってくるのか、これまたおもしろい議論ですよね。日本そのものに返ってきましたけど。
そうすると、これは畠山さんにお願いしますけれども、先ほどヨーロッパとアジア、ちょっとそこら辺をもう少し敷衍していただいて、そうするとヨーロッパになると外岡さんとか脇坂さんもいますので、あとでお願いします。
韓米FTA締結は大きな事件
【畠山】 まず、アジアについてあんまり言うなというのか、そういう議論がありましたけれども、そうするとアジア経済研究所も困るかもしれませんが、朝日新聞アジアネットワークというのもさぞ困るだろうなと思います。(笑い)
私、さっきヨーロッパと申し上げたのは、韓国の方が発言なさいましたけど、やや誇張してのあれですが、ここで議論するのは学会の論文を書くわけじゃないんだから、マスコミに出る話を言うわけだから、歴史を言うのもいいけど、未来につながっていないと意味がない。未来につながっている話としてやや誇張して言うと、韓米自由貿易協定というのは非常に大きな事件だったと思うんです。話が長くなって恐縮ですが、アメリカはこの地域にインスティテューショナルな結合を求めていたわけです。したがって、その1つの解がAPECだったわけです。
もう1つは、個々の東アジアの国とのFTAをつくろうという話だったわけです。シンガポールとはやりましたけど、シンガポールは小さいから、韓国が相手になったということは非常に大きいわけです。
それで、ヨーロッパが興奮したわけです。ヨーロッパが興奮して、5月7日から韓国とFTAの交渉を始めることにした。それだけじゃなくて、ヨーロッパは、それだけじゃもったいないからと考えたかどうかは知りませんが、インドとやると。それから、ASEAN全体ともやるということで、ヨーロッパとアジアの関係がこれからものすごくインスティテューショナルなフレームワークという意味合いで近くなるわけです。
榊原さんが言うように、マーケットドリブンの経済統合は進んでいますけれども、インスティテューショナル面では非常に遅れていたのが、アジア自体ではある程度進展し、アジアを超えて、本田さんの言葉で言えば多極的なつながり、そういうものができているということで、これのきっかけをつくったのは韓国であって、ヨーロッパとやろうとしているのもまずは韓国であって、非常に大きな役割を、それほど大きな国じゃないけど、果たそうとしているんだなというところを少し強調したらいいのではないかというのが1つ。
それから、環境と言いましたけど、地球環境、CO2のエミッションです。あの対世界シェアです。韓国の対GDPの世界シェアを超えているわけです。OECDの加盟国でそんな国はないわけです。上げたりおろしたり恐縮ですけど、例えばインドは超えています。炭酸ガスの排出量のシェアがGDPのシェアを超えているわけです。中国も超えています。韓国も超えているんです。韓国は、そういうことはやめてもらいたい。OECDの加盟国なんだから。ついでに、インドと中国もやめてもらいたい。そういう問題があると思うんです。
そういうことを議論していくのがおもしろいんじゃないかなと、勝手に思った次第であります。
【国分】 ありがとうございました。私も、実は過去1カ月の中で畠山さんの書かれた朝日の論壇が一番、自分の書いたのを除いておもしろかったと。
それでは李さんにいって、それから園田さんにいってください。
地球温暖化対策での日本の役割は?
【李志東・長岡技術科学大学教授】 まず、非常に勉強になりました。半分ぐらいついていけないですが・・・。
私は一応経済をやっている人間で、経済のことを考えると、人々がどうやってもっと幸せになるのかということを考えます。そうすると、ここでアジアフォーラムということになりますので、アジアがよくなるためにどうすればいいのか。非常に現実的な問題ですが、それを考えるに当たって、アジアが現在どのような問題に直面しているのか。その問題を解決するためにそれぞれ自分でやってもいいし、ただ自分でやると効率が悪いから解決できないこともあるから、それだったらお互いの優位性を利用して協力してやっていくというようなことを、きちんとここのフォーラムで議論して対策等を検討するのは非常にいいのではないかということと、もう1つ、日本でアジアのことを考えると、アジア全体を考えることによって日本の、例えば国際的な地位がどうやって高まるのか、高めるのかというのは非常に重要で、その段階で、最近のことですと地球温暖化対策において日本がどういう役割を果たすことができるのか。これは単純に技術協力等ではなくて、もう1つ非常に大きいのは、2013年以降の枠組み交渉、日本がどういうふうに出るのか。それを、例えばここである程度の議論ができればおもしろいなというふうに思っています。
自生的なアジアの可能性が今生まれてきている
【天児】 榊原先生がかなり断定的にアジアを語る必要がないと言われたので、やっぱりちょっと。あと、今さっきの趙さんのお話と絡めて考えまして、おそらく榊原先生がおっしゃった、要するにアジアというのはアンチ欧米というところから出てきたというのはおっしゃるとおりで、それはあまり議論する必要もないぐらい我々は共有しているわけで。それから、過去のアジアを語っていたことが、僕はアジア主義もそんなに単純な日本の自画像だけじゃないと実は思っているんだけれども、しかしある意味で日本主義といいますか、そういった部分があったことは事実です。その点はそれも認められると思うんです。
問題は、私は先ほど今だからこそ新しいアジアを語る時期だということを申し上げたのは、そういった過去の考え方を今超えるような1つの大きな動きがあるということなんです。それは、もちろん経済を専門にされている方に、経済のリファクトする地域統合なんていうことを言う必要はないんですが、それだけではなくて、人の動きというのがものすごくアジアの中で始まってきて、例えば私のところの宣伝をさせてもらいますと、アジア太平洋研究科という400名ぐらいいる学生の中の60%以上が留学生で、その大半がアジアから来ているわけです。これは20年前、30年前、日本では考えられない事態がいま起こって、ほとんどアジアの人がそこで一緒になっていろんなコミュニケーションをし、いろんなものを創造していくという作業が始まっているわけです。
そういう意味で、今のアジアを語るということはまさに水平的な、あるいは内発性というか、自生的なアジアの可能性が今生まれてきているんじゃないのかという意識があるわけです。そこのところを我々はとらえないと、過去の部分だけを見て、そこからだったらアジアを語る意味はないかもしれないです。それは私も納得しますが、そうじゃない部分を今とらえるべきじゃないのか。それは経済だけ、グローバリゼーションだけの視点からでは決して語れない。そういう意味で、例えば朴先生、きょう実は私と話をすることで来ているんですが、こういう日常的な大学のレベルでもいろんな協力関係が国境を超えて始まってきている現実があるわけで、そこのところから必ず新しいものが生まれます。そこのところを我々は理論化していくとか、未来につながっていくフレームワークにしていくとか、それが問われているんだと思います。
「戦争の歴史」の欧州 「交流の歴史」のアジア
【外岡秀俊・編集局長】 東京で紙面担当の編集局長をしております外岡と申します。きょうは、新聞とかテレビでしかお顔を拝見したことのないそうそうたる方がいらして、丁々発止とやり合うのを見て大変わくわくしながらお話を伺っております。
最初に1つ、これは話の流れから外れちゃうんですが、お知らせとお願いなんですが、実は来月から東アジアの歴史という年間企画が始まります。きょうは実はその主要メンバー、取材メンバーがここに参加させていただいております。ちょっと手を挙げてください。五十嵐補佐、それから五十川、隈元、小菅(各論説委員)ということで、1年間をかけて近現代の東アジアの歴史というのは一体何だったのかと。中国、韓国、日本を展開しようということで、今後、このフォーラムの参加の方々に取材に伺う機会が多いかと思いますので、ぜひともお願いしたいと思います。
先ほど小倉さんの話にほんとうに目からウロコだったんですが、ヨーロッパにいて前々から不思議だったんです。ロンドンとパリは何であんなに近いところにあるのかと。金大中さんの本を読んでいましたら、あの2つの国は昔から戦争していたんだ。それでお互いに砦をつくって、それが最前線の都になったんだというのを書いていて、なるほど、そうだなと思ったんです。ヨーロッパというのは不思議なことに、古くさかのぼればさかのぼるほど戦争の歴史、対立の歴史が浮かび上がるわけです。ところが、アジアはそうじゃない。おそらく、さかのぼれば、もちろん元寇はありますけれども交流の歴史、文化の歴史が浮上してくる。そこは、むしろ我々の強みなんだろうなということを伺いながら思いました。
それと、確かに日本は列強のまねをして侵略をしました。しかし、その前に、長い歴史の間に華夷秩序というのがあったと思うんです。それは、中国を中心とするアジアの秩序。それが欧米とのエンカウンターによって崩れていった。そのとき、日本がそこに出ていったと。しかし、今またその華夷秩序が戻ろうとしているかのように見える。アメリカと並んで中国、インドが再び力をつけてきている、そういう時代にあるんだと思うんです。
もう1点だけ。先ほどの畠山さんのお話なんですが、韓米が協定を結んだ日に、ヘラルド・トリビューンの見出しは、1面でハイテクの日本、巨大なマーケットの中国、それに挟まれた韓国がアメリカを選んだと。実は、これはヨーロッパも同じで、EUもまさに心情的には韓国と同じだと思うんです。そこで韓国はアメリカと手を結んだ。しかし、日本も中国と対抗するカードを切るためには、アメリカと結ぶかインドと結ぶかというように、お互いにどこかをパートナーにしなければお互いが対抗できない時代になっている。その意味では、本田さんが言っていた多極化の時代がもう既に進行しているんだろうなというふうに感じました。
ちょっと長くなってすいません。
アジアを語るときにつきまとう「包摂」と「排除」
【岩渕功一・早稲田大学教授】 ほとんどの方は初めましてになると思いますが、岩渕と申します。自分は文化とかメディアのほうをやっていまして、最初、きょう来たときに、何と堅苦しい会議で、また何と大きい話ばっかり出ているんだろうと思って、自分の居場所がないかなと思っていたんですが、いろいろおもしろい話が大分出てきたので、ちょっと私の関心に引き寄せてコメントをさせていただきます。
榊原さんがおっしゃったようにアジアを理念として抽象化して語るのは確かに意味がない。これはだれもがそう思っていると思うんですけど、やはり多くの方がおっしゃったように、常にいろんな欲望であるとか利害、あるいはイメージなどが入りまじった形でアジアというものが、時々に、ある国、ある地域、ある人によって語られてきているわけです。その語られ方、だれが語って何のためにというのは真剣に見ていかなきゃいけないでしょうし、どのアジアを見ているのかという、さっきの園田さんの話もすごい重要だと思います。
いやが応でもアジアという言葉が使われるときに、何らかの形で理念化されるというのは逃げられない話で、それをきちんと押さえていく。そのときに、語られていない関係、これは天児さんがおっしゃったことと重なるんでしょうけれども、アジアという形、理念化では語られていないもの、あるいは実際に起きているつながりといったものを我々が見ていくということ、それに言葉を与えていく。それは多分アジアという言葉じゃないと思うんですけど、違う言葉を与えていくという作業、これがものすごく大事だと思うんです。これをやらずしていたら、アジアについて云々しても確かに何の意味もないというふうに思います。
別の観点から見ると、経済統合が進んでいる、確かにそのとおりですけれども、アジアを語るときは常に包摂と排除がつきまとうわけです。岡倉天心みたいに全部のアジアを繰り入れようとしては抽象的なものもありますけれども、最近特に経済、文化、政治の分野で見ていると、アジアという言葉が出たときに必ず包摂と排除がつきまとうようになっていて、だれが、どの地域が、どういう層が含まれていて、あるときは含まれていてあるときは含まれない、これもまただれがどの目的でアジアを使うかによって変わってくるわけですけれども、包摂、排除、園田さんの中間層の問題もそうでしょうけれども、このロジックはきちんと見ていかなきゃいけないし、これに関係すれば、アジアの国民国家といったもの、民主化といったものがアジアの中で重要だという話がありましたが、そのとおりなんですが、国民国家という枠組みでアジアといったものがどんどん語られるようになっているのは間違いないと思うんです。日本対中国、韓国。これを超える視点といったものがやっぱり大事で、国民国家という枠組みでは見えないものを我々はどう見ていくのか。それは実際に経済でも、文化でも、政治でも、あるいは草の根でも起きているわけです。
そういったつながりを、我々がほんとうに心の隅にしみ込んで国という枠組みの溶解みたいなものをみずから踏むようなことはできないと思いますけれども、どれだけ自戒的に向き合って、起こっているものに何らかの言葉を与えていけるのかということ。そうすると、先ほど言った環境の問題にしても、あるいは私が今興味ある移民、多文化、宗教の問題、格差の問題。これなんか国境を越えて起こっている共通した問題ですし、国民国家、日本対中国という枠組みで見えてこない。こういう見えてこないような公共性を見ることが大事だと僕は思っています。
最後に、王さんの、まだどなたもコメントしていないので一言、私も文化ですので言いますと、僕はソフトパワーという最近の議論にものすごく懐疑的で、限界が丸見えにもかかわらずみんな使うと。青木さんも文化庁長官になられましたけれども、僕はあまり信用してないんです。ソフトパワー、あるいは文化交流がもたらす友好関係。もちろんいろんな新しい相互理解は生まれていますし、私もそういう研究はしていますけれども、それもいろんな新たな不均衡が再生産されたり限界がやっぱりあるので、そろそろソフトパワーがすばらしいということはやめて、ソフトパワーが見えてきていないものを拾う作業をするべきじゃないかなと私は思います。
ですから、いかに我々が今の21世紀初頭の日本、あるいは中国、韓国、東南アジア諸国の中で、支配的な意味で語られているアジアの使われ方、あるいはソフトパワー、友好関係といったものからこぼれている、包摂されない、排除されているもの、関係性をどう見ていくかということが、このフォーラムでできたらおもしろいかなと思います。
長くなりました。
自らの過去と和解できていない日本
【小倉】 私が長くヨーロッパにいて一番感じたことは、ヨーロッパがほんとうに未来を語り出したのは、ヨーロッパがほんとうに過去を見たときなんです。過去を直視した瞬間から未来を語り出したんです。
これはどういうことかというと、今中国と日本とか、韓国と日本とか、リコンシリエーション(和解)という言葉を使う学者さんが増えていますけど、ほんとうの意味でのリコンシリエーションというのは、他人とのリコンシリエーションじゃなくて、自分の過去とのリコンシリエーションだと思うんです。日本の場合、できていないのは、日本の自分自身の過去とのリコンシリエーションができていない。これが最大の問題で、なぜヨーロッパでドイツとフランスがリコンシリエーションができたかというのは、フランスにもファシズムがあった、ヴィシー政権があった。スペインは人民戦線とのすごい戦争があった。そういうみずからの中に過去があるから、決して何もドイツとフランスが和解したわけじゃないんです。みずからがみずからと和解したんです。
そのプロセスというのが非常に大事で、アジアにそれを持ってくると、私はこのフォーラム、例えばベトナム戦争、何しろどなたもおっしゃっていないけれども、やっぱり今のイラク戦争の時点で、アメリカ的な意味でのベトナム戦争じゃなくて、ベトナム人の言うところのいわゆる抗米戦争ですね。その意味を、ベトナムがアジアの側からもう一遍見直してみるということは絶対必要だと。なぜならば、あれは南と北とのリコンシリエーションの始まりですから。つまり、ベトナムというものが、ベトナム戦争の結果、南と北がついにリコンサイルしたわけですね。
これをどのように考えるかというのは非常に大きな問題であって、なぜベトナムは反米にならないかというのは、みずからと和解したからなんです。だから、みずからとの和解のプロセスというものをヨーロッパから学んでいく、ベトナム戦争のプロセスの中で考えていくというのは非常に大事なプロセスだと思うので、ぜひこのフォーラムでもベトナム戦争というものをもう一遍見直してもらいたいと思います。
文化の果たす役割を考える必要
【横田雅弘・一橋大学教授】 私は、留学生の現場とまちづくりの現場にかかわっているので、どういうふうにこの話題にかかわっていったらいいのか考えあぐねていたんですけれども、留学生と日ごろずっと接しているので、そんなところから少し考えていることをお話ししたいと思います。
米国と日本という非常に明瞭な関係の中で動きがとれなくなっている、そんな中から、日本が自立的な一歩を踏み出すとすると、このアジアというのは非常にいいチャンスではないかと思います。というのは、自立的なもののためには、やっぱりあいまいなものの中から自分というものを生み出していく、位置づけをしていくという必要があるからで、ただ、そのあいまいなアジアの中で、日ごろ留学生や日本人学生と接していると、日本はあいまいだということはよく言われるんですけれども、あいまいなアジアの中にあいまいなまま入っていってもちっとも評価されない。日本人の学生はかなりひるんでいるような印象を受けています。留学生のほうがずっとはっきりしています。ほとんどの人がアジアから来ているわけですけれども。
そうすると、このあいまいなアジアの中で日本の自立ということを考えていくときに、どんな方面からやっていくか。1つは、もちろん競争をもって臨むという意味では経済というものが非常に重要なんですけれども、一方で、東アジア共同体と共同を持って臨むというスタンスをとるときに、文化というものが出てきたのかなというふうに思います。
岩渕さんがソフトパワーの限界ということをおっしゃいました。文化が競争を回避するための手段として使われるときに、文化は非常に雑駁なものになってしまうと思います。しかし、一方で経済の弱肉強食的な部分がある中で、この文化を戦略的に使おうという考え方そのものは、深みがどこまであるかは別としても、戦略的に考えれば当然そうなっていくだろうというふうに思います。
結論があるわけではないんですけれども、一方で経済、一方で共同体というものを考えるときに、文化がどんな役割を果たし得るかということについては、これからもっと深く考えなきゃいけないので、外で生まれてきたソフトパワーというような言葉をそのままうのみにして使うということについては、私も非常に限界があるというふうに思っています。
アジアにおける「自由」と「民主主義」の意味
【若宮啓文・論説主幹】 すごく刺激的でおもしろく聞かせていただいたんですが、朝日新聞の論説の若宮です。
1点だけ、さっきから出ていることですけれども、私はやっぱりアジアに自由と民主主義というのが今後共通のものとしてあり得るのか、あるとすればどういう形なのかというのは避けられないんじゃないかと思っています。避けられないという単純な理由は、安倍さんがそういう問題提起をしているからです。安倍さんがにわかに自由と民主主義と言い出して、それは自由民主党総裁だから当然かもしれませんけれども、今までの自由民主党総裁は、お題目的には自由と民主主義と言ったかもしれないけど、それをアジアに向けて声高に言ったことはないと思うんです。何で安倍さんが声高に言い出したのかというのは、それ自体非常に政治的におもしろい課題だと思うんです。
私は、幾つかあると思いますけれども、もちろんブッシュがイラクで自由と民主主義と言っているのに連帯しようというのもあるでしょうし、中国を包囲するのに都合のいいタームだと思っているという面もあるでしょうけれども、それだけでもないだろうと思うんです。やっぱり何なんだろうと。
というのは、私は、きょう朴さん来ているけど、日本にいると自由とか民主主義ってすごく水とか空気みたいな話でだれもありがたがらないんだけど、私も軍事政権時代の韓国に1年いた感じからすると、それは民主主義とか自由というものへの渇望感みたいなものはすごかったわけで、だから、それ自体がすごく言葉としてインパクトのある言葉だと思うんです。
中国では、今自由とか民主主義というのがどういうふうに受けとめられるんだろうか。かつての自民党総裁でも、アジアに向かって自由と民主主義と言わなかったのは、1つは韓国への気兼ね。もう1つは文革の当時の中国と日中友好をやったからだろうと私は思いますけれども、そうすると、中国も今は自由と民主主義と言ってみても、かつてほどの抵抗感はないんだろうと。だけど、僕が見ると、中国の民主化というのは、進むことがほんとうに大丈夫なのか、危険ではないのか、日中関係を害するのではないかという心配と、経済がこれだけ自由化していると――つまり、政治的な意味での民主化は望ましいんだけれども、経済がこれだけ民主化というのか、資本主義化すると、逆にもう一度革命が起きるのかなという気も。そういう意味の民主主義が経済の面から問われてこないのかなというようなことを思ったり。
ちょっと雑駁なんですけど、いろんな自由と民主主義といったときに、日本人が当たり前に思っているのとは違う意味がアジアではかなりあると思うので、それはどこかでぜひ皆さんにも論じてもらうととてもありがたいなという気がします。
共通の話題になる「ドラえもん」「ちびまる子ちゃん」
【佐藤幸人・アジア経済研究所主任研究員】 アジア経済研究所の佐藤です。かなり大きな、高尚な話が多くてなかなか入りにくかったんですけど、このままアジア経済研究所の人間が全く発言をしないで終わるとちょっとまずいみたいだというので無理やり入ろうと思うんですけれども。
私はあまり大きな、高尚な話はできなくて、周りの国の人とどうつき合えるのかなというかなり下世話な話から考えたい、スタートしたいと思っていて、具体的には、私がここの客員をやっていたときには、1つ考えたかったのは、なぜ日本に来た留学生は日本に来たという理由だけで帰国すると損をするのかということでした。あるいは、文化交流の話が出ていますけど、文化交流というとすごい高尚に聞こえちゃうんですけど、私なんかがおもしろいと思うのは、例えば日本でも松本潤とかでドラマになりましたけれども、「花より団子」が台湾で「流星花園」というドラマになって、それがまた日本に逆輸入されて、DVDボックスを持ってF4はいいなとか日本の女性が言っている、そういうところから見ていきたいと思っていて、ここは非常に細々とした話ですけれども、こういう細々とした話だけれども、別にそれが細々とした話で終わるんじゃなくて、広げていけるんじゃないかと思っています。
昔から考えているのは、私の場合は特に台湾に限られますけれども、台湾の人とつき合うときに、「ドラえもん」とか「ちびまる子ちゃん」というのは非常にお互いの共通の話題になるわけです。それはそれだけの話ですけれども、ちょっとそこで考えを飛躍させると、そこにはアジアの1つの共通の経験として、経済成長の経験というのがあるんじゃないかなというふうに私は思っていて、そんなふうに話を展開させたいというのが私の考えです。
他者を意識して自己アイデンティティを考える時代は終わった
【添谷芳秀・慶応大学教授】 慶應大学の添谷と申します。また抽象論のほうに話を引き戻してしまって大変恐縮なんですが、小倉さんが口火を切ってくださったラインの議論ですけれども、アメリカの若手の歴史学者で、香港の出身の学者ですが、たまたま今慶應に来ていて、研究会が最近あったというところで、小倉さんの話に引きつけて彼女の議論をちょっと思い起こしていたんですが、彼女の議論は、古代の中国と近代のヨーロッパというものを比較して、近代ヨーロッパで生まれてきた、特に彼女が注目しているのはカント的な、恒久平和論の中にある基本的な要素、共和制であるとか、リバティーであるとか、相互依存的な貿易であるとか、そういったものが象徴するコンセプトといいますか、エレメントといいますか、そういったものが実は古代の中国にあったのだという議論なんです。
制度としての民主主義はもちろんカント以降の話ですし、そこでいう平和のための構成要素というものは、必ずしも今我々が議論している民主主義というものとは直接つながってこない。これはもちろんかなり近現代の産物であって、ただ、それ以前に、実はそういったものがヨーロッパよりも進んでいるということを必ずしも言うわけではなくて、ヨーロッパからの押しつけというようなコンテクストでアジアの側も反応し、なおかつ一般的な理解が語られていることへの非常に強烈なアンチテーゼを歴史的なパースペクティブから出しているというところが非常に斬新かつ興味深いわけですけれども、それで小倉さんがおっしゃった次元のところまで歴史を戻ることの意味というようなことを、それと絡めて自分なりに考えさせていただいておりました。
それとの関連で、アジアという言葉を便宜上使うとすれば、我々の住んでいる地域の意味、ご近所というような意味でアジアという言葉を使ってみると、要するにグローバルな、あるいは具体的には近代史におけるヨーロッパのアジアへの影響力の拡張、あるいはヨーロッパ中心システムのアジアへの拡張ということが起きる前のヨーロッパ、あるいは他者を自覚しないときのアジアの非常にインディジナスなもの、それが多分自由とか民主主義というような次元でも語れるものがあるんだろうということです。
それプラス、今度はヨーロッパが立ちあらわれたときに、他者を強烈に意識しながらアジアが自覚されていくというような近代のプロセスというのがその上にかぶさっていて、現在起きている現象というのは、これも非常に単純化して、図式化して申し上げると、昔に戻っているわけではないけれども、要するに他者を意識して強烈に自分たちの自己アイデンティティーを考えるという時代は明らかに終わったんだと思うんです。つまり、ある意味相互作用の時代になってきた。ヨーロッパがEUの経済統合のプロセスでも東アジアのミラクルというものを強烈に意識して、ヨーロッパのプロセスが一定程度進んだというような相互作用の現象というのはヨーロッパから見ても明らかにあるわけであって、そういう意味では、アジアが必ずしもヨーロッパ、あるいは欧米との関係における客体ではなくて、やっぱり相手はもちろん引き続き存在をするわけですけれども、若干イメージとして見れば、対等と言うとまた若干ニュアンスが変わってくるんですが、まさに相互作用の対象になって、それがグローバルなものを形づくって、その中でまたアジアが自分たちの立ち位置を考えるというような時代になってきたのかなというふうに思うんです。
そうすると、現在さまざまに混沌の世界の中で脈絡なく物事が起きていて、あるいは我々がそれに脈絡を与えることに非常に苦労しているわけですけれども、そういったコンセプチュアル・フレームワークを持ちながら、現在我々が抱える問題というものを、新聞ではもちろんそういう書き方はできない、それを書いてもだれも読まないし、読んでもわからないわけですけれども、書き手の側は多分そういった認識枠組みみたいなものを持ちながら問題発掘をし、問題提起をし、将来像を描くというようなことができれば、それは我々の共通の知的プラットフォームなのかなと。
ここで、やっぱりアジアにとっての大問題というのは、その問題をめぐってアジアが分裂しているということだろうと思うんです。つまり、一種の地域のまとまりの必要性は何となく感じつつ、あるいは自然のプロセスとして起きつつも、やっぱり我々がそういう議論をすると、依然として中国と日本はひがみ合っているし、あるいは日本国内でもその辺の問題をめぐっていがみ合っているわけです。
これは、ある意味、近代がアジアに浸透してきたときのアジアの現実というのは非常にいろいろな意味でゆがめられたわけです。例えば、本来であれば民族解放戦争であるはずのベトナム戦争は、さっき小倉さんもおっしゃったように、やっぱり冷戦という枠組みの中でそれがアジアの現実になっていくし、朝鮮半島の分裂もそうですよね。それから、台湾問題の出現もそうだし。要するに欧米の、戦後でいえばアメリカの冷戦政策の枠組みの中でアジアの現実はつくられていくけれども、それはアジアの側の、スポンテニアスな我々の側からの自発的な、ほっておかれればそういう現実は起きなかったということが起きて、それがアジアの現実になっていて、それへの不適合を多分いろんなところで我々は起こしているんだろうと思うんです。
現在日本が非常に悩んでいる歴史問題というのは、結局そこに、先ほどこれも小倉さんがおっしゃったように、やっぱり自分たちで自分たちの歴史問題の解決ができていない、そういう経験をどう総括したらいいかということが我々の間でコンセンサスができていない。アジアの中でもできていない。それをやっていくような道しるべをいろんな議論で提示していけると、1つのまとまりを持って……。
アジアの環境の将来が人類の命運を握っている
【井上真・東京大学教授】 東京大学の井上と申します。きょう集まっている方の専門分野を見てみますと、私は唯一農学部の人間でして、かなり地面をはいつくような研究をしておりますので、どこで議論に参入できるかなといつもうかがっていました。それで、環境の話が出ましたし、もう1つ国民国家の枠組みを取り払って考えてみたらどうかという意見も出て、これで話ができると思ったんです。
私、東京大学のアジアン・スタディーズ・ネットワーク(ASNET)の連携室の併任もやっているんですが、そこで日本・アジア学概論という全学共通の講義を今年やることになりまして、数人で話しているんですが、難しいんです。それは、アジアとは何かということを言わなきゃいけないということで、非常に難しく思っています。きょうの皆さんの話を聞いていても、やはり難しいんだなというふうに思いました。
ただ、私は政治学者でもありませんので、例えば生態系、森があるとか、あるいは稲作、そういった生態系でアジアというものを少し特徴づけることはできるのかなというふうなことを思いながら、それについては考えていこうというふうに思っています。
もう1つ、環境のほうなんですけれども、2003年だと思いますが、私、このアジアネットワークの開発と環境チームの客員研究員でした。ヨハネスブルク・サミットに向けて、リオ以来の10年の反省と批判をまずやって、それから半年後に今後の提案というものをやったわけです。今考えてみますと、それ以降、この環境問題について、かなり強い重要な動きというのは、やはりFTAがどんどん進んでくることとか、そういった横のつながりがどんどん出てきていることだと思います。そうすると、その中で地域環境が、地球環境ではなくてむしろ地域の環境ということになると思うんですが、それがどういうふうになっていくのかということを考えなきゃいけないと思っています。
実は、アジアの環境の将来が地球全体の人類の命運を握っているというのは事実ですので、そのあたりがかなり重要になってくるかというふうに思っています。そのときに重要となるのが、やはりこれも国家の枠組みだけではなくて、市民の間の協働関係、協力関係がどんどん広がっていますので、私自身もそれにかかわっていて、例えば『アジア環境白書』というのをずっと継続して出しているんですが、そういったのもアジアの研究者、NGOとつながってやっています。だから、そういう動きも含めて見ていくというのが必要かなと。それがこのフォーラムでどういう形で議論に参入していけるのかなというのを探ってみたいと思っています。
隣国の政策に疎い東南アジアの国々
【小島道一・アジア経済研究所副主任研究員】 アジア経済研究所の小島と申します。私は、アジアにおけるリサイクル、特に再生資源の越境移動、貿易を追ってあちこち回っています。アジアのあちこち、年間七、八十日ぐらいアジア各国を訪れているというような状況です。
その中で感じているのは、1つはリサイクルという分野でも経済統合がものすごい進んでいる。物だけではなくて人も資本もいろいろ動いて、あちこちお互いに投資し合っている。あるいは、お互いにいろいろ企業のレベルで学び合っているというようなところがある。マレーシアやフィリピンのジャンクショップがタイのジャンクショップに行って、あのやり方をまねしたい、見習っていきたいというようなことも聞いたりします。そういうような形で経済統合がかなり進んでいるなというのを1つ感じております。
経済はそういう動きなんですけど、その一方で、アジア地域、特に東南アジアですけれども、隣の国がどういう政策をやっているかというのをよく知らない。ヨーロッパやアメリカ、あるいは援助をする日本のことは知っていても、隣の国で何をやって、どういう失敗をして、どういう成功をしてということをあまりよくわかっていないという印象を持っています。
先ほど、見えてこないような公共性を大事にしなきゃいけないんじゃないかというお話がありましたけれども、そこのところの作業というのがまだまだ十分できていないんじゃないかなというふうに思っています。国際会議とかですと、やはり表面的な議論でしかなくて、あまり本質的な、お互いが抱えている問題というのがうまく話し合えていっていないような気がします。研究のレベルでも、ある国の非常にミクロなお話にいってしまって、アジア各国でその分野でどういう共通な問題があるかということをうまく描き出せてないんじゃないかなというふうに感じております。
私のようなアジア各国を回るような研究スタイル、アジア経済研究所でもあまりしていません。どちらかというと一国に絞った研究になってしまうというような形になっていますが、資本も物も動いている中で、もう少し研究のスタイルを変えていってもいいのかなと。あるいは、もう少し違った研究スタイルがあってもいいのかなというふうに感じております。
それとの関連で、AANに参加させていただいたときに1つ感じた違和感は、日本から海外への新聞記者の出張の際に、かなりもうストーリーを決めて出張されているようなところが感じられまして……。日本にいる研究者にある程度話を聞いて、ストーリーを決めて、どういう話をとってくるかまでかなり決めて取材をされているようなところを感じまして、もう少しフリーな、ポジションを決めないであちこち回って、その中で問題を見つけていくようなことを新聞のレベルでもやっていかなきゃいけないんじゃないかというふうことを感じたのを思い出しました。
日本は「特殊な国」という意識がなさ過ぎる
【榊原】 1つ、最後に朝日新聞へのお願いなんですけど、我々がアジアを語るとき、我々が意識しなきゃならないのは、日本が非常に特殊な国だということですよね。東アジアから南アジアの共通項というのは幾つかあると思いますけれども、1つの重要な共通項は多様性、ダイバーシティーですよね。ところが、日本はそれが全くない国なんだよね。これは歴史的経緯があって、1500年日本は全く侵略されていないからです。しかも、その1500年の間に平安時代と江戸時代という600年の平和な時代を持っているからです。ですから、これは極めて特殊な国だという意識を持たないと。我々はその意味では決してアジアの一員ではないんです。
韓国は多様性がそれほどないという意味では若干日本に似ているかもしれませんけれども、それでも韓国はいろんな形の侵略を受けている。我々は、1500年のうち、占領されたのは7年だけですから、極めて特殊な、極めて同一的な国だということですから、我々がアジアに入っていくには相当日本人の側の努力が必要なんです。その努力を我々は十分していないと思います。私を含めて。それが実は日本人が逆にアジアを1つの理論でくくろうとし続けてきたことの最大の理由なんです。そうじゃないと日本が入れないからです。ですから、むしろ日本がそういう特殊な国だという……、事実特殊な国だと思います。ただ、それが日本のメリットでありデメリットである。だから、日本は非常に特殊な、ある意味ではいい文化を持っていると思いますけど、特殊な国だという意識が日本人になさ過ぎると。それは同一性のぬるま湯の中にずっとつかってきたからだと思いますけれども、最後にそういうお願いをして。これは別に論争ではございません。
【国分】 それでは、最初に申し上げましたように、我々が問題提起をして、それに対して皆さんがどういうふうに反応してくるかというところをお聞きして、今度は皆さんのご意見に対して世話人たちが何を感じたかというところを、まず王さんから簡単にお願いします。
誤解のもとにもなる東アジアの「同文同種」
【王】 アジアを語ることの難しさを先ほどのお話を通してわかってまいりました。どうもありがとうございました。それから、もう1つアジアを語ることの難しさを感じておりましたのは、岩渕先生と横田先生がおっしゃったソフトパワーに対する認識と、その概念と内容の理解だと思います。お2人の先生に感謝いたします。そのとおりだと思います。
しかし、私は多分ソフトパワーという言葉に対しての理解、単純に言葉なんですよ。多分一度中国語の漢字に切りかえてから理解している意味を語っていると思います。そうだとしますと、理解のずれがあると思います。それは認識上の問題ではなくて、むしろこれまで日中韓、東アジアの間でよく起こる誤解のもとかもしれません。つまり、同文同種の再考という作業が必要だと思います。そのことに関しては、若宮さんがおっしゃった自由、あるいは民主、あるいは保守、同じ漢字で書かれていても、実は相互の理解が違うと思います。違っていても知らないから自分の理解した範囲でしゃべってしまう、それが私がきょう犯したミスの1つだと思います。ソフトパワーに関しては、多分私しかわかっていない角度で理解していたことだと思いますが。ですから、今後、特にアジアを語るときには同文同種の再考と再検証をしながら、それを踏まえた上でさらに新しい時代に見合う新しい関係の構築、特に文化関係の構築を考えていきながら調整していく必要があると思います。
私は、これからどういうふうにしたらいいのかと考える場合には、わが首相、安倍首相のように、非常に私も調整されやすい性格ですので、ですから国分先生と藤原先生、両先生に調整されていきたいと思います。「上善水のごとし」、上善如水という酒がありますよね。それは多分アジアにおける新たな関係の、あるいは構築における1つのキーワードになることかもしれないと思います。
「日本の延長としてのアジア」を誰も語らなかったのは時代の特徴
【藤原】 先ほど、いかにも切り返したかのようにしゃべりましたけど、実は大して違わなかったと思っています。国分さんはアジア概念を再構築するという話は全然していなくて、アジアという人たちの話なんです。そして、アジアという概念がどう恣意的に身勝手につくられてきたのかという話を私はしているわけで、そこのところとアジアという言葉を語ることで、いかに恣意的な議論と、あえて言えば偏狭な概念が正当化されてきたのか。それに対するある種の志を持って榊原さんはおっしゃっている。
そして、この中でアジアという言葉を語るべきだとおっしゃった方が、はっきりした特徴がありました。それは、日本の延長としてのアジアを語る人がただの1人もいなかったということなんです。多分80年代だったらそうじゃない。やっぱり日本型経営が拡大してきたと考えられていた時代であれば、やっぱりもうちょっと、でも日本のまねをしているんじゃないのという感覚があった。それが微塵もないというのが非常におもしろかったです。皆様の志であると同時に、時代の特徴でもあるんだろうと思います。
この企画ですけれども、ところでアジアは何なのかということを我々が企画をしていればこの企画は大失敗だろうと思います。少なくとも最後に、そこでアジアとは何かなんていう2面の記事が出たら、これはとんでもないフォーラムだということになると思う。ただ、あえて申し上げればアジアがたりというんでしょうか。これまでアジアという言葉を使って語られてきたことの狭さ、限界というもの、また、その現在の有効性に対する疑問はほぼ皆さん共有していらっしゃったと思います。あとの出口が多少違っていて、だらかそれはやめちゃおうという考え方と、この概念を組み立て直そうという方がいらっしゃる。しかし、多分それが問題だとすれば、アジアというところで次の課題を制定するということでは多分ないんでしょう。もっとその底にある問題に触れていかなくちゃいけない。
一方では具体的な問題です。問題解決型になって恐縮ですけれども、例えば環境、それから、きょう出ませんでしたが、軍事秩序、軍事紛争の問題ももちろんあります。中国は日本にとって、失礼な言い方ですが仮想敵国であり、日本は中国にとっての仮想敵国です。政治家が言ってはいけない言葉でしょうけれども、国際関係ではすべての国が仮想敵国であり、実際に緊張があります。この危機を拡大することが有利かどうかは別の問題ですけれども、これは考えなければいけない問題である。
平和という言葉を語る人がほとんどいなかった。ただ1人、朴さんがおっしゃってくださったのが非常にうれしかったんですけれども、日本で平和というと、国際関係を考えるときにはほとんど議論しない言葉なんです。我々は安全保障と言います。国内政治を語るときに平和と言うんです。これが平和が内向きの言葉になってしまったという特徴になるわけですけど、そこのところをもう1回組みかえておく必要があるだろう、そういった一連の議論があります。
それともう1つ、時間をもう超過していますけど、1つだけ、最初にご指摘があった中で、読者の不安にこたえるようなものにしてもらいたいと、これは本当にそのとおりだと思いました。皆さんの他者性の欠如を学者が説教するといった、そんなお説教みたいな論文が並んでもしようがないので。不安はあるわけです。その不安が生まれてくる根拠をつかまえて、それにこたえるような言葉というものが出てくればいい。そのときにアジアという言葉が使われようとどうだろうと、それはどうでもいいんだろうというふうに私は思っています。
漠然とした不安にどうこたえていくのか
【国分】 ありがとうございました。大分いろんな議論が出まして、私ももちろん朝日新聞のためでもなく、朝日の今後書かれる記事のためでもなく、あるいは他者との試合のためでもなく、やはり我々がどういう形で朝日というネットワークを使いつつ、どういう形で日本、あるいはアジアの中で生きていくかという話だと思うんですけれども、私はやはり、きょういろんなお話を伺った中で、國廣さんの言われた漠然とした不安、これにどうこたえていくかというところにひっかかりまして、おそらくアジアも同じような、各国、あるいは各地域、それぞれあると思うんです。
きょうは比較的アジアの中でも大国の論理に従ったような部分のところで切ってきましたけれども、おそらくまだ国家そのものを維持することに必死な国もたくさんありますし、いろんなことを考えていきますと、おそらくありとあらゆるいろんな不安を抱えつつ、結局自画像をどう描くかという部分のところで描く。それはつまりアイデンティティーをどうみずからつくるかという部分のところでやはり国家、あるいはアジアとか、あるいはいろんな形で自画像を描こうとする部分があるんだろうと思うんです。
そういう意味でいくと、簡単に言えば3つの点に私は関心を持ちました。1つは、やはり価値の問題でありまして、これはまさに日本で議論になりつつあるわけですけれども、アジアにおける価値、あるいは価値規範の問題です。簡単に言えば自由、あるいは民主のテーマというのがどういう形にこれから展開されるか。
2つ目は、やはりグローバルなイシューだと思います。これは、私が報告した中ではアジアの相対化、こうした概念になるかと思いますけれども、貿易、投資、あるいは環境の問題、人の移動などもそうだと思いますが、そうしたグローバルなイシューに対して我々はどう考え、漠とした不安にどうこたえていくか。
3番目は、やはり文化の問題というのが、ソフトパワーという言葉が使われましたけれども、その意味、あるいは意味がない、いろんな議論がありましたけれども、国家を越えるそうした市民社会、シビルソサエティーといいますか、そういうものがこの地域であり得るのかどうかということですね。それはおそらく価値の問題にもかかわってくることだと思いますけれども、おそらくそうしたテーマを私は非常に印象深く思ったということでありまして、もう一度これを持ち帰りまして、我々3人で、そしてもちろんスタッフの方々と議論しながら次のテーマを考えていきたいと思います。
できれば、これから3回、あるいは4回ぐらいのテーマで何をするかということを考えていきたいと思いますけれども、そのテーマに沿った形で、おそらく3人ぐらいの方にプレゼンテーションをきょうのように10分ぐらいしていただくということで、それに基づいて議論をしていくというような形になるのかなと、これもまだ漠然としておりますけれども、そんなようなイメージを抱いております。
ということで、きょうはかなり予想外の議論になったというふうに思いますけれども、ありがとうございました。(拍手)
2007年 4月26日