|
ここから本文エリア
第2回朝日アジアフェロー・フォーラム 全体討論2007年07月10日
【司会=藤原】 それでは、後半の全体討論に入りたいと思います。なにぶんにもテーマが広くて、テーマが拡散してしまう。格差、少子化、グローバル化、実は3つとも全部関係はあるわけです。つまり、少子化が進むということから出てくる当然のような動きは、外国からの労働力の流入、これは望ましいか、望ましくないかは全く別の問題として実際に進んでくることです。それがまた国内での労働市場の形態も変えてくるんだと。そして、日本でもそうですけれども、グローバリゼーションとのかかわりから格差が認識されるということも一般に見られることだろうと思います。 ただ、そうは言いながら、きょうのお話は三者三様それぞれ魅力的で、だけどこれをどうつなげたらいいのかなかなかわからないというところもたくさんあるだろうと思います。それはすべて我々の責任ではなくて、皆さんの課題であるということで、皆さんに全部投げ返して、ぜひ積極的にご意見をいただくことができればと思います。 挙手をいただきましたら、こちらのほうで控えてまいりますので、なるべくその順番にご発言をお願いしていくことにしたいと思います。 底辺の生活が向上すれば社会不安は起きない【國廣道彦・元駐中国大使】 まず自分の意見を言う前に質問をしたいんですけれども、私が外交官試験の経済学の口頭試問のときに、なぜ貧乏な国には人口が多いんですかと聞かれたんです。何か答えましたけれども、ほんとうはよくわからなく、自信がなかったんですが、その後、なぜなんだろうと思いながら今日ここに至っているんです。もちろんいろいろな答えがあると思いますが、定説は何なのでしょうか。山澤先生もいらっしゃいますし、深川先生もいらっしゃるし、阿藤先生もいらっしゃるし、定説はどういうことなのかなと、きょうは解明できたらなと思います。それが質問です。 コメントを申します。きょうのお話をずっと伺っていて共通項は何だろうというと、要するに東アジアないしアジアの社会を、安定した住みよい社会にするに当たっての深刻な問題があると、どういうふうにみんなこれから克服していくんだろうかとか、あるいは日本が一つの克服のモデルになれるだろうかというテーマが共通に考えられるんじゃないかと思うんです。 私は、幸か不幸かフィリピン、インドネシア、中国と勤務しまして、ジニ係数の高いところをみんな経験しました。ジニ係数と何か非常に経済学的でピンと来ないんですが、要するに社会の格差です。格差がほんとうにひどいなと思いまして、それについていろいろなことを現実的なところから考えさせられました。 私は一つの結論を持っているんですが、それは、格差があること自身が社会に不安をもたらすんじゃなくて、一番底辺が少しずつよくなっているかということだと思うんです。上がよくなくても下がよくなっていれば、つまり一番下にいる人たちが、自分たちの生活が、ことしは去年よりもいい、来年もよくなるだろうと思えば、道路に出てみんなぶっ壊すようなことはしないと思うんです。私はインドネシアについて20年ぐらい見ていましたけれども、そうだったと思います。中国についてもそういうことが言えるんではないかと思います。フィリピンの格差問題というのはその後、行っていませんのでよくわかりません。しかし、それが一つ私のオブザベーションとして参考に供したれと思うことです。 第2点は、インドネシアでも中国でも、私は為政者のほうに言ったんですが、あなた方のところは相続税がないのがよくないんじゃないかと。アメリカでは相続税というのは評判が悪い。特にウォール・ストリート・ジャーナルでは悪いんですけれども、しかし日本は金持ちと貧乏人の差があっても、どんなに金持ちがいても3代は金持ちでは続かない。その間に自分で稼げば別ですけれども、おじいさんが金持ちで生きている人は、ひ孫のほうはもうだめになってくる。大体そういうことだと思っておるから、あまり自分が貧乏でも怒らない。 だから、中国でも早く相続税を導入しないと、金持ちの数が増えてきたら反対が出てきて、導入できませんよということを申し上げたのが15年前です。そのときに彼らは、研究していますと言っていましたが、どうもいまだに研究しているようであります。どうもインドネシアでも相続税が導入されないんじゃないかと。そうすると、いわゆるビルトインスタビライザーがないというふうに思います。日本のようにやたら相続税が高いのも考えものですけれども、金持ちはいくらでも金持ちになって、おやじが死んでも税務署が踏み込んでくることがないというような社会はやっぱり不安定なんじゃないかなと思います。 この2つをご紹介申し上げて、ご検討に供したいと思います。以上です。 【司会】 ありがとうございました。何で貧乏な国は人口が多いのかという、この巨大な質問はきょうのこの会合が終わるまで、あと1時間の間にぜひ回答を得たいと思います。 では、次にいかがでしょうか。畠山さん。 賃金にもグローバル化の裁定機能が働く【畠山襄・国際経済交流財団会長】 遅れて来て申しわけありませんでした。遅れて来たので、後のほうの松村さんのお話を非常におもしろく聞きました。 それで、コメントが2つあるんですが、1つはインドについて言及されましたけれども、アメリカがインドにアウトソーシングをしたことが、アメリカの90年代のインフレなき成長の最大の理由の一つだと。だから、さっきのようなおっしゃり方もあるし、現実に合っているんだけれども、他方、マクロ的に見ると、アメリカの経済成長、選択と集中というのは自分のやりたいところに集中するわけですけれども、やりたくないところをアウトソーシングするわけです。アウトソーシング先がインドだったということで、それで成長がインフレなしにできた。ある程度同じことが、ものについて中国に言えるということで、少し極楽トンボ的な見方かもしれませんが、そういうことなんだから仕方がないじゃないかと。悪い面を見れば、アウトソーシングで職場が奪われたとかいうけれども、全体を見るとそのおかげでうまくいってきたんじゃないかと思いますがどうですかというのが、一つのコメントであります。 もう1つは、やや過激なんですが、さっき中国の労働者が例えば今治のあたりにいて、その低賃金のおかげで日本人の賃金が下がる、押し下げ効果があるという話がありました。これはおっしゃるとおりだと思いますけれども、5年ぐらい前までは賃金というのは下方硬直性があって、下がらないんだと言っていたんです。そんなばかなことはないじゃないかと僕は思っていたんですが、押し下げ効果が出てきて、賃金にも国際グローバリゼーションのマーケットの裁定機能が働くというのは大変におもしろいことじゃないかと。 それで、フェアネスという観点から見ても、中国人は生まれたら日本人の20分の1の給与しかもらえない、逆に言えば、おれたちが生まれたら20倍もらえて当然だという発想がそもそもおかしいんであって、やがて、長い期間を通じてでしょうけれども調整されていくんじゃないかと。それに対して文句を言っていてもしようがない。インドへのアウトソーシングにして文句を言えないのと同様に、それはギブンとして考えるべきじゃないかと思います。以上です。 【司会】 問題提起をいただきました。どうぞ、木宮さん。 「競争力」優先で、「格差」問題先送りのアジア諸国【木宮正史・東京大学大学院准教授】 本来であればもっと細かい話をするべきなのかもわかりませんけれども、ちょっと分不相応に大きな話をさせていただきたいと思います。 私はもともとは韓国のことをやっているんですけれども、例えば日本と韓国を比較する場合に、例えば私は80年代の後半、ちょうど韓国が民主化される前後ぐらいに韓国にいたものですから、そのときにはいわゆる日本とのすごい時差、ある種の格差というよりも、時差というものを感じていたんです。今ここの話でもそうですけれども、もちろん国家間の格差が非常に縮まっていくというわけでは必ずしもないのかもわかりませんけれども、例えば日韓を比較して見ていると非常に時差が解消されている、そして、むしろ場合によってはさっきの高学歴化なんていうある種の逆転現象が起こっているわけで、さらにはそれに伴って例えば少子化の問題、それから格差の問題というものも、もちろん違いはそれぞれにあるわけですけれども、問題が共有されるようになっているわけです。 従来、アジアということを考えてみた場合に、例えばヨーロッパとの比較でどういうことが言われてきたかということを考えてみると、アジアというのは非常に異質である、格差が大きい、日本が突出していると。したがって、なかなか共同体意識というのは育たないというふうに言われたと思うんですが、こういうふうに問題が共有をされて、もちろん限定つきですけれども国家間の格差が縮小している。 そういう中で、確かに一方では共同体意識というものも生まれているのかなとは思うんですが、しかしながら格差の問題、少子化の問題も含めてですけれども、問題が共有されることによって協力の可能性が一方では確かに高まるのかもしれませんけれども、逆に他方で、みんな同じ問題を共有しているんだから、ともかく我慢しようと。もしくは、競争が激化しているんだから、例えば格差の問題とか少子化の問題というものは、とりあえずそこには触れないでおこう。もしくは、ある意味では問題を隠蔽しようというような、問題が共有されているのにもかかわらず協力の可能性というよりも、むしろ問題を先送りするという関係が他方では生まれているんではないか。 例えば、格差の問題に関しても、やはり格差は問題だけれども、もっと国家間の競争力を高めることが先決であるというロジックで、それぞれが持っている格差の問題というものが先送りされていくというようなことがちょっとあるんではないかなというふうに思いました。 以上です。 【司会】 格差の問題のとらえ方が大分変わってきたと思うんです。話が大分ずれているんですね。日本が豊かなところにいて、貧乏な国がある。あるいはアメリカがあって、アメリカより貧乏な国がある。その差異がいわば商売のチャンスだということが、賃金水準が低いから、その分だけこれはもうかる。最終的に相手も賃金が上がっちゃったらメリットはなくなるでしょうが、賃金が十分に違いがあるときであれば、それが商売の新たなインセンティブになってくるだろうと。もちろん低賃金でこき使われて「何だ」と怒る人もいるでしょうが、おかげでマーケットも大きくなったんじゃないかという議論も同時に出てくるだろう。 この話で推移するんだったら話は簡単なんですけれども、話を聞いていると、中国の労働力に我々が頼っていきますと、これからどんどんやっていけるのかと。中国人というのは常に大量に人数がいて、常に貧乏であるという前提がひょっとしたらこれから変わるのかもしれない。韓国についてはこの前提は明らかに変わってしまって、韓国というのは、日本が常に調達できる低賃金労働力の拠点であるという状況では全くなくなっているわけです。少子化という現象を共有し、国内での格差をあたかも日本と韓国が横並びであるように議論するほうが、よほど意味のあるような状況というのに変わってきちゃう。こうなると、ある意味で古風な先進日本と後進アジアという、地域分業の話で今のグローバリゼーションとか格差とかいうことをちょっと語ることができなくなってきたのかなという問題の新しさのほうにできるだけ引っ張っていこうとしているわけなんですけれども、いかがでしょうか。 貧乏人の子だくさんというのがありますね。どうぞ、劉傑さん。 中国人はアジアではなく欧米社会と自国を比較する【劉傑・早稲田大学教授】 この格差の問題について若干感想といいますか、あるいは質問かもしれませんがお話しします。今日のこの、特に園田先生の話を聞いて、中国の格差の問題は、果たしてどの程度深刻な問題なのかというふうに考え直したところもあるんです。つまり中国の格差の問題は、しばしば非常に深刻な社会不安の要因として指摘されるんですが、今日の話を見ますと、特に図6のところで行われたアンケートを見ますと、これは所得に対する意識の調査というよりも、むしろ道徳観に対する意識調査のような感じがしまして、ある意味では、一般的な常識で判断すると、高所得の原因といいますか、許される範囲、理由というものは、常識の範囲内でその答えが出ているというようなことになるわけです。 そういうふうに考えますと、つまり、中国では明らかに制度によってつくられた格差は、否定というか、非難の対象になりますが、そうじゃなくて、合法の範囲内で格差が生じても、これは仕方がない、そういう格差を容認できるような社会でもあるというふうにも理解することができるんです。むしろ、格差そのものよりも制度そのものが格差とどういうような関係にあるのかというところに問題がある、あるいは人々が問題として意識している。そんな印象を持ったわけです。 実際には中国が、現在の社会の問題も含めて、常にこの中国の問題を国際社会との比較の中で考えるときには、どこと比較しているのかというと、これはアジアじゃなくて、実はアメリカとかヨーロッパの世界と比較している。その意識の中では、常にアジアを超えて世界を見ているというような感じがありまして、そうしますと、このアジアの中での比較というよりも、例えばアメリカの格差の問題との比較の中で、中国人がどういう意識を持つのかと。そういうふうに比較したほうが、もっといろいろなものが見えてくるのではないかと。そういう気もするわけです。 以上2点であります。 【司会】 はい、どうぞ。國廣さん。 腐敗と結びつく格差は容認されない【國廣】 先ほど1つ言い忘れましたので。 私は、格差自体はそう大きな社会問題に考えなくていいという趣旨のことを申し上げましたが、今、劉傑さんが同じような発言をされたと思うんですけれども、言い忘れたのは、それが容認されないときというのは、腐敗と結びついたわけです。腐敗はいかにしても、見ていて我慢できないわけです。それで、どうも高いところで悪いことをしている。自分のそばの人が悪いことをしているのが見逃されている。自分らは、いつまでたってもよくならない。これは絶対に義憤となってあらわれますから、今日のお話の中でその面は出ておりませんけれども、腐敗というのは、また、アジアには非常に汚職とか腐敗というのが疫病的に存在していますから、腐敗というものを一緒に考える必要があると思います。 【司会】 ありがとうございます。 じゃあ、竹田さんから先に。 アジアは良い方向に向かっているのか?【竹田いさみ・獨協大学教授】 とても興味深いご報告、ありがとうございました。3人の方に、短い質問、ざっくりとした質問をさせていただきたいと思います。 まず、松村さんに、「〈分裂にっぽん〉を通して見たアジアと日本」というお話をいただいたんですが、それを通じて、今度は分裂アジアというのが見えてきたのかどうかということを伺いたいんです。それで、グローバル化はもちろん格差を生み出すし、デジタルデバイドというのは、もう10年以上前から大分言われてきたことで、格差というのは存在するんですが、最近はものすごいスピードが速いんです。それで、スピードによって取り残されるというか、キャッチアップできないという感覚、私自身がスピードに取り残されちゃうような人間なんですが、そのスピードが速いことによって、今まで想像していないような格差がどんどん派生的に起きているとか、そういう現象を分裂アジアとか、分裂世界でもいいんですけれども、日本以外でもそういうことを発見なさったかどうかということを伺いたいということです。 それから、阿藤先生には、少子化ということに関して、例えば、よく少子化対策という言葉をメディアでも見ます。しかし、少子化というのは受け入れちゃいけないんでしょうか。少子化を運命として受け入れるというか、その受け入れる価値観というか、そういう発想を持っていいんでしょうかと。少子化は困るということでいくと、いわゆる移民政策をとるとか、さまざまな政策なり対策をとるわけですけれども、そういう受け入れてはいけないのかどうかという価値観の問題があります。 それから園田さんには、アジア全体で意識調査をされた上で、非常に興味深い企画をありがとうございました。こういう調査全体を見て、非常に抽象的な言葉で言いますと、アジアはよい方向に向かっているのかどうかと。この場合、よいというのは何がよいかと私はここで言えないんですけれども、何か価値観をほうり込んでするというのがいい場合──よいという場合でも、何か具体的に所得が増えるとか、いろいろな環境が改善するとか、最後は具体的な問題に落ちていくんですが、全体として、アジア世界というものは少しプラスで見ていいのか、それともかなりマイナスで見ていいのか、例えばマイナスで見るべきだということになったときには、例えば松村さんの分裂日本の分裂アジア版が、おそらく存在するんだろうなというような形の問題につながるんですけれども。 以上です。ありがとうございました。 【司会】 これは質問ですから、お答えいただかなければいけないと思うんですが、順番として、まず松村さん、それから園田さん。阿藤さんはご発言のデマンドもありましたから、両方組み合わせでという形で。 最初、松村さん、お願いします。 【松村】 竹田さんからいただいたご質問ですけれども、インドに行った記者が見てきたものは、まさにITに乗ったやつと乗っていないやつの差です。明らかに日本と似ている部分はあるんですけれども、IT系で乗った人間は、要するに、圧倒的な優位な富を得ている。一方で、ずっと浮上できない層が厳然とその隣にあるというのを我々の取材は見ていますし、それから中国でも同じことを僕らは見てきて、これはNHKなんかでも結構立派なルポをやっていらっしゃいます。 上海なんかでは、上海の出稼ぎの人たちが一挙に帰る、ちょうど旧正月のときにうちの取材班の人間は行ったんですけれども、ご存じのとおり、あの人たちが内陸部の田舎へ帰る電車の風景というのは、これはほんとうに昭和の昔のような、それ以上にすごい風景で、その電車にもうちの取材記者が乗ったんですけれども、田舎も行きました。田舎は全くもって厳しい内陸部の経済実態。これは上海の都会で株なんかをやっている人との激しい差というか、まさにそれは証券市場とかにアクセスする、できないというものの差がものすごく極大化していく。一方で、ITを上手に使うか、ITでどれだけ速く情報をキャッチするかという差異がものすごく大きくできてしまうということは、インドであれ、中国であれ、起きているなと。 それから、ついでに先ほど畠山さんにご質問いただいた点、アウトソーシングの問題は全くそのとおりで、僕もそう思っています。例えば日本のアウトソーシングも、現実にバブル崩壊後のいわゆる労働者の問題、要するに正規雇用か非正規雇用かという問題は、明らかにアウトソーシングをして、そのために企業は生き返り、株価も上がったという、まさに日本は今、一応景気回復だ、企業経営がいいというのは、この労働力の二分化をやって、そこにアウトソーシングして賃金を下げるということでかなりの部分をやってきたというのも全くそのとおりで、構図としてはアメリカと全く一緒です。 じゃあ、これはしようがないんじゃないかと。そこは僕は考えようがあると思っていまして、そこは制度の問題で、やはり一時的な収入格差をどう社会不安につなげないための制度があり得るのかというのは、僕は議論があるだろうと。一方、先ほど賃金の裁定機能が働いている──僕は働いていると思っていますし、それが今までで見た光景だと思っています。 これについては、今議論になっているのは、やはり最低賃金の議論。あれは政府は汚くて、生活保護の問題と重ねるという一番汚いロジックを使っていると僕は思うんです。むしろ、そういう低賃金労働者が入ってきている中で、賃金をどう支えるかという議論をすべきであろうと思っております。以上です。 【司会】 では次に、園田さん、お願いします。 底辺の人たちに多い、生活向上への楽観的見通し【園田】 竹田先生のよい方向に向かっているかどうかというのは、すごく難しいといいますか、要するに何をよいものとみなすかという価値の議論なしに議論できないので、非常に答えるのは難しいのですが、それこそ多分、それをわかってわざとざっくりと聞かれていると思いますが、私は、よい方向という部分が多いと思います。 1つは、先ほど國廣さんのほうからお話があった、要するに底辺の部分がどうなっているかということに関して見た場合、これも非常に大きなパラドックス、日本でもそういうパラドックスがあったんですが、実はそんなに向上していると思われない底辺層のほうで、暮らし向きがよくなっているという回答率が非常に高いんです。これは、本来ならばもっと違う、勝ち組の人たちでたくさんそういう意見が出そうなものなのですが、それはそうではない。 例えば中国なんかでも、まさに農村からの出稼ぎ、農民工という言い方をしますが、彼らのほうがむしろ、今よりも5年後、5年後より10年後のほうがいい生活ができるという考え方をまだ持っているといいますか、持っているんです。これは、都市の中間層よりもその比率が高いのです。どうしてそうなのかと言ったときには、多分それは経済成長という問題が多分あって、その右肩上がり感が総体、実際には客観的に見たときの格差というものよりは、自分たちのある種のウェルビーイングといいますか、安寧さと重なっている部分、ある種、精神的なスタビライザーになっていると。ただ、ほんとうにそれが制度的なスタビライザーになっているかどうかというのはまた別の次元で、ほんとうにその右肩上がり感があるかどうかというのが、これから続けていかれるかどうかというのは、多分違う話だろうと思います。 あともう一つ、ある種、特に儒教文化圏と言われる先ほどの学歴の達成の問題で見ると、実際に学歴達成した人たちの親の所得とか、親の学歴達成を見ると、相当ロウアーなところから上がってきているパターンというのが随分あるわけです。つまりそれは、階層の再生産という議論が、まだ今、発展途上ということもあるんでしょうけれども、再生産の議論よりは、むしろだんだん上昇している感覚といいますか、ロウアーなところからアッパーのところに上がってきているという感覚が、総体として非常に強いと。 したがいまして、開発のエンジンが若干おくれ、右肩感が下がってくると、多分それは違ってくるんだろうと思いますが、いずれにせよ、教育達成に関しては相当よくなってきているという感覚が全体としては広いので、すごくざっくりと、よい方向に向かっているかどうかということに関して言うと、そうだと思われるファクツが多いように思います。 【司会】 ありがとうございました。 次に阿藤先生。 超少子化国・日本は政策的努力をすべきだ【阿藤】 初めに、竹田先生の少子化をそのまま受け入れてもいいんではないか、あるいはそういう価値観もあり得るんではないかというご質問なんですけれども、先ほどお話ししたように、少子化の原因、背景はいろいろございます。端的に言えば、文明が進めばなかなか逆戻りできないようなものもあると。例えば、非常に個人主義化するとか、大衆消費社会を今から変えることもできないわけです。そういう意味で、ある程度の少子化というものは多分、文明の成せるわざで、なかなかそれを押し戻すことは難しいんではないかという考え方が1つあると思います。 ただ、さらに進んで、先ほどの言葉を使えば、超少子化というものがほんとうに文明の必然かどうかという問題があるんです。先ほど比べましたように、どうもいろいろな意味で、例えば公共政策で非常にすぐれている北欧諸国、それから自由競争経済で最もすぐれているのは英語圏。そういう国のほうが、むしろ少子化は進んでいないわけです。緩少子化国。そうでない国のほうが、どうも非常に超少子化になっている。ということは、何かそこに超少子化を招いている大きな原因があるんではないかと。 それもまた望ましければそれでいいんですけれども、どうもそうではなさそうだと。一番の問題は、やはりジェンダー問題といいますか、日本でよく男女共同参画と言いますけれども、要するに、個人の平等は突き詰めていくと男女の平等に行く。これはもう、ずっと世界の流れになっている。その中で、今までのように夫は仕事、妻は家庭とか、そういう性別役割分担、分業でやっていくならいいですけれども、それこそもう、そうではない価値観が芽生えている、成長している。そういう中で、じゃあどうしたら、男も女も働け、男も女も家庭をあずかるというふうなことになっていけるかどうかということが問われていると思うんです。 その点で、先ほどの緩少子化国というのは、そういう努力を政策的にも、あるいは社会構造全体の変化の中でも先に行っている国ではないかなと。その点で、超少子化国というのは、どうもそれが、まだ今のところ政策面、あるいは価値観の点でもなかなかそこまで行っていないというあたりに大きな問題がありはしないかということで、個人的には、そこで、日本は超少子化国ですから、日本の政策としてはそういう方向に進める努力をすべきではないかと。結果としてそれが少子化対策になるかどうかは別にしても、そういう面があると思います。もう少し議論すれば、それは少子化の原因論とか結果論とかがあるわけですけれども、一番の根本はそこではないかと思っています。
それから、先ほどコメントしたかったのは、少子化というものがアジア全体で──東アジアで共通しているというお話がちょっとあったんですが、ただ、人口のほうから見ますと、相変わらず時差は大きくて、特に人口のほうで言うと、子供が5人、6人から子供2人に変わるという出生力転換がいつ終わったかということによって、その後の人口構造が非常に大きく変わってくるんです。日本は50年代にそれを達成して、以後40年間、最近はやりの言葉で言うと、人口ボーナスというものが享受できた時代であったと。これは要するに、働き手、生産年齢人口が大体7割を占める社会なんです。その時期に日本は高度経済成長があり、非常に人口構造的に有利な構造であったということがあるわけです。 その点で言うと、例えば80年代に出生力転換が終わったシンガポールやそういう国々というのは、まだ2020年、あるいは30年ぐらいまでそういう人口ボーナス期が続くと。それから、中国のように90年代にそれが終わった国だと、それからまだ30年、40年、そういう時期が続くわけです。そういう意味では、もう日本は人口ボーナスというのを享受できる時期がいよいよ終わってしまったと。これから専ら高齢化の負担にあえぐだけだという違いがあるわけです。 ですから、その点で言うと順番にそういう問題が起きてくる、最近出生力転換が終わった国々では、むしろ人口構造的には非常に有利な状態がまだまだ続くというふうに考えるべきではないかと。それからまさに高齢化の負担が来るということで、別の言い方をしますと、途上国でそういう出生力転換を終えた国が、やはり人口ボーナスを持っている時期にうまく経済発展が進めば、それは非常に幸せな状態なんだけれども、もしそれを逸すると、この人口ボーナス期というのは1回しか来ませんから、要するにその時期、経済発展と高齢化の二重負担にあえぐんではないかという議論もあるぐらいなんです。 そういうことをちょっとつけ加えておきたいと思います。 【司会】 ありがとうございます。 どうぞ、最初山澤さんのほうから。それから趙さんですね。 国際間の人の移動、受け入れが大きな問題に【山澤逸平・前国際大学学長】 2点申し上げます。 1つは、国際間の人の移動という問題。これは、今日のテーマの中では、おそらくグローバル化というところに入ってくると思います。しかし、今日の皆さんの報告の中にそれぞれ、例えば園田さんや松村さんのお話の中に出てきたんですが、正式に取り上げられてはいないというふうに思います。 そして、これは園田さんが、国内格差というよりは、国際間の格差だと。今日のところの中心は国内格差だろうというふうに整理もされて、後が進んでいったんですが、まさにそのとおりの国際間格差であり、グローバル化の現象として起こってくるんですが、やはり私は無視できない問題であって、これは特にアジアでは、定量的、人数的には国内格差に大きく影響するというほどのものにはならないだろうと思うんですが、定性的にはかなり重要な問題であり、例えばこれは阿藤さんのほうの人数の計算の中には、人の移動がどの程度ということは出てこないだろうと思います。 しかし日本の場合、それをどう扱うかという問題は、いろいろな政策面でも出てくるし、その労働力不足のあれにもなりますし、そして特に大事なのが、それをいかに受け入れるかという問題──先ほど園田さんは、出ていくほうだけを言われたけれども、受け入れるということも大変大きな問題であって、そういうことから、やはりこれは無視できない問題である。しかし、今日のところでは、おそらくそれ以上の議論にはなり得ないと思いますが、何かの機会にこれをぜひ取り上げていただきたいと思います。 それから2番目ですが、この今日の問題は大変難しくて、どう取り上げようか、どう考えたらいいかと迷っていたんですが、先ほど畠山さんがおっしゃられた議論で、あっ、これは一つのきっかけかなと思いました。畠山さん、インドへのITサービスのアウトソーシングとか、国内での労働、中国の労働者がやってくる云々の問題を、いわゆる国際間でそういうグローバル化が進むことによって、要素価格が均等化するというのは、国際経済学の中で大命題としてあるわけなんです。それと結びつけること、それのあらわれであるという。 開き直ってしまえば、何が悪いんだと。非常に合理的な現象である。これは先ほど、藤原さんもそういうふうにおっしゃられた。それはしかし、両側面があるというふうに藤原さんはおっしゃったんですが、私、国際経済学をやりましたから、まさにそのとおりなんだけれども、やはりそういうように言うにはちょっと問題があり過ぎるんじゃないかと。 例えば、国際間で最終的にはグローバル化が進んでくれば、自由化はあまり進みませんけれども、企業も動くし、金も動くしという形で、どんどんグローバル化が進んできて、利子率も均等化してくるし、賃金格差もだんだん進んでいくだろうと。まさにそういう傾向があるかもしれないけれども、それが完全に行くまでには非常に時間がかかるんであって、その間にこの不平等の問題ということをほうっておいていいんだろうか。 私は、格差そのものよりは、先ほど國廣さんがおっしゃられた、特に一番下の層、一番下のところで大変苦しんでいるところというのは、上のほうを引きずりおろすというんじゃなくて、その一番苦しんでいるところというのは、やはり同じ世代を生きている、同じ時代に生きている者として何とかしなきゃいけない問題であって、格差解消というよりは、むしろそこをどうやって引き上げるのかということを考えなきゃいけないんじゃないかと思うんです。 以上です。 あっ、1点だけ。これは技術的な質問として園田さんにすべきだったかと思うんですが、ジニ係数の数字、これ日本の数字、ちょっと低過ぎませんか。 【園田】 低いですね。 【山澤】 私はおそらく、これは3.0ぐらいで、特に、なぜかというと、スウェーデンとかデンマーク、北欧系がかなりいいレベルだと言われている。それに対して、日本はアメリカやイギリスのほうにむしろ近くなっていると言われてきている。これだとほとんど同じですから、もう少し数字は高い……。ただ、世銀の数字だと言われると何とも言えないんだけれどという。 【園田】 おっしゃるとおりで、1カ月ぐらい前の日経で、多分0.32とかぐらいの値だったんですが。 【山澤】 そのぐらいのほうが。 【園田】 はい。ですから、この値はちょっと低いなという感じは私自身もいたします。 【司会】 これ、ちょっと勤労者世帯の統計に引きずられたジニになっている可能性がありますね。 【園田】 かもしれませんね。 【司会】 趙さん、どうぞ。 アジアの大同思想と新自由主義が出会うと…【趙景達・千葉大学教授】 遅れてきて園田さんの報告をちゃんと聞けなかったんですが、このレジュメの中で、図1が私はずっと気にかかっておりました。この数字は、アジアでベトナムとシンガポールを除くと、ほとんどの国がグローバル化、新自由主義化というのを人々がもう内面化しちゃっているということですね。 ところが、東アジアというのは伝統的に大同思想というものがあるわけで、やっぱり平等であらねばいけないと。等しからざるを憂うという伝統があるわけです。それならなぜこういう数字が出てくるのか大変不思議で、さっきからずっと考えておりました。それだけグローバル化、新自由主義化の力が強いということなのですけれども、これを韓国と日本の場合を比較して今後のことを考えてみると、現在のあり方も方向性も違ってくるんじゃないかという気がするんです。というのは、朝鮮においても日本においても、近代後期にはものすごい民衆運動があるわけです。金持ちが富を独占してはよろしくないという民衆運動というのは日本の明治期にもたくさんあったし、朝鮮にもたくさんありました。したがって、名望家的な秩序観とか名望家的な支配というものが貫徹していくんですけれども、日本の場合は、それはおそらく戦後の農地改革で、名望家的支配というのは完全に終わっちゃったんです。 今、日本を見てみると、寄附行為というのはほとんどない国になっちゃったんです。韓国というのは、例えば台風なんかが来ると、すぐ募金が始まります。アメリカに行った大リーガーなんかも、これは莫大な金を寄附します。ペ・ヨンジュンさんも莫大な金を寄附しています。彼も日本の俳優でないにもかかわらず、日本に数億という金をやっているけれども、日本の俳優がそんなことをやっているとは聞きません。イチローが寄附をやったという話は聞きません。松井はちょっとやっているみたいですけれどもね。 これは何を言いたいかというと、日本がけちだという話じゃなくて、日本は戦後、そういう社会ではなくなったんです。おそらくまた、高度経済成長以降、いわゆる大同思想というものが崩れても、何とかフラットな社会を日本は実現した。そういう大同思想がなくなって、人々の寄附行為というものがなくなった段階で、グローバル化、新自由主義化の波に洗われているわけです。ところが、韓国というのはまだまだ大同思想というのは残っている中で、新自由主義化の波に洗われているわけです。これは何を意味するかというと、格差は韓国も、ジニ係数を見るとそうですけれども、私、ひょっとして日本よりもひどくなっているのではないかと思うのです。しかしながら、大同思想というものがあれば人を助ける。おまえ、金がなかったらおれが出してあげるということが成り立つわけです。その結果、人々の不満というものがそこで解消されていく。そういう文化が成り立っているわけです。 ところが日本は、もう数十年の間、そういう大同思想も人のために何かをするということもなくなって、自民党国家が、世界でも非常にまれに見る、ある意味ではフラットな社会をつくっちゃった。そういう中で、今度、再び巨大な格差をつくろうとしているわけです。人のために何かお布施をするという気持ちがなくなったところに新自由主義がやってきた国と、まだその大同的な思想が残っているところに新自由主義がやってきたところでは、社会の安定性というところで違いが出てこようかと思います。歴史家はあまり未来を予測しちゃいけないんですけれども、私はそういう意味では、韓国よりは日本のほうが深刻だというふうに考えているんです。 ただ、日本も、どうも寄附行為をしろと強要が出てきているようで、私の千葉大学でも昨今、教員、みんな寄附しろというので無理やり寄附をとられるんですけれども、おそらく日本もこういう社会になっていくんだろうと思います。ただ、金持ち連中がそういうような社会的な圧力の中で寄附を自発的にしていくかどうか、それはちょっとわからないところで、でも、そういう社会にならないと、ますます安定さの欠いた社会になっていくというように考えているんですけれども、いかがでしょうかということです。 【司会】 チャリティーとお布施とレシプロシティがない中で格差が広がるという、何か山澤さんのところで、きょうのメーンテーマが出たな思ったら、今、またさらに暗い世界に突入しかけているんですが、いかがでしょうか。 はい、どうぞ。 【木宮】 今の質問と関連して、園田さんにお伺いしたいんですけれども、園田さんは、竹田さんの質問に対して、いわゆる教育を通した社会的な流動性が増大していると。そういう意味で、中国の場合を例に、それなりにいい方向に向かっているということをおっしゃったんですけれども、いわゆる教育を通した社会的流動性の増大というシナリオはもちろん日本にも、韓国にも、中国にもあるわけです。 ただ逆に、例えば私、非常に関心を持っている韓国の教育の問題にも関連づけて言うと、今、要するに、何とか教育を通した社会的な流動性が確保されているという神話を非常に守ろうとしている、それはある意味では神話だというふうにわかっているんだけれども、とにかくその神話を守ろうとしている。そういう政府と、そういう神話なんていうのは、もう神話にすぎない、全部自由化してしまうべきだというような考え方が、今、教育制度、具体的に言えば、例えば大学入試制度において韓国で非常にぶつかっているわけなんです。教育を通した社会的な流動性の増大ということがもちろん事実としてあるとは思うんですが、ある種、事実としてはそういうことが機能しなくなったにもかかわらず、神話として生き続ける、ある種、イデオロギーとして生き続けるということがあると思うんですけれども、その転換ということをどういうふうに考えたらいいのかということをお尋ねしたいんです。 アジアの中で学歴達成の持つ意味は異なる【園田】 多分すごく難しい話で、今の話は、韓国の中では多分そうだろうと思いますし、さっきも言いましたように、日本や韓国では、ある種の学歴構造の達成の神話というのは、もう人々も議論し始めていて、ほんとうはそれが不平等を隠ぺいしているとか、あるいはほんとうはそんなに平等な学歴達成のストーリーなんかないというのは、多くの人たちがシェアしているような社会もあるんですが、中国は、まだ少なくともそうでもないんです。 おもしろいなと思ったのは、実は今、岩波書店の『世界』というところで対談をしていて、今、対談の結果が今出ている部分でそういうのが出ているんですが、じゃあ、その種の不平等があるということをどう見るかということに関して、すごくマイノリティだと思いますが、僕の対談者は、これは伝統的な中国だから、それはもう名望家ももちろんいて、でも、彼らが徳を持って、つまり、学歴達成した人間が、さっきの話じゃないですけれども、要するに民のことを考え、資源の再配分のことを絶えず考えておく、この種のメンタリティーがありさえすれば、たとえ神話であったとしても、それはいいじゃんかというストーリーもある。 ですから、結果的に現実の問題、つまり、もう1回言うと、多分、アジアの中で学歴達成の持つ意味というのは相当違う。韓国の場合、おっしゃるように、それはもう既に神話だというディスコースができ上がって、そこの中で議論が起こっているようなところもあれば、中国はまだ、それは神話だという議論はほとんど起こっていない。むしろ、まさに正当な競争なので、そこに対して親が、我々が見ても大丈夫? と思うぐらい、過大な投資をして、その投資はまさに美談として語られるという世界も多分あると思うんです。ですから、教育達成の意味をどういうふうに考えるかというのは、多分、相当ローカリティーが強い議論なのかなという感じがします。 他方、今日さっきお話ししなかったんですが、先ほどの山澤先生の中の国際移動ということを考えるときに結構重要だなと思うのは、今、アジアバロメーターの中でそれがすごく気になっているんですけれども、英語の能力でして、英語の能力によって所得が違うかどうかというのは、英語圏だとすごく出てくるんです。 彼らはその英語の能力を使って、違う労働市場にぽこぽこ参入できる。多分、インドのある種の奇跡というのがアメリカとのコンタクトであるとすると、そこには英語の力というのがかかわっていたはずです。シンガポールとかマレーシアを見ると、多国籍企業のホワイトカラーになれるかどうかは、これは英語の能力がものすごく関係する。ところが、北東アジアというのは、それはあまりなかったんです。2003年のデータを見ると、英語の能力と所得というのはほとんど関係していないんです。でも、これが入ってくると、東アジア、北東アジアの中でも英語の能力を持つかどうかで、すごく所得が上がったり下がったりということは起こるのかなという感じが半分しています。 ですから、私が今言った話はすごくアバウトですけれども、これから将来のことを見据えたときに、じゃあ、具体的にどういう教育達成なのか、それは初等教育なのか高等教育なのか、高等教育でも、ドメスティックにいくのか、留学という行為も含めていくかによって、その教育の意味とか、それが与えるアジア全体に対するインパクトというのは、相当違うものが入ってくるような気がするんですが、多分それは大きな論点なので、今ここではやめておきます。 【司会】 まるで収拾のつかない討論は私の責任なんですが、収拾がつかないながらに、そろそろ時間が終わりになりかかっているので、ここで一言言っておきたいという方、ぜひお願いします。最後に世話人が少ししゃべります。いかがでしょうか。 どうぞ、深川さん。 「格差」と「格差感」が混同されている【深川由起子・早稲田大学教授】 昔、セコムの方にお話を聞いたことがあるんですけれども、世の中は安全と安心は同じようなものだと思って、非常に混同しているところに問題があって、安全というのは確率論で、これは理系の世界だから、これだけセキュリティーを固めれば、泥棒に入られる確率はここまで下がるということはかなり言える、と商売上研究した。しかし、こうすれば安心だというのは文学部の世界なので、人それぞれみんな違うから、これは私には保証できませんというお話だったんです。 結構いろいろなところで混同されているなと思うのは、格差があるということと、格差感があるということがわりと混同されている部分が多くて、格差の問題は、ある種、特に経済学の人間は究極の要素、均等化でいいじゃないかと思いがちかと思いますけれども、ただ、ボトムラインがあると思うんです。これはやっぱり、一番下が絶望的な気持ちになるかという、まだそんなレベルじゃなくて、もっと、感染症で死ななければならない、臓器売買に走ってしまうという、この人身売買に行くという世界まで落ちていくのはどこかで食いとめないと、この世界がサステイナブルじゃない。好きで感染症になる人はいませんから、でも、感染症は金持ちのところにも来ちゃうので、そのサステナビリティのボトムラインの問題というのはある。そういう意味では、わりと理系の議論はあり得る世界だと私は思うんです。 ただ、格差感の話というのは、各国ともみんな事情は違いますし、特に、個人的には韓国は大同意識によって日本より救われているとは全く思いませんが、非常に弱い社会だと思うんです。だから苦しんでいるんだというふうに思っておりますけれども、やっぱり1つ違うのは、のんびりと経済成熟をしてきた先進国というのは、やっぱり中間層の勤労感というのは非常に似たものがあると思います。それに対峙するものとして、アメリカは随分違うという意見がきっとあると思いますけれども、不労所得に対するものの見方。これ、特に今の東アジアの新興国は、途上国的資産格差から、いきなりグローバル的資産格差にジャンプしているので、ここは全く違う世界が私はあると思うんです。 ある意味で、中国があれだけの所得格差に寛容でいられるのも、その根っこというのはやっぱりあって、中途半端に一度中間層をつくってしまった韓国や台湾の苦しみのほうが日本に近いという部分はあると思うんです。そういう勤労感の違いとか、所得形成の過程に対する違い、たとえホリエモンが変な人であっても、でも、まあリスクをとってやったじゃないか、結末はコンプライアンス上問題があったけれども、とにかく役所のしっぽにくっついていれば安泰だと思っている連中よりはいいじゃないかという人たちもいるので、あの人たちを吊るし上げようというところまでいかないバランスが、多分日本にはあると思います。その辺は、運動選手の世界で、かけた筋肉に落ちていくスピードは比例する。5年しかかけていない筋肉は5年で落ちますけれども、20年でつくった筋肉は20年かけて落ちていくそうですので。 そういうのからすると、先進国は100年ぐらいかけてネーションステイツをつくったとすると、そこは簡単に崩れないものはあると思うんですけれども、新興国は5年で大発展はしますが、大崩壊する弱さというのもあるんじゃないかなと。その意味で、勤労感の問題とか、教育の再配分に対する価値観の問題とか、中間層に対する考え方とか、各国結構フェーズが違うので、格差感のほうは、あまり単純に横並びというのは、アジアだから文化的にどうたらというのはあると思いますけれども、それだけではないという気がします。 【司会】 この不可能なシンポジウムの中身をまとめるという役割は、世話人が背負わなければいけません。しかし、私1人がする気がありませんので、国分さん、王さんと順番にお話を伺って、最後に私がいきます。 アジアでは政党政治がうまく機能していない【国分良成・慶応大学教授】 大変なことになってきたという感じなんですが、今日の全体のテーマというのは、格差、少子化、高齢化、おそらくそれが広い意味のグローバル化とか、それ以外にもさまざまな要因がありますけれども、そういうものがある。 もう一つは、これとアジアをどうつなぐかという話だと思います。ずーっと皆様のご意見をお聞きして、あまり長くならないようにお話ししたいと思うんですけれども、格差、少子化、高齢化と、こういう現象をどう考えるかということは、おそらくその背景要因が大事だと思うんです。その議論に集中して、そしてまた、それに対して、これから我々がどう生きていくかという話だと思いますが、それぞれの背景分析の中で、1つは状況的、あるいは環境的要因というか、それはつまり、近代化が起こって、あるいは都市化が起こるとか、あるいは大衆消費社会ができるとか、あるいは個人主義が芽生えてくるとか、あるいは全体的なグローバル化の動きとか、そういうような1つの現象というか、これは世界的に起こるわけですけれども、そういう中に状況、環境的要因の中で位置づけていくという1つの分析があるんだろうなという感じがしました。 しかし、ここのアジアネットワークで考えるべきは、こうした問題の発生というものを、アジアという1つの切り口で考えたときはどうなるのかということだろうと思うんです。そのアジアという問題を考えたときに、私がこのテーマを取り上げるということで、皆さんと話し合っていったときの、一つの発想ですけれども、この格差の問題も少子化の問題も、高齢化の問題も、実は日本、中国、韓国、台湾、そして香港とすべて共通しているわけです。ここが世界で一番最悪の状況になっているわけです。ここに何らかの共通項があるんだろうかということであります。 これを今、深川さんから文化論で単純に切るべきじゃないというお話があったんですけれども、その文化性の問題と、文化を生み出す制度の問題、あるいは構造の問題というか、そうした観点から少し考えられないだろうかということで、私は2つの構造的要因を考えてみたんですけれども、1つは、社会とか文化の中にある構造的な要因で、今日のお話の中にもありましたが、実際、少子化が生まれているのは、今言った、まさにグレーターチャイナというか、そこの部分ですよね。それから、ヨーロッパではイタリアとか、基本的に家族を中心にした社会というか、家族を非常に重視する社会の中に生まれてきているということは、よく言われることですよね。 東アジアにこれを持ってくると、いずれもここだけはすべて戸籍制度を持っている地域であるということも言われますね。この戸籍制度を持っているということは、もちろんそれは家族制度を中心にでき上がっているわけですが、まさにこのグレーターチャイナの中にできた、1つの歴史的に生まれてきた、制度化されてきたものだと思いますけれども、そういう形で考えていったときに、この問題はおそらく女性の問題という話がありましたけれども、そこにかかる。今日は女性がおられるんですけれども、全然発言をしないので、非常に不気味に思って見ていたんですが、そうした社会的な価値、あるいはそうした文化とかを生み出す制度的なもの、しかし例えば、この地域じゃなくて、ヨーロッパを考えてみると、少子化が起こっていないといっても、つまり結婚イコール子供である、つまり、子供を持つということは結婚であるというのがこの地域の特徴ですよね。99%か98%か、そういう数字がありますよね。 しかし、フランスなんかは結婚しないで子供を持っているのが40何%、スウェーデンに行くと50%を超えるということで少子高齢化という、今日お話がございましたよね。そういう点でいくと、つまり、もしあそこが結婚イコール子供であるという前提でいくと、多分、少子高齢化が激しくなるだろうと思うんです。 ですから、この地域で、それではここをどうするのかと、ここのところの問題をどう考えていくのかといったときに、単純に家族制度をぶち壊したとか、これはまさに天皇家の問題にもかかわるわけですけれども、そういう問題ではなかろうし、これはもう、この歴史の中で培われてきたことであるわけですよね。結婚観、あるいは戸籍制度とか、こういうもの自体への問題設定は、むしろおそらく我々が取り組むべきは、そこから生まれてくるさまざまな障害というか、それによって生まれてくる、今言ったような少子化とかいう問題をどう克服するかというテーマじゃないかと思うんです。 そういう点でいくと、多分、そこのところで急に、私が今一番関心があるのは、もちろん中国問題とか、あるいは東アジアがどうなるかということなんですけれども、もう一つ、最大のテーマというのは、私の教えている半分の学生である女性たちが、これからどんな将来をつくるんだろうかというのは、最大の関心の1つなんですけれども、半分ですからね。この人たちが、日本の将来を担ってくれないと困る。日本のためにも頑張ってもらいたいと思いますし、もう少し狭い領域でいきますと、慶應のためにも頑張ってもらわないと困ると思いますし、もっと狭くなると、老後少し老人になった私を励ましてもらうとか、そんな野心的なことも考えつついろいろなことを考えていくと、どういうふうにこの女性たちを──やっぱり見ていますと、私の感じというか、今、ゼミの学生の女性だけが集まって話したのをずーっと聞いていると、もうそちらの問題ばっかり。10年後の自分の話、子供をどうする、そればっかりになっているわけです、家庭、結婚。それを見ていると、自分たちでもう抱えてどうする、克服するという話になってきているわけです。 結局、おそらく結婚は別にそれほどの、もちろん社会に出て、会社に入るとかいうときに一定の差別とかいうことはあるでしょう。そして実際、子供を持った後が、女性の場合、一番大きな困難にぶつかってくると。最初のうちは保育園に預ければいいけれども、その後、小学校に上がって、午前中で帰ってくるのはどうするかとか、みんなこういう議論をやっているわけです。つまり、その辺のもっと具体的なところをどういうふうにするかというと、これは制度でかなりできることかなという感じもするんです。 そこでちょっと自慢話なんですけれども、今年、私が担当しているある学会で、去年から託児所を中に設けたわけです。つまり、例えば学会を九州でやったと。そのときに、そこに託児所をつくったわけです、中に。プロを雇って、そこにどうぞという形でやったら、もうまさに女性の味方というふうに突然私の評価が上がりまして、それはやはり、正直に言って大したことじゃないんです。ちょっとしたことなんですよね。ちょっと考えてみれば、確かにそうだと。なぜ感謝されたか。15年学会に出れなかったと。つまり、今日は子供をあそこに置いて、こっちに行って、あっちの母親に置いて、だんなに預けてどうとか考えたら、もうそれで嫌になっちゃうというような、つまり、もう頑張っている女性たちの、学会に出れないとか、こういうのがある程度でも解消できる、そういう小さなことで意外とできていくのかなという感じがするのが自慢話なんです。 ただ、私、自慢話と言いましたけれども、聞いてみたら、医学系の学会とかいうところはもう全部完備していると。つまり、女性がそれだけ出ている社会というのはそうなっているらしいんです。ですから、その辺はやっぱり、まさに文系の学部、学会なんかは意外と遅いという、そんなことかなと。 ちょっと長くなりましたけれども、もう1点だけ。体制、制度の構造的な要因でいくと、政治の問題について、今日は全く議論していないんですけれども、政治体制とか政治制度というのは、私は政治学者ですから、最後に一言言いたいんですけれども、先ほど申し上げた中国、韓国、台湾、日本もそうですけれども、実は政党政治があまりうまく機能していないんですよね。つまり、中国は弱者の意見をどういうふうに代弁するかなんて、もちろんできていないわけですよね。 例えば、日本にしても韓国にしても台湾にしても、おそらくもっと市民社会型の政党のはずだったんですけれども、やってみたら全然違う、格差が激しくなってきているという現象が起こったわけです。つまり、何が言えるかというと、結局、今起こっている社会の決定的なテーマに応じた政界の、政治の体制ができていないというか、それをどう利益を吸い上げるかという形の──政党政治も含めて。 ですから、自民党か民主党かとまさに今、問うているわけですけれども、そこに何が違うのかという部分のところが、日本の今抱えている大きなテーマとの間にできているんだろうかということです。その辺を少し、政治の問題もあり得ると、そんなようなことを──ちょっと8分ぐらいしゃべりました。すいませんでした。 【司会】 これで見事なオチがついちゃったのに、まだもうちょっと我慢してください。 教育の格差はさらに広がっていくだろう【王敏・法政大学教授】 まだ女性のしゃべりがないと、国分さんのご指摘がありましたので、少ししゃべらせていただきます。 アジアにおける格差をいろいろな角度から見ることはできるんですが、園田さんの教育という切り口に関しては、共感を持っております。その背景から申し上げますと、趙さんが言われたように、東アジアには大同(平等)という発想が昔からありました。それは不平等を阻止する考え方にもつながっていたのではないでしょうか。 ところが唯一、格差を公的にも許せるところがあるとすれば、それは教育だと思います。しかもそれは、古来から伝統文化の根底にもあったものです。ここ数年、中国は伝統文化を見直しながら教育に力を入れています。古今の教育に学ぶ姿勢により、恐らく教育の格差はさらに広がっていくだろうと思います。このようなところについては、韓国でも同様の傾向が見られると思います。 私自身の体験で恐縮ですが、ソウルに行きまして、尋ねられて教員という職業を申し上げましたら、お店のおばさんも若い店員も、急に尊敬する表情に変わりました。もちろん買い物の割り引きには利かなったですけれども、そのことを通しても、とりわけ中国と韓国は教育の格差について「自然に」容認していると思われます。これも伝統のある生活の一部であるとすれば、主としてアメリカに学んで西洋的業績主義、成果主義、能力主義を重視して、格差は一層深まっていくだろうと思います。 1週間前に中国に行って参りました。泊まったホテルは満員でした。わりといいホテルでした。受験、それから期末試験のために、親といっしょに泊まっている受験生でいっぱいだったのです。それから国内移動には飛行機を利用するのですが、機内誌はよく読みます。劉さんが言ったように、教育のモデル基準は、アメリカやヨーロッパに傾いています。機内誌の記事もそれらしい内容でした。写真つきの記事で埋まっています。 ということで、これからもおそらく、教育における欧米への接近、そして能力主義の拡大がますます日常化されていくと思います。そこで、教育格差を認めざるを得ない社会現象も多く現れているでしょう。例えば、松村さんが指摘した日本の造船の町に流れてきた出稼ぎ労働者が一例だと思います。労働者たちにとって、出稼ぎが現実における可能の範囲での自己努力だと思われているでしょう。 古来の格差対策でもありますが、格差によって富をためた人たちには、中国の四字熟語で表現する「公約」があります。発達の「達」に、「者」に、救済の「済」に、人間の「人」という「達者済人」です。これはことわざでもありますから、「言葉」として日常的に使っています。格差の結果かもしれないが、「富」の存在を許せます。しかし、そうなったときには人を社会を救済しなければならないのは「大義」とされています。それは趙さんが言ったように、韓国の人気俳優の寄付が多いのと比べて、日本の芸能人やスポーツ選手たちの寄付行為は少ないという背景があるからでしょう。実は中国の資本家などはよく寄附しています。社会貢献の一環でもある寄付という習慣はある意味からいえば、つまり格差を認めているから成り立つところがあります。寄付は格差を縮小させていく暗黙の対処法になっていると思われます。 そんなわけで、アジアの研究者も含めて自国の現状に立って日本を見渡す場合、日本は実は奇妙な平等主義が働く世界だと思われています。相対的に日本の格差はアジア諸国より全然小さい、その程度の格差と受けとめられているわけなんです。 例えば、中国からの大学教授が私の家を見学したいと言いましたけれども、実はマンションの私の家は86平方メートルしかないと言いましたら、見学希望の問題提起が突然消えてしまいました。都市部の中国人の住居でも平均は最低120平方メートルで、教授クラスになると300平方メートル前後が当たり前ですから。そうすると、私の家を見学する価値が全くなくなったわけです。 これからは日本がどのように格差に向かって日本なりの政策、朝日新聞の連載のテーマを借りて言えば「分裂されない日本」をつくっていくか、注目されていますし、アジアの参考になれる提示が望ましいんじゃないか。期待いたしております。 昔ながらの「わかりやすい議論」は出来ない時代に【司会=藤原】 ありがとうございます。 破滅的な司会の失敗のために大変なことになったんですが、それでももうちょっと我慢してください。申しわけないです。何でこのテーマを扱うか、少子化、格差、グローバリゼーション。1つ重要なのは、先進社会として東アジアを扱うという視点でした。言葉をかえて言えば、アジアが虐げられているという議論、あるいは日本がアジアを虐げているという議論では、全く解き明かすことができない現象があらわれているわけです。 少子化が非常に急速に進展しているのは何も日本だけではなくて、韓国でもそうで、中国でもそうです。その意味で、日本の周りには子だくさんの社会があるという仕掛けははっきり壊れている、変わってしまったわけです。このようなときには、少子化とか格差の議論をするときに、もちろん西欧化とかグローバリゼーションとか、そういうもののせいだという議論は当然出てきます。日本だったら、女性が働くようになった、生意気になった、だから少子化が進んでいるんだという議論は、与党の関係者からもううんざりするほどたくさん聞かれる今日このごろですが、もちろんそれは実態を解明しているわけではない。 また、グローバリゼーションとの関係では、嫌な言い方ですけれども、日本は何もグローバリゼーションの犠牲者だという自己認識だけで終始できないということは、そろそろ認めざるを得ないんじゃないでしょうか。我々はグローバリゼーションの受益者でもあり、同時に損をしている人も社会の中にいるというのが実態になります。そうなると、これまでの議論の使い回しでは、もうこの問題に答えることはできないということになるわけです。 そこでいろいろな問題が出てきましたが、その中で1点だけ、もう時間もありませんが、山澤さんが国際間の人の移動のことに触れられました。これは非常に重要なポイントだと思います。実は格差を考えるときに重要なのは、格差感、認識の問題じゃないかというお話もあったんですが、そこに行く前に重要なのは、格差が固定するかどうかなんです。どれだけ固定した格差ができちゃうか、できないかということで、それはかつて、マイケル・ハリントンがアメリカの議論をするときに、The Other America(もう一つのアメリカ)という議論をしたことにつながります。 アメリカの場合には、人種と地域と重なる形で、もう一つのアメリカが出てくる。ハリケーン・カトリーナよりちょこっと顔を出してきたような世界があるわけですが、これがアジアで考えられるときに、移民と重なるかどうかというのはとても大事なポイントかもしれない。移民社会がアンダークラスをつくることになるのか、ドイツにおけるトルコ人のような、社会の外部をつくってしまうかどうかというのは、これからおそらく議論する意味があることではないかと思います。 教育による階層間流動の可能性が非常に高いと考えられているときには、格差がどれだけ大きくても、それが大きな問題だと考えません。結局のところ、大きな格差があろうと、教育で何とかなるという期待があるからわけです。だんだんそれに疲れてきた韓国の風景を木宮さんが紹介してくださったわけですけれども、結局、教育と言ったってそれでほんとうに意味があるのかという、寒々とした日本とか、あるいは韓国の風景が生まれるのかもしれない。このときに、また格差の認識というものも変わるんだろうと思います。 これは言うまでもないことですが、園田さんが的確にご指摘になったように、経済発展の段階によって、格差に対する認識は一律にあるばかりじゃありません。各国による差異がかなりあるということになる。しかし、少なくとも昔ながらのわかりやすい議論ができなかった、この3時間であったということぐらいまでは言えそうだということで、どうぞお許しをお願いします。 最後に、本日お話しくださいました園田さん、阿藤さん、松村さん、そしてご参加いただきました皆様に心から感謝したいと思います。ありがとうございました。(拍手) |