このほど最終答申が明らかにされた教育基本法の見直しでは、国際社会のグローバル化と日本人のアイデンティティーの問題が大きな論点の一つとなりました。「中間報告」では、「自らのアイデンティティの基礎となる伝統、文化を尊重し、郷土や国を愛する心を持つことが重要である」と表現されています。
この「アイデンティティー」について、台湾では「認同」という訳語を漢字で見つけ、台湾人としての「認同」を深めようとしている、と指摘されるのは国際社会学者の中嶋嶺雄氏です。では日本では、こうした公的な文書ですら、「アイデンティティー」を日本語で表現できないのはなぜなのでしょうか。
前回の私のコラムでとりあげた大学生、小山佳孝さんの文章は、「日韓の学生の意識調査の結果、日本の若者に比べて韓国の若者のほうが『自国に対する意識』が強い」とし、それを「強いナショナリズムがある」と表現したところ、韓国の学生の反発や当惑を招いた、考えてみれば「意識調査に参加した19人の日本学生のうち、『ナショナリズム』ということばの実質について自分なりに考えたことのある人は一人もいなかった」というところが大きなポイントです。
「アイデンティティー」とか「ナショナリズム」とかのカタカナことばは、その中身をよくよく分かって使わないと、生きた言葉にならないものです。概念だけが一人歩きしてしまいがち。ナショナリズムと聞いて、自分なりにその意味を別の人にはっきり分かるように説明できる人は、いま日本にどれくらいいるでしょうか。
教育基本法見直しに向けての中央教育審議会の文書でも、ナショナリズムの代わりに「愛国心」や「郷土愛」といった言葉を使ったならば、論議はもっともっと一般の関心を呼ぶものになったかもしれない。では、なぜ使えなかったかといえば、日本ではいまだに「愛国心」という言葉が戦前の国家主義の時代のニュアンスをまとっているからかもしれません。言い換えると、日本社会ではいまだに、「個人主義」という考え方がしっかり浸透していないせいかもしれない。個人主義にしっかり裏打ちされている社会でこそ、愛国心や郷土愛ということばは、本来の響きを持つのかもしれません。
けれど、グローバル化が急速に進む時代だからこそ、一人ひとり自分がナニ人であるかを考える機会は増えています。私自身、自分が「日本人」であることの意味を強く考えたのは、中国など海外勤務の時でした。
新年度のアジアネットワークの作業がもうすぐ始まります(現時点では、私もイラク戦争の新聞紙面作りに駆り出されているのですが)。そのひとつの核として、グローバル化が進むアジア各国、各地域で、「ナショナリズム」、いえ「愛国心」や「郷土愛」がどのように広がっているのか、そして、それらはたとえば30年前、50年前と同じなのか、違うのか、などということを考えてみたいと思います。
それは、アジアのあちこちで「個人主義」がどのように広がっているのかを確かめる作業になるのかもしれません。そうした作業を通じて、「アジア人」という概念が、少しは具体的になってくるかもしれないと考えているのです。