2008年3月18日
人が行き交い、活気のあるエルファシェールの町
見渡す限り小さな住まいが密集するエルファシェール郊外のアブショーク国内避難民キャンプ
国内避難民キャンプに入ると興味深そうに人々が集まってくる。表情は意外に明るい
村が襲撃された時の様子を生々しく語る避難民の男性は、思いを巡らすように時折目を伏せた
武装した男たちを乗せ町中を走る車。避難民は「彼らがジャンジャウィードだ」と小声でつぶやいた。
国連関係者によると、ジャンジャウィードは軍兵士の身分が与えられていると言われ、民兵と軍兵士の区別はあいまいになっている
ジャンジャウィードの拠点と言われる町、カプカビアのマーケット
国内避難民キャンプの一画に目を向けると、幼い少女がおびえた表情で路地の奥へ走っていった
日中の、突き刺さるような日差しが西にだいぶ傾き、薄暮が訪れた。町の中心部にある市場は、買い物客でごった返し、砂ぼこりで辺りが淡い紫色にかすんでいる。果物、野菜、ナツメヤシの実からサンダルやつめ切り、せっけんといった日用雑貨まで、ありとあらゆる物が露天で売られている。食堂から、羊肉を焼くにおいが流れてくる。
しかし、通訳として取材を手伝ってもらった青年(23)の表情からは逆に、笑顔が消えていった。「そろそろ戻らないと……」
スーダン・北ダルフール州の州都エルファシェール。郊外にある三つの国内避難民キャンプの一つに彼は住んでいる。アラブ系民兵組織「ジャンジャウィード」の襲撃を逃れてきた非アラブ系の黒人住民だ。ふるさとを離れて4年余りになる。
暗くなると、キャンプ周辺には避難民を脅して金品を巻き上げようとするごろつきが出没する。時に暴力も振るう。避難民たちは警官や兵士の仕業だと言うが、真相ははっきりしない。キャンプ周辺だけではない。町なかでも、私服の警官や軍情報機関の関係者が避難民の行動を監視しているとされる。スーダン当局は、避難民と反政府組織とのつながりに神経をとがらせているのだ。
ダルフールの取材は難しい。
03年に黒人住民が反政府組織を結成し、アラブ系による支配を続けてきた中央政府に反旗を翻すと、これを抑え込むためにアラブ系民兵組織による黒人住民への無差別襲撃が始まった。国連は、20万人が死亡し、200万人が国内避難民になったと推計している。この数字をめぐっては議論があるが、それはそれとして、国連高官が「世界最悪の人道危機」と表現したダルフール紛争で、欧米諸国の政府とメディアはスーダン政府を厳しく指弾してきた。
スーダン政府は欧米メディアがダルフール地方で取材するのを制限するようになった。私たちは、政府からエルファシェールの滞在許可は得たものの、地元で国際機関の動きや外国人の行動を管理する政府の「人道援助委員会」の担当者からは「市外に出ることは認めない」と、なかば脅されるようにクギを刺された。
町の人びとは人なつこく陽気だ。しかし、取材となると態度が一変した。欧米諸国から「悪者扱い」されているアラブ系住民は外国メディアへの警戒感が強く、まともに答えようとしない。官憲の目や「密告」を恐れてもいる。避難民(黒人住民)は、いわゆる西側メディアに窮状を訴えたがっている。しかし、彼らも同様に当局の目におびえていた。避難民からの取材は、目立たないようにキャンプに通うしかなかった。
ダルフール紛争の根源に、水資源や砂漠化が進む牧草地・可耕地をめぐる、アラブ系遊牧民と定住黒人農民の間の緊張や対立があったのではないか。地球温暖化が間接的に紛争の芽を膨らませた、とは言えまいか。それを見きわめたいと思っていた。それには農民や遊牧民の声を拾っていくしかなく、それは、襲撃の生々しい様子を聞き取る作業でもあった。
ジャンジャウィードは、民兵組織が自ら名乗っている名前ではなく、襲われた側が「馬上で武器を振り回す男たち」という意味で呼び習わすようになった名だ。欧米メディアは「馬上の悪魔」と呼んだ。
避難民たちによると、ジャンジャウィードは突然やって来た。数百人、証言によっては数千人の騎馬集団が村を襲って回った。男たちはカラシニコフ銃を乱射し、草ぶきの家々に火を放っていった。多くの場合、武装した男たちを荷台に乗せた四輪駆動トラックに先導されていた。男たちは無線機で連絡を取り合っていた。そして、上空を旧ソ連製の貨物機が飛び、爆発物を落としていったという証言が多い。軍が襲撃を支援していた、とする指摘の根拠の一つである。
逃げまどう村人に、民兵は「出て行け。さもないとまた襲いにくるぞ」などと叫んだ。北ダルフールのある村の村長だったアフメドさん(52)は、逃げ遅れた村人13人が村の南側の広場でうつぶせに並べられ、端から頭部を撃ち抜かれていったのを目撃した。襲撃後に人びとが戻った村は、2度、3度と襲われた。破壊され、無人化した村はダルフール全域で500とも2000とも言われている。組織的な襲撃が繰り返されたことに疑いの余地はないようだ。
スーダンの「アラブ化」を狙う中央政府が、民兵を組織して一方的に攻撃を仕掛けてきた、と避難民キャンプの指導者たちは口をそろえる。そして、異口同音に「過去、アラブ系とは共存してきた。小さないさかいはあったが、すべて解決してきた」という。
だが、「両者の関係の歴史はそれほど単純ではないだろう」と和平交渉に携わる国連関係者の一人は言う。
避難民やアラブ系のラクダ商たちの重い口から、80年代には農民と遊牧民の緊張が高まっていた様子がうかがえる。農地・牧草地の減少と人口圧力で両者の接触と摩擦が増えた。そこに武器の流入やスーダン政権、チャドなど周辺国の思惑が絡んだ。農民が遊牧民を襲った事件も多数あった。そして、報復があった。構図は複雑だ。
黒人住民が「アラブ人」という時、そこには「野卑な連中」という侮蔑(ぶべつ)の意識が込められている、と避難民の一人は言った。アラブ系は黒人を「奴隷ども」と吐き捨てた。ジャンジャウィードの馬群が村にやって来た時、憎悪はすでに用意されていた。そう見る人は少なくない。