2008年12月15日
洞爺湖サミット国際メディアセンターでの市民社会の記者会見。一番左がザンビアの農民ジョイス(Joyce)さん、司会は世界的市民社会組織CIVICUSのクミ・ナイドゥ(Kumi Naidoo)さん(2008年7月筆者撮影、留寿都)
留寿都の酪農家を訪問するザンビアの農民ジョイスさんとPELUM Association事務局長のジョセフさん(2008年7月吉田美樹撮影、留寿都)
TICAD4に突入していく最中、何度このときの議論を思い出したことだろう。TICAD4には間に合わなかったが、人びと主導の提言活動ができないかという模索は、TICADが終わってからというもの次第に私の中で重みを増していった。そこで、洞爺湖サミットには、アフリカのNGOだけでなく、農業を唯一の収入源とする「正真正銘の農民」に来てもらおうと思いついた。昨年末から上昇し始めた世界の穀物価格は、3月から4月にかけてアフリカ各地で暴動を引き起こした後も上がり続けていた。5月末に開催されたTICAD4では、アフリカ各国首脳が食料危機への対応を訴え、当初の見込みとは異なり食料問題が大きくクローズアップされることとなった。6月3日にはローマで食料サミットが開催されたものの食料価格は高止まりし、7月に開催される北海道洞爺湖G8サミットの議題として急遽追加された食料問題に注目が集まることは明らかだった。
そこで、サミットに集まる富裕国あるいはアフリカ政府の首脳だけでなく、日本の政策決定者そして市民にも、今こそアフリカ農民の生の声を聞いてもらおうと考え、アフリカから農民の女性を招いたのである。結局、食料危機によって飢えるのはG8に名前を連ねる富裕国の人間ではない。ましてや政府首脳たちではない。降らなかったり、降りすぎたりする雨に生活のすべてをかけているのも、アフリカの痩せた大地と格闘しているのも我々ではない。だからこそ、この危機を乗り越えるためにどのような支援をすべきかについては、日々体をはって気候変動(異常気象)や投入財(肥料や燃料)価格高騰のリスクを背負うアフリカの農民の声にこそ、耳を傾ける必要があると強く感じたのである。
アフリカ農民団体のネットワーク(PELUM Association)に相談した結果、ザンビアの首都から600キロ離れた農村に住むジョイス・ムワンジェ(Joyce Mwanje)さんに来てもらうことになった。ジョイスさんは、このとき初めてパスポートを獲得し、国を出るのは初めてで、農村でしか暮らしたことしかないという状態だった。44歳で7人の子供の母。3人の孫のおばあちゃんでもある。農業以外の収入がない農民ではあるが、夫とともに7人を立派に育て上げている。他の農村女性と比べ、決して高い教育を受けたわけではなく、英語で話すのは上手ではない。国際会議に出たことがあるわけでもない。しかし、ジョイスさんには、何よりも自分自身の努力によって農業を取り巻く逆境をはねのけ、生産性を向上させたという実績と誇りがあった。来日した彼女は、どんな人に対しても快く、自分の生活や畑のことを一生懸命説明し、その話に耳を傾けた多くの人が感銘を受けたようだった。彼女の話は、次のようなものだった。
ザンビアでは、90年代後半に入ると、政府からの化学肥料の補助が途絶え、耕しても収量は伸びず、家族が食べていけない状況が生まれたという。その上、いったん化学肥料を投入した畑は使いものにならず、化学肥料なしではほとんど生産ができない土地になってしまった。困り果てた農民たちはシロアリのアリ塚を利用した伝統的な農法を実践するも、アリ塚面積は限られ、家族全員のお腹が満たるほどの効果を上げなかった。そこに現われたのが、グリーン・リビング・ムーブメント(Green Living Movement)というアグロフォレストリー(樹木を植栽し樹間で農作物を栽培する農林業)を活用した有機農業の普及に取り組むNGOであった。GLMは、ザンビア農村の惨状を目の当たりにし、何かできないかと考え立ち上がった団体である(詳しくは、シリーズ(8)で紹介)。意図的に首都から遠い貧困地域を選んで、マメ科の成長の早い樹木を畑に植え、窒素分が豊富な落ち葉を有効に活用して土壌を豊かにする方法(東アフリカで比較的普及しているアグロフォレストリー手法)の他、混作(intercropping)を活用した有機農法を教えた。
ただしこのやり方はすぐに効果が出なかった。アグロフォレストリーで成果を出すには、まず木が育ち、葉が土に鋤き込まれ土壌を豊かにするまで、少なくとも2、3年が必要であったからである。そのため、途中で断念する農民も続出したが、ジョイスさんは諦めなかったという。なぜ?と聞いたら、「他に方法がないじゃない。化学肥料は手に入らないし、昔のやり方でもダメだった。でも私たちは子供たちを食べさせなければない。うまくいかなくても失うものはないからやってみたの。そしたら、素晴らしい結果が生まれた」、と。今では、ジョイスさんの畑にはありとあらゆる作物が実り、他の農民たちも彼女の成功から学び始め、その効果は周辺の村にも及んでいるという。ジョイスさんは、自分や仲間たちが、どのように農業へのやる気を取り戻し、自らの生活を変えていったのかを丁寧に説明してくれた。このような話を聞いた私は、一人でも多くの人に彼女の話を聞いてほしい、とますます考えるようになっていた。
東京・横浜での滞在を終え、すぐに目指したのは、洞爺湖サミットのための国際メディアセンター(留寿都)であった。治安維持やスペース上の問題から、洞爺湖と離れた留寿都にメディアセンターが置かれたのだが、ここにはサミット史上初めて市民社会独自の記者会見場が用意され、市民社会の詰め所も置かれた。日本政府のこの対応は賞賛されていいだろう。この措置により、サミット期間中日本や世界の市民組織は繰り返し記者会見を開くことができた。特に、世界中のメディア関係者が部屋に入りきらないほど押し掛けたのが、サミット初日の最初の二つの記者会見と最後の記者会見であった。その最初の記者会見でメーン・スピーカーとして話したのがジョイスさんだった。
ジョイスさんは、ずらりと並ぶテレビやスチールのカメラに戸惑いながらも、しっかりとした声で、どのようにして彼女たちが農業生産を向上させ、生活を改善したのかを、持参した映像と種を披露しながら説明した。私は、この記者会見の司会をしていたため、記者席が丸見えで、よく観察することができたのだが、そこで見たものは、ジョイスさんが語る一言一言を聞きもらすまいとするメディア関係者の真検な姿だった。この記者会見後、ジョイスさんへの単独インタビューの申し込みが朝から晩までひっきりなしに続き、日本のすべての全国紙とすべての地元紙に留まらず、中国・ロシア・アメリカ・フランス・英国・ドイツ・オランダ各国のテレビ・ラジオ・新聞から取材申し込みがあり、そのほぼ全部の番組や紙面で彼女の話を取り上げてもらうことができた。さすがに疲れ果てたジョイスさん、最終日には早々と宿舎に帰ってしまった。福田総理(当時)の最終記者会見をモニターで眺めながら後片付けをしていると、市民社会の詰め所にひっこり現われたのが、オランダの新聞記者の女性であった。とりわけ熱心にジョイスさんの話を聞いていた人だった。ジョイスさんがもう帰ったことを伝えると、その記者は落胆して次のように言った。
「日本に来てジョイスさんに会うまでは、ただ偉い人たちの会議の様子をタイムリーに流していればいいと考えていた。でも、それではいけないのだと、ジョイスさんに会って目覚めた。世界の問題をあたかもすべて知っているかの如く語る富裕国政府首脳の声を、当事者の声を知ることなく、批判なしにそのまま垂れ流してはいけないことに気づかせてくれた。なぜなら、彼女に今すぐ必要なものはと訊ねたら、『牛(300ドル)』という答えが返ってきたから。1頭はすでに確保したから、せめてもう1頭確保できれば、耕す面積を大幅に広げることができる、そうすれば余剰を売ってまた牛を増やせる、という話だった。首脳たちが描いた『アフリカ食料危機の処方箋』が、いかに現場からかけ離れた数字遊びにすぎないのか痛感した。我々は現場の当事者の現状と声を本当に知っているのか、そう危機感を持ったのだ。ジョイスさんからは、サミット報道のあるべき姿、いやしてはならないサミット報道のあり方を深く学んだ。」
そう言って、オランダの新聞の一面を見せてくれた。その一面には、サミットに集った各国首脳の写真が大きく紹介されていたが、そのすぐ下の記事の冒頭に、ジョイスさんの声が大きく紹介されていた。女性記者は、何度も何度もジョイスさんによろしくと言って、名残惜しそうにその場を後にした。その様子に、私も心打たれるものを感じた。
しかし残念ながら、洞爺湖サミットについては時すでに遅しで、急遽議題に取り上げられた食料問題、それに派生して議論されたアフリカへの農業支援政策などに影響を及ぼすことは不可能であった。現場の声に耳を傾け、現場の努力を知り、現場の人びとの努力のサポートをする。国際協力の基本としてずい分昔から言われてきたことではあるが、実際には実行に移されないまま、外から上から持ち込まれるプロジェクトが失敗しては、コミュニティは見捨てられる、ということが繰り返されてきた。にもかかわらず、洞爺湖サミットでは、化学肥料を大量に供与し、バイオテクノロジー(言葉は曖昧にしてあるが、遺伝子組み換え技術)を導入すれば食料問題は一気に解決するという「バラ色の処方箋」が描かれてしまった。外からの一時的な大量の物資供与、そして新しい技術の上からの導入…過去に何度も失敗したこのモデルが、なぜ今になってアフリカで成功するという結論になるのだろうか。
あまりの乱暴な議論と結論に、アフリカの市民社会は怒りを露わにし、そして絶望した。あたかも、アフリカの農民が空のお椀を持ってただ施しを待っていて、それを外からのモノで満たせば問題は解決するという前提が見え隠れする。しかし、ジョイスさんの経験は、人びとの中に生まれるやる気や努力に寄り添うことの重要性を示唆している。People-driven(人びと主導)のやり方は、現場だけでなく、ハイレベルな政策協議場でも徹底されなければいけないのである。
このように、日本と世界に、アフリカ農民の努力と抱える課題を発信し続けたジョイスさんだが、肝心のご当人は、宿舎の温泉に朝夜浸かり(朝6時に既に湯船に浸かっていたという目撃談も)、お肌も艶々として日々若返り、このまま北海道にお嫁に来たい(夫がいなければ、という注釈つきで)というほど北海道に心底ほれ込んでいた。こちらは、彼女の柔軟性に心底感銘を受けた。ますます、ザンビアに行く理由ができてしまった。
