■特派員リポート 野島淳(ブリュッセル支局長)
7月上旬、蒸し暑い休日のワシントン。「国際スパイ博物館」は、朝から観光客であふれていた。
雨傘の形をした毒噴射機や口紅型のミニ銃、靴底の盗聴マイク……。東西冷戦期を中心とした数々のスパイ道具や資料が並ぶ。「スパイ」の響きは、いつの時代も人の心をくすぐるのか。開館から10年以上たっても、博物館の人気は衰えないという。
展示の中で、東西冷戦期のエピソードの一つが興味深かった。1950年代半ばの旧東ベルリン。米英の情報機関が旧ソ連軍の情報を通信網から傍受するため、旧ソ連が支配する地域の施設の地下にトンネルを掘った。しかし、英情報機関と旧ソ連国家保安委員会(KGB)の二重スパイだった人物が計画をKGBに密告し、ばれてしまう。
巨大なトンネルを掘るあたりが時代を反映している。いまの米英なら、トンネルの代わりに高性能の通信傍受の施設で、いとも簡単にインターネット上や無線で飛び交う情報を大量に集めていることだろう。
元米中央情報局(CIA)職員エドワード・スノーデン容疑者が米国家安全保障局(NSA)による「現代のスパイ活動」を暴露してくれたお陰で、そんな想像にふけりながら、博物館の展示が単なる過去の遺物ではなく、より身近に感じられた。
普段の取材現場のブリュッセルからワシントンを訪ねたのは、環大西洋貿易投資協定(TTIP)の取材のためだった。米国と欧州連合(EU)が目指す世界最大の自由貿易圏だ。7月8日から5日間、ワシントンで第1回の交渉が開かれた。
交渉は直前まで、開始が危ぶまれた。スノーデン容疑者の暴露が相次ぎ、同盟国であるはずのEUの施設まで、NSAに盗聴・監視されていた疑惑が持ち上がったからだ。
通商交渉は、都合の悪い要求からいかに逃れ、相手に自分の都合をどれだけのませるかのせめぎ合いだ。EUからしてみれば、トランプのゲームを始める前から、相手に自分の持ち札が知られているような状況だろうか。
「標的」として、根こそぎ情報を取られていたかもしれないEU加盟国や欧州議会などからは、怒りの声が上がった。「直ちに監視をやめるべきだ」「自由貿易交渉は延期だ」。ドイツのメルケル首相は「盗聴は友人にするものではない。冷戦は終わったのだ」と非難した。
結局は、米・EUの専門家の間で、自由貿易交渉と並行する形で、盗聴・監視問題を話し合う別の作業部会を開くことになった。どんな形でEU側が真相究明を迫ったのか、はたまた不問に付したのかは、いまも明かされない。とにかく自由貿易交渉だけは始まった。
交渉期間中、米国の農業・製造業などの業界関係者や学術関係者、市民団体などが、双方の交渉官やメディアに直接、主張を訴えられる機会が設けられた。ホワイトハウスの北にある赤れんがのビルは、約350人でごった返した。
その懇談会場に現れたEUの交渉官と雑談した後、米国の盗聴・監視問題に話題を向けると、彼の表情は突然、曇った。「ノーコメント。完全に別の枠組みで話し合っているから。もう聞かないでよ」と、話を打ち切られてしまった。
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朝日新聞国際報道部