08年9月号
「ヨーロッパ」の第二次東方拡大か、 ロシアの勢力圏拡大か
――今後の「ヨーロッパ」の安定の鍵を握る黒海・カフカス地域
ロナルド・D・アスムス/元米副国務次官補
1990年代初め、NATOとEUはヨーロッパの民主空間を拡大するという大戦略を軸に、メンバーシップの門戸を旧東側諸国に開放することを決定した。この戦略を支えていたのは、「ポスト冷戦時代のヨーロッパを再統合し、大西洋同盟を再構築する」という二つの目的だった。中央・東ヨーロッパ諸国を欧米にしっかりとつなぎとめて、ヨーロッパ大陸の東側に民主主義を定着させることが主要な狙いとされた。「平和的なヨーロッパが外交の守備範囲を広げ、アメリカとグローバルなリーダーシップと責任を共有していく」というビジョンもこの戦略には埋め込まれていた。
「単独でヨーロッパの拡大プロセスを進める力はEUにはない」と判断したワシントンは、NATOに中央・東ヨーロッパを取り込むための主要な役割を担わせた。NATOの加盟国を増やすのはEUの加盟国を増やすよりも簡単だったし、中央・東ヨーロッパ諸国に民主主義を定着させるには、NATOの安全保障の傘を広げることが不可欠だったからだ。NATOは新規加盟の基準を厳しくすることで、これら諸国の政治改革も促した。これは、中央・東ヨーロッパで民主改革を推進するために考案された、いわば「愛のムチ」だった。
NATOが安全保障問題に対処して東側への門戸開放に重要な役割を果たす一方、EUは旧共産主義社会をリベラルな民主主義社会へと変革していく役割の大半を担った。加盟を希望する国にとっては、EU拡大策は一方的なプロセスだった。加盟候補国はEUの法・規制・制度からなる体系を受け入れることを一方的に求められ、EUが示す条件をクリアしていくスケジュール以外にはほとんど発言権を与えられなかった。だが、これらの変革によって、中央・東ヨーロッパ諸国は欧米との絆を深め、ヨーロッパ大陸に恒久的な安全保障体制が構築されていく。
一方で、「ヨーロッパ」の第一次拡大プロジェクトに参加できなかった国々が不安定化しないようにすることも重要だった。
ディーン・アチソン米国務長官は1950年に西側の安全保障ライン(不退転防衛ライン)の大枠を示したが、皮肉にも、ラインの外側の国々には西側は関知しないという認識を東側に抱かせてしまった。この失敗に学んだNATOとEUは、加盟国と将来の加盟候補国、そしてパートナーの間の線引きを意図的に曖昧にしようと試みた。これは、加盟申請をしていない国、あるいは現実的な加盟候補でない国とも協力し、その関係を深める新しい枠組みを模索していくことを意味した。こうしてNATOは潜在的な拡大の余地を確保していった。拡大に対してもっと慎重な路線をとったEUも、安定化を図り、その政治志向に影響を与えたい周縁諸国には積極的な関与策をとった。
欧米が「ヨーロッパ拡大の余波」を最低限に抑え込みたいと考えていたことは、ロシアへの対応にもっとも顕著に表れていた。アメリカとヨーロッパは、モスクワが最終的にはパートナーとなり、おそらく事実上の同盟国になることを期待して、ヨーロッパの東方への全般的な路線とは異なるものの、それを補完するようなやり方でロシアを引き寄せていくことに前向きであることを示唆するシグナルをモスクワに送り続けた。
事実、欧米はNATOとEUの拡大策をとる一方で、モスクワに関与し、ロシアの民主化を促すための繊細な配慮を怠らなかった。これは、ロシアを封じ込めるのではなく、中央・東ヨーロッパ諸国よりも緩やかなフォーマットでロシアをヨーロッパに統合しようとする試みだった。口先だけではなく、NATOがロシアを攻撃する意図を持っていないことをはっきりと示すため、欧米は軍事戦略と戦力配備を見直した。NATOは、ロシアとの政治的・軍事的協力だけでなく、いずれロシアと共同軍事演習を実施していくことさえ示唆した。EUもロシアとの協力計画を着実に展開していった。ロシアがどこへ向かっているかははっきりしなかったし、ロシアがこうした接点を利用して欧米と協力するどころか、ヨーロッパの制度そのものを機能不全に陥れる恐れもあったが、それでも欧米はロシアに慎重な関与策をとり続けた。
今から振り返ると、欧米の政策は一連の目的の内の二つを見事に達成している。「中央・東ヨーロッパの大半をヨーロッパへと組み込み、NATOとEUに未加盟の国々が不安定化するのを阻止すること」に見事成功した。ロシアへの対応も部分的にはうまくいった。これらの成功は決して必然ではなかったわけだし、その成果と重要性を過小評価すべきではない。NATOとEUが行動を起こしていなかったら、現在のヨーロッパはもっと混乱し、不安定で内向きになっていたはずだ。ワシントンにしても、アフガニスタンやイラクなどヨーロッパの域外の危機に対して、今よりもさらに少ない同盟国との連帯で対処しなければならなくなっていただろう。
遠い過去のことに思えるかもしれないが、ヨーロッパの拡大が、「NATOやEUへ参加する国々」と「参加を果たせずにその周縁に位置する国々」との間に深い亀裂を生じさせる危険があったのはわずか10年前の話だ。だが、こうした懸念は杞憂に終わった。バルト海周辺諸国などが新たに「ヨーロッパ」に参加したことは、むしろ、それに続こうとする旧東側諸国に希望を与えた。グルジアのバラ革命とウクライナのオレンジ革命の後、両国の民主化指導者たちは、より真剣に欧米との関係強化を模索するようになった。「バルト海周辺諸国にできたのなら、自分たちにもできる」と両国の指導者たちは考えたのだ。
だがロシアへの影響は、いいことばかりではなかった。たしかに、欧米における「ヨーロッパ拡大」批判派が予言したような大混乱は起きなかった。NATO、EUとロシアの新たな協力の枠組みがつくられ、モスクワとの関係破綻は回避された。しかし民主化したロシアとの関係強化という、もっとも大きな期待は実現しなかった。モスクワは民主的で協力的になるどころか、結局は、覇権主義的となり、欧米への敵対姿勢を強めていった。
9・11直後には、欧米とロシアが共通の戦略基盤を見い出せるのではないかという期待が膨らんだが、それも実現せず、いまや欧米とロシアの立場は、アフガニスタン、イラン、そしてコソボなどの問題をめぐって一段と大きな隔たりをみせている。モスクワにしてみれば、近隣地域におけるオレンジ革命とバラ革命は民主化の大きな進展としてよりも、その流れを覆すべき脅威にほかならなかったのだ。
誰のせいで、あるいは何のせいでこうなってしまったのかについては議論の余地がある。ロシアを反欧米路線へと向かわせたのは、アメリカとヨーロッパに想像力が欠如していたせいなのか。それとも欧米がほとんど影響力を持たない、ロシアの内的な政治力学のせいなのか。NATOとEUの拡大は、ロシアを間違った方向に進ませてしまったのか。それとも後に起きたことを考えると、欧米があのときヨーロッパ拡大に向けた行動を起こし、その試みに成功したのは運に恵まれたからなのか。
NATOとEUの拡大によって、ロシア国境の西方にはナポレオン時代以降初めての民主的安定がもたらされた。だがいまやモスクワの広報担当者は、欧米が1990年代にどのようにしてモスクワを「背後から刺したか」という作り話を広めることに余念がない。こうした歴史解釈の対立そのものが、欧米とロシアの緊張が高まっていることの何よりの証拠だろう。
Europe's Eastern Promise: Rethinking NATO and EU Enlargement
<フォーリン・アフェアーズ日本語版2008年9月号>
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