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アヘン戦争 どう伝わったか

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観光客でにぎわうアヘン戦争博物館(広東省東莞市)の前に立つ林則徐の銅像。林則徐が生まれた福建省は、アヘンを吸う習慣が最初に広まった。弟もそれで早死にしたというから、怖さを痛感していたに違いない=小宮路勝撮影

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知の情報ルート

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◇高杉晋作(たかすぎ・しんさく)(1839〜67年)長州藩(現在の山口県)の出身。江戸幕府を倒そうとした勢力の中心人物。志のある下級武士や農民、町民を集めた「奇兵隊」をつくったことで有名。明治維新の成果を見ることなく、病死する。(写真は国立国会図書館提供)

 アヘン戦争は、いまも生きている。

 そのことを身にしみて感じているのは、中国の瀋陽と大連の拘置所にいる日本人3人かもしれない。

 いずれも日本に麻薬を運ぼうとしてつかまり、死刑判決を受けて控訴中だ。中国人なら死刑確定はまぬがれないという。司法当局は外国人だから慎重に判断しようとしているというが、関係者は「麻薬犯罪はアヘン戦争の歴史がある中国では敏感なものだ。安易な判断はできない」と語る。

 アヘンの密輸をやめさせようとした中国(当時は清国)に対し、イギリスは世界最強の艦隊を送り、2年余りにわたって戦争をくりひろげた。そのアヘン戦争の現場は、いまどうなっているのだろうか。

 戦争の発端となった広東(コワントン)省を訪ねると、東莞(トンコワン)市内だけで三つもゆかりの博物館ができていた。「林則徐(リン・ツォーシュイ、りん・そくじょ)記念館」「アヘン戦争博物館」「海戦博物館」。激戦を交わした砲台のあとや、林則徐がイギリス商人らからとりあげたアヘンを処分した人工池も再現されている。

 6月26日は、国連で決めた「国際麻薬乱用撲滅デー」だ。「麻薬を焼く儀式をしたり、団地をまわって麻薬撲滅の講演会をしたりするんです」。三つの博物館を管理する孫広平(スン・コワンピン)部長は準備に忙しそうだった。

 当時の中国人は、アヘン戦争をどう受け止めたのか。敗北によって香港を奪われ、これをきっかけに植民地のようになっていったのだから、危機感を深めたに違いない。そう思って北京大の王暁秋(ワン・シアオチウ)教授に聞くと、意外な答えが返ってきた。

 「清朝の皇帝は、領土は失っても地位は守られたと考え、宴会もやめず、ぜいたくな生活を続けた。アヘン戦争から20年たっても反省もせず、無駄にすごしたんです」

 北京にいる皇帝にとって、戦場は2000キロも南だ。近くの天津に攻めてこられると、あわてて林則徐をクビにしたが、戦後の南京条約を皇帝が「万年和約」と呼んだように、さらに列強の侵略が続くという危機感は乏しかった。

■欧米の本を翻訳 情報集めた林則徐

 それでも、何とかしようと考えた人はいた。とりわけ林則徐は、必死に欧米の情報を集めたようだ。世界地理や歴史の本を訳させ、失脚後は親友の魏源(ウェイ・ユワン)にあずけた。

 それをもとに魏源は『海国図志』という本を書いた。初版はアヘン戦争が終わった直後にでき、1852年には100巻もの大著になった。各国の情勢のほか、西洋の船や大砲などを図つきで解説し、「西洋の長所を学んで、西洋の侵略を制する」という戦略を論じたものだ。

 王教授は日本に研究に行ったとき、『海国図志』を訳した本の種類の多さに驚いたという。「黒船」でやってきたアメリカのペリーが日本に開国を求めたのは、1853年のこと。その翌年からの3年間だけでも21種類にのぼっていた。アメリカに関する部分に絞ったものが8種類もあった。

■オランダから清の苦戦知った日本

 林則徐の遺産は本国では実らず、日本で花開いていたのだ。佐久間象山(さくま・しょうざん)、吉田松陰(よしだ・しょういん)、西郷隆盛(さいごう・たかもり)……。幕末から明治維新までの動きに影響を与えた人たちはほとんど、『海国図志』の熱心な読者だった。

 「知の情報ルート」。北海道大の井上勝生(いのうえ・かつお)教授は、そう呼ぶ。「中国は実にりっぱな本をつくる。その翻訳のおかげで、日本はアヘン戦争後の世界を知り、のちの明治維新政府も『万国公法』(国際法)などを読んで外交に役立てた」というのだ。

 アヘン戦争の速報は、また別の情報ルートからもたらされた。長崎に来るオランダ船からの情報である。

 オランダは開戦直後に、木の葉のようにとばされる清国の苦戦ぶりを伝えた。その後、中国船がイギリスの占領や清兵の多くが死んだことなどを知らせてきた。

 当事者の中国から生々しい情報が届き、オランダからは西洋側の情報が送られる。誤報もあったにせよ、この複眼のような情報によって、日本はほぼ正確な事実をつかむことができたのだった。

 ショックを受けた江戸幕府の老中(いまの首相)、水野忠邦(みずの・ただくに)は「天保の改革」に力を入れる。西洋流の砲術演習の一方、外国船が近づいたら打ち払えと命じていたのをやめて、燃料や水を与えるようにした。

 水野は江戸と大坂の周辺を直轄地にしようとして失脚するが、その後も幕府は情報集めに努めた。ペリーの来航にしても、オランダからの知らせで事前にわかっていた。そのうえで、清が敗れたアヘン戦争を教訓に、戦争を避ける方針をとった。

 「幕府は無策ではなく、国力に応じた周到な準備をしていた」と井上教授は言う。米国から一方的に不平等条約を押しつけられたという定説が修正を迫られつつある。

 王教授と井上教授がともに注目する人物がいる。ペリーに同行し、日本側と漢文でやりとりする通訳をつとめた羅森(ルオ・セン)という中国人だ。

 羅森は幕府の役人たちと親しくなり、問われるままに中国の実情を教えた。「隣人を愛し、みなと仲良く暮らさねばならない」。幕府側の平山謙二郎(ひらやま・けんじろう)がそんな手紙をよこしたのに対して、羅森はアヘン戦争で戦った自分の経験を返事に書く。

 「私腹を肥やすことだけに熱心な政府の役人は、私の貢献や努力を一顧だにしませんでした。このため私の心は外国に旅することに向けられ、この蒸気船に乗ってここまでやってきたのです」

 この数年後には、中国に行く日本人も増える。アヘン戦争で開港された上海が国際都市への道を歩み始め、世界を見る窓になりだしたのだ。

 長州藩(現在の山口県)の高杉晋作(たかすぎ・しんさく)は1862年、幕府の使節の随員として上海に行き、農民たちが決起した太平天国軍の銃声を聞く。わがもの顔のイギリス人やフランス人、それをこそこそとよける中国人。日本がこうなってはいけない。そんな気持ちを強めた。

 帰国後、高杉は下級武士や農民たちを集めて、それまでの武士軍団とは違う「奇兵隊」をつくり、倒幕戦争を担っていく。

 長州と結んで幕府を倒すことになる薩摩藩(現在の鹿児島県)には、特別な情報ルートがあった。日本と中国の両方に属する形で、双方に使節を送っていた琉球王国(現在の沖縄県)からの情報だ。

 中国南部の福州に行くと、琉球からの使節や商人の宿泊施設となっていた館が「福州琉球館」という博物館になっていた。アヘン戦争のころの年号がきざまれた琉球人の墓も残る。林則徐の生地でもある。

 ここから直接入ってくる情報は、貴重だった。それだけではない。アヘン戦争が終わると、フランスとイギリスの軍艦が前後して那覇にやってきて通商を求めた。列強の力を知った薩摩はいち早く開国論に転じ、やがて倒幕へと向かったのだった。

■清朝寄りの朝鮮 楽観し、行動せず

 さて、中国と日本の間にある朝鮮にはアヘン戦争情報はどう伝わり、どんな変化をもたらしたのだろうか。

 ソウルにある崇実(スンシル)大の河政植(ハ・ジョンシク)教授に疑問をぶつけてみた。

 朝鮮は日本と違って、清と朝貢関係を結び、華夷秩序(かいちつじょ)にしっかりと組み込まれていた。毎年少なくとも1回は、北京に使節を送っており、その目で直接に中国を見ることができた。だからといって、日本より正確な情報が伝わったわけではない――。

 河教授は、そう指摘して、なるほどと思える説明をしてくれた。

 まず、情報が清朝側に寄りすぎていた。宗主国の体制がどうなるかが関心事だったからだ。それに、中国は広い。北京はアヘン戦争の戦場から遠く、確かな情報が届かない欠点もあった。

 河教授は言う。「清が領土を失わなかったと誤解したことが大きく影響した。政府が海防の論議をしたような様子もありません。当時は少数の権力集団が国政を掌握し、積極的に問題を解決するような政権じゃなかったんです」

 ただし、第2次アヘン戦争(1856〜60年)で北京が陥落したという情報が入ると、さすがの朝鮮王朝もあわてたようだが、なかなか行動には現れなかった。

 「朝鮮は貧しくて欧米がほしいものはないから攻めてこないだろう、などと楽観していました。情報の活用は、情報そのものよりむしろ、それを使う者の意思や態度の問題だということでしょう」

 河教授の指摘の重さは、現代でもまったく変わらない。

 アヘン戦争が起きたように、東アジアへのイギリス、フランス、アメリカなどの進出は、日本を開国に向かわせ、明治維新という大変革が始まる。その明治維新は東アジアに何をもたらしたのか。

(隈元信一、古谷浩一)

キーワード:アヘン戦争
 840〜42年、麻薬のアヘンの貿易をめぐって起きた中国(当時の清国)とイギリスによる戦争。
 ケシの実から作られるアヘンには鎮静作用があり、中国ではパイプで喫煙する習慣があった。しかし、風紀の問題などから清朝はたびたびアヘン禁止令を出してきた。
 一方、18世紀後半には産業革命を経たイギリスで紅茶を飲む習慣が庶民に広がり、中国から大量に茶を購入し、貿易赤字となった。このためイギリスはアヘンを植民地だったインドでつくらせ、中国に密輸して、貿易の不均衡を解消しようとした。
 アヘン流入によって、中国の国内経済は混乱した。清朝の皇帝は1839年、林則徐を特命全権大臣に任命し、貿易の拠点・広州に派遣した。林は大量のアヘンを没収して廃棄処分にし、イギリス商人らを追放した。
 イギリス政府はこうした措置に反発し、開戦を決定。議会では、後に首相となるグラッドストンらが開戦に反対したが、小差で派兵関連の予算を承認。1840年に最新鋭の軍艦で広州など沿岸部から攻撃を始めた。
 1842年、イギリス軍は北京に近い天津の沖に迫ったため、清は屈服。南京条約を締結し、賠償金の支払い、香港の割譲、上海、広州などの開港を受け入れた。
キーワード:華夷秩序(かいちつじょ)
 国の皇帝を頂点とする階層的な国際関係を指す。古来中国にある自分たちは優れた文明を持つ世界の中心(中華)で、周囲は未開の野蛮人(夷)であるとの考え方に根ざす。具体的には、中国皇帝の恩恵を受けるために朝鮮など周辺の国々は貢ぎ物をし〈朝貢(ちょうこう)〉、代わりに皇帝が王と認める〈冊封(さくほう)〉という形をとった。アヘン戦争時は、朝鮮、琉球、ベトナムなどが中国と「朝貢・冊封関係」を結び、中国を「宗主国(そうしゅこく)」と位置づけていた。日本は古代や室町時代には関係を結んでいたが、当時は離脱していた。

 ◆人名の読み仮名は現地音です。日本語読みが定着している場合にはひらがなで補記しています。

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