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ここから本文エリア 現在位置:asahi.com >歴史は生きている >1章:アヘン戦争と明治維新 >シリーズ・識者20人に聞く > 陳舜臣
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![]() 1924年、台湾人の両親の間に神戸市で生まれる。大阪外語学校(現・大阪外大)卒。「中国近代の群像」「実録アヘン戦争」など近現代史の著書も多い。 |
私は歴史作家であり、どの時代をとりあげても、常に近現代史を意識している。これはわが仕事の基本で、近代東アジアの10大事件に殷墟(いんきょ)の発見を選んだのもそのためだ。
真っ先に挙げたいのはやはりアヘン戦争だ。東と西が出会い、近代史が始まった。清王朝は、陸つまりロシアの進出を防がなければならないという「塞防(さいぼう)派」と、海からの侵略に備えるべきだという「海防派」とに分かれていた。林則徐は塞防派で、アヘンの流入も、これは貿易問題だという考えだった。
当時の東アジアは中国を中心にした冊封体制で、清は琉球王国からも留学生を受け入れ、その中に薩摩の人も紛れこんでいた。明治維新で薩摩藩が活躍したのは交流を通じて中国から情報が入り、開国を迫られるのが近いと感じていたからだ。それが身にしみてわかったのがアヘン戦争の情報だった。
次は日清戦争。当時、両国民の関係は悪くはなかった。明治時代は漢詩の隆盛期で、多くの有識者が中国に渡った。ではなぜ戦争になったかといえば、強い者が弱い者を制する帝国主義の時代だったからだ。
日露戦争も東アジアの覇権をめぐる帝国主義の争いだ。韓国併合(注)は日本の大陸侵略の第一歩であり、その後の中国東北部への侵略も見据えていた。当時、そうした帝国主義のモデルはいくらでもあり、ひとびとも支持していた。「戦争でもうかるんだ」と。だから、日露戦争後の講和でロシアから賠償金を手にできないと、暴動が起きた。
韓国併合は中国の知識人や民衆を刺激し、辛亥革命につながる。清の古い体制は崩れた。第1次大戦後、日本の利権拡大に抗議した5・4運動の背景には、辛亥革命の時から民衆に高ぶっていた、国益が失われることへの強いいら立ちが根本にあった。
そして日本の侵略戦争。満州事変から敗戦までは韓国併合から続く流れにのったもので、「15年戦争」という一体のものと考えるべきだ。
戦後ではまず、中華人民共和国の樹立を挙げたい。国民党が中国共産党に負けた原因は腐敗だ。また、台湾で国民党が台湾人を虐殺した47年の「2・28事件」が共産党と形勢が逆転する転機になったと思う。
敗戦の翌年、私は台湾に戻り、中学の教師をしていた。大陸から来た連中が、民衆から物資を接収する姿に失望した。民衆も腹が立ち、闇たばこを摘発した警察に抵抗した。すると報復として、国民党の精鋭が何万人も来て民衆を弾圧した。
台湾でも当時の知識人は左傾化し、私も49年に日本に戻ったが、その直前彼らと接触し、身辺が危険であった。
その後は、南北分断につながる朝鮮戦争、中国での文化大革命と改革・開放政策。今の中国は基本的にトウ小平が築いた路線にのったものだ。
最後に、冒頭で触れた20世紀初頭の殷墟の発見の意義をのべたい。我々は殷の紂王(ちゅうおう)を暴虐無道でこれ以上の悪人はないと史書から学んだ。だが、発掘された甲骨片から、彼の先代は人間を殺して祭祀(さいし)の犠牲にしていたのに、紂王の代でやめたことがわかった。悪人どころかむしろ善人らしいのだ。史書は後の勝利者によって書かれた。歴史を見る時、常に念頭に置くべきことであろう。
(注) 韓国では日本による強制的占領(強占)と呼んでいますが、発言のままとしました。
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