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現在位置:asahi.com >歴史は生きている >1章:アヘン戦争と明治維新 >シリーズ・識者20人に聞く > アントニー・ベスト博士



米国けなすのはたやすいが アントニー・ベスト博士

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1964年イギリス生まれ。近現代の日本と東アジアの関係史が専門。とくに太平洋戦争に至る歴史過程の分析に関心を抱き続ける。

 日本の近代はどこに始まったか。私は1863年から64年にかけての英国艦隊による鹿児島砲撃(薩英戦争)と、4国艦隊による下関砲撃(馬関戦争)の意味が大きいと思う。ペリーの黒船来航の時点では「西洋を追っ払え」という思考がまだ日本にあったが、二つの戦争は外国勢力を武力で追い払う無力を日本の急進派に思い知らせ、開国を決定的にした。

 日本と朝鮮半島の関係を考える上で重要な転機は、朝鮮の近代化を目指した改革派、金玉均のクーデター失敗だろう。金らは日本政府の暗黙の支持をあてにして決起したが裏切られた。以来、ナショナリストは反日派となっていく。日本は軍事支配をさらに強め、日朝関係は悪化の一途をたどることになる。

 日露戦争の勝利と、1905年のポーツマス条約は日本に「大国意識」をもたらし、英米に対日不信感を芽生えさせた。同じ年に結ばれた北京条約で中国の鉄道の一部を日本が取得したことが、後の満州国建設、中国侵略へとつながった。

 世界大恐慌は1930年代の世界を規定したといえる。日本では農村の疲弊を生み、都市の失業者を増加させ、そうした不満が政党政治の土台を破壊し、軍部の台頭を許した。世界的には保護主義経済のブロック化を招くなか、日本は満州などの権益を拡大することで生き残りを図った。

 日中戦争の勃発(ぼっぱつ)自体は偶発的な衝突がきっかけ。見逃せないのはこれを機に、原料の自給目的での中国侵略という日本の意図を超え、やがてはヒトラー・ドイツとの全面対決に象徴される世界戦争の一翼を担うという戦略的問題に日本が直面していくことだ。

 原爆投下の重さは論をまたない。戦後の連合軍による日本占領のもっとも重要な要素は日本社会に多元主義をもたらした点にある。労働組合の権利や女性参政権、民主的な選挙制度、そして憲法9条……。米国をけなすのはたやすいが、彼らはかなり安定した戦後日本をつくりあげた。

 よく学生に、保守合同で自民党が誕生した1955年と、日米安保条約改定で混乱した1960年と、どちらが重要かと聞かれる。私の答えは60年だ。安全保障を軸に初期の「ふつうの国」を目指した岸路線は、吉田茂の流れをくむ池田政権の所得倍増路線に取って代わられたが、この二つの潮流の交差点として重要な意味を持つ。

 ニクソン訪中は米中関係に続いて日中関係が打開され、やがて日中が互いに最大の貿易パートナーとなってゆく道を開いた。85年のプラザ合意がなければ、円高と投機熱による日本のバブル経済は起きなかったし、バブル経済がなければ90年代の景気後退もなかった。現代史では極めて重要な節目ではないか。

 日本の近代で興味深いのは、明治憲法体制は日本の政治制度のトップにいた伊藤博文や松方正義といった元老らが政治の指針を示した間は機能したが、彼らが亡くなると内閣、枢密院、議会、陸海軍の権威の序列が不明確になった。明治憲法体制の本質的な問題だ。

 西欧列強が帝国主義的な世界支配をさんざんやっておいて、日本の侵略行為を非難するのは偽善だ、という議論がある。そのことは偽善的だとしても、だからといって、日本の行為を正当化できるものではない。

(聞き手・木村伊量)
    私が選んだ10大出来事
  • (1)英国艦隊による鹿児島砲撃(薩英戦争)と4国艦隊による下関砲撃(馬関戦争)(1863〜64)
  • (2)朝鮮改革を目指した金玉均のクーデター(甲申政変)の失敗(1884)
  • (3)ポーツマス講和条約と同年の北京条約(1905)
  • (4)世界大恐慌(1929〜31)
  • (5)日中戦争の勃発(ぼっぱつ)(1937)
  • (6)広島、長崎への原爆投下(1945)
  • (7)米国による日本占領と諸改革(1945〜47)
  • (8)日米安保条約改定をめぐる騒乱(1960)
  • (9)ニクソン訪中(1972)
  • (10)プラザ合意(1985)


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