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日清戦争は景福宮で始まった

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景福宮 ソウルにある景福宮。1894年、ここに日本軍が乱入して戦闘の末に占領し、日清戦争につながっていった。写真は興礼門で、東西南北の4カ所にある大門の内側にある。15世紀当時に宮殿の守りについていた兵士たちの衣装と武器が観光用に再現されていた=福田写す

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崔済愚(チェ・ジェウ)

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陸奥宗光(むつ・むねみつ)(1844〜97年) 明治の外交官・政治家。紀州藩(現在の和歌山県)出身で、坂本竜馬の海援隊に加わって行動をともにした。不平等条約の改正に尽くす一方、日清戦争を外相として主導。すご腕を評価して外務省には今も銅像が立つが、日清戦争で虐殺事件があった中国・旅順の記念館では悪者として肖像が飾られている。(写真は国立国会図書館提供)

 こちらから話題にしたこともあれば、先方から切りだした場合もある。相手の口をついて出たのは同じ言葉だった。

 ――どうしてなのでしょう。

 日清戦争の足跡をたずね、私は韓国や中国を歩いていた。そこで会った政治家や学者が首をかしげていたのは、しかし日清戦争のことではない。そのころアメリカでは、慰安婦問題で日本の謝罪を求める決議が下院の委員会で可決されたばかりだったのだ。

 安倍晋三首相が慰安婦への強制性を「広義か狭義か」に分けたこと、アメリカに行くとブッシュ大統領に向かい謝罪の意を表したこと、与野党の国会議員を含む人たちが米紙に反論広告を出したこと。広告に至っては「常識を超えている」と韓国の姜昌一(カン・チャンイル)議員は語った。憤懣(ふんまん)やる方ないというより、「目がテン」と言った方が近い。

 ただ、こうした日本の振る舞いがアジアの人たちに好ましく映るはずはない。姜氏はもともと学者で、東アジアの近現代史に関する著作もある人だが、韓国と中国、日本はいまだ「百年の不信」のなかにあるという。正確には終結から112年を数える日清戦争も、そこには含まれている。

 日本と中国が正面衝突したというばかりではない。日清戦争は、韓国の人たちにとって「日本が朝鮮を侵略した戦争」として記憶されている。

 戦場は、まず朝鮮半島だった。

■朝鮮の王宮占領 清軍追い出す作戦

 韓流はブームの時期を過ぎ、韓国発のドラマや映画は今では日本に当たり前のように存在するものとなった。週末にソウルに遊びに出かけるのも普通のことだ。

 そのソウルに景福宮(キョンボックン)という王宮がある。観光名所になっているから、訪ねたことのある人も多いだろう。

 戦争は、事実上ここから始まった。

 1894年7月23日未明。闇のなかで、日本軍の一団が景福宮の門の一つを爆薬で壊そうとした。だがうまくいかない。よじのぼり、斧(おの)でたたき、四苦八苦の末に壊すと乱入する。ほかの門も開け放ち、王宮を守る朝鮮兵たちとの約3時間にわたる銃撃戦の末に王宮を制圧したのは、すっかり夜も明けたころだった。

 活劇映画さながらの戦闘は、日本軍の公式戦史にはない。偶発的な小競り合いとされてきたが、福島県立図書館で詳細な戦史草案を見いだし、百年の後に世に問うたのは奈良女子大の中塚明名誉教授だった。

 なぜ王宮占領か。ひとことで言えば、思い通りにならない為政者をとりかえ、清国の軍隊を朝鮮から追い出してくれと日本に依頼させるためだった。ずいぶん乱暴な、と今は思うが、当時はずいぶん乱暴だったのだ。その後、日本はもっと乱暴になって1945年の破局に至るのだが、まずはこの戦争である。

 当時、朝鮮には清国と日本の双方の軍隊がいた。直接のきっかけはこの年の春、朝鮮南部で全●準(チョン・ボンジュン)ら東学を奉じる農民たちが蜂起したことだ。お上にむしり取られるのはたくさんだと反旗をひるがえした「世直し運動」だった。今では甲午農民戦争と呼ばれる。手を焼いた朝鮮政府は宗主国の清国に出兵を頼んだのだが、そこで日本も負けじと兵を送っていた。

 その東学農民軍は、日清の動きを見て朝鮮政府と手を打ち、ひとまず騒ぎを収めてしまう。だが日本軍は引かない。王宮占領で言うことを聞かせると、2日後には仁川に近い豊島沖で清国と交戦に入る。日本はとにかく開戦の口実がほしかったのだ。政府内には慎重論もあったなかで、主導したのは外相陸奥宗光である。

 王宮占領だけで終わらない。朝鮮は戦場と化した。日本軍は清国軍と戦いながら攻め上る一方、東学農民軍をせん滅にかかる。王宮占領を機に、農民軍は討つ相手を「悪政の朝鮮政府」から「日本の侵略軍」へと移し、再度の蜂起に及んでいた。

■民衆の戦いの嚆矢、「東学農民革命」

 ソウルから高速鉄道で下ること3時間、東学農民軍発祥の地である全羅道に行く。どうせならと光州事件の記念墓地に立ち寄ると、ここは韓国民主主義の心臓部なのだと書いてあった。上映されるビデオを見れば、かの東学農民軍の戦いも紹介され、光州事件へと連なる「民衆の戦い」の嚆矢(こうし)とたたえられている。

 日本では「東学党の乱」と長く呼ばれてきたが、東学農民軍の戦いは韓国では「乱」の扱いではない。長く逆賊とされてきたものの、百年を経て再評価が進み、包括的な歴史の見直しを進める盧武鉉(ノ・ムヒョン)政権のもとで2004年には名誉回復の特別立法まで成立した。今では「東学農民革命」と呼ばれ、その記念館ではフランス革命と並び称しているほどだ。

 初めは朝鮮の身分社会に異を唱えて、次には土足で入ってくる日本をはねのけようとして、農民軍は戦った。勢力下においた地域では住民自治の原型のような体制を敷いていたのを見れば、確かに民主化の走りではあっただろう。

 しかし、軍事的には日本軍の相手ではなかった。記念館の李永日(イ・ヨンイル)研究員に聞けば、農民軍の主な武器は竹やりで、火縄銃に毛の生えたようなものを持っていれば良い方だったという。連発式の銃を主力とする日本軍は、兵士1人で農民軍100人に匹敵した。農民軍側の犠牲者は3万人から5万人といわれ、韓国ではその10倍とする説も有力だと複数の専門家から聞いたが、確かなところは分かっていない。名誉回復に伴い、その子孫の調査が政府によって2009年まで続く。

■華夷秩序の崩壊、とどめ刺す

 外敵排除に立った東学農民軍だが、清国軍とは戦った形跡がない。なぜ彼らは日本軍だけ目の敵にしたのか。

 当時の清国は朝鮮の宗主国であり、朝鮮は清国の属国だった。朝鮮は清国に使節を派遣して貢ぎ物をし、清国はお返しをあげて「ちゃんとやりなさいよ」と朝鮮の王にお墨付きを与える。朝貢体制というもので、親分・子分の関係であっても、子分は子分で独立国だ。

 中国・大連で会った遼寧師範大学歴史学部の郭鉄椿(クオ・ティエチュン)副教授は「朝貢体制は支配や搾取ではありません。属国の内政には干渉しなかった」という。対等な関係ではないのだから近代から見れば欠点はさまざまあるにせよ、属国の方もさして居心地が悪い状態ではなかったというわけだ。

 中国を親分としていたのは朝鮮だけでなく、さかのぼれば東アジアの「あたり一帯」がそうだった。ベトナムや日本に琉球、みんな中華世界の住民だったし、そもそも「中国」とは現在の国際法体制でいう国名ではなかった。その境界は今よりずっとあいまいで、薄墨で掃いたようにぼんやりとしたものだった。

 「華夷秩序」と呼ばれるこの国際関係は西欧列強が手を突っ込んで崩れ始めたが、とどめを刺したのが日清戦争である。「ここが世界の中心である、よきにはからえ」とデンと座っているのが中国なら、日本は「ここまではオレのもの、好きにやらせてもらう」という帝国主義の線引き合戦に参入し、そこで大ゲンカになったのだ。

 もちろん清国とてただのんびりした宗主国だったわけではないし、朝鮮にしても現状維持か変革かで内なる争い――しかも激しい争いはあった。日本が朝鮮を華夷秩序から切り離そうとし、これは文明か野蛮かの戦いなのだと訴えて内外の支持を取りつけようとしたのも、19世紀末の世界にあってまったくの屁(へ)理屈ではなかった。

 だが、たとえば日本が侵攻した中国・威海の沿岸で碧(あお)い海をながめる時、そのころの東アジアが持っていたであろう「ゆったりとした一体感」を捨てがたく思う気持ちもわく。日清戦争でアジア侵略へ大きく踏み出した日本は、その後も意識としてはアジアを外部に置いたままではないのか、と。

 ソウル市立大学に訪ねた鄭在貞(チョン・ジェジョン)教授は、「周囲の国の脅威を強調して国内を固める」のが日本だといい、日清戦争後に日本が進んだ道を振り返って語った。

 「アジアの人々に共感を与えるスローガン、アジアに共通する価値観。それを日本はついに示せずにきた」

 百年の不信――。韓国でも中国でも、私の会った人たちの日本批判は、恨みより歯がゆさが勝っているように私には聞こえた。

(福田宏樹)

●=王に奉


【このころの東アジア】
 
1840 アヘン戦争
67 日本で幕藩体制が終わり、新政府が成立
71 日清修好条規。相互に対等な内容
73 日本の「明治6年の政変」で征韓論敗れる
74 日本が台湾に出兵
75 江華島事件。翌年、日朝修好条規で朝鮮開国
82 朝鮮で壬午軍乱。清の影響力が強まる
84 清仏戦争(〜85)。ベトナムがフランスの保護国に
84 朝鮮で甲申事変。日本軍と清軍が衝突
85 日本と清が天津条約。甲申事変を受けて、朝鮮に派兵する時は相互に通知することを定めた
94 朝鮮の甲午農民戦争を機に日清戦争始まる
95 朝鮮皇后の閔妃、日本軍などに殺害される

キーワード:日清戦争
 894〜95年、中国(当時の清国)と日本が朝鮮の支配権をめぐって戦い、日本が勝った。日本側の死者は1万3000人余で、戦費は約2億3000万円だった。中国側は不詳。
 当時の日本政府はなぜ朝鮮の支配権にこだわったのか。それは1890年、第1回帝国議会での山県有朋首相の施政方針演説にみてとれる。山県は「利益線」を守らなければならないと訴えた。国境という「主権線」のみならず、それをおびやかしかねない「利益線」に守備範囲を広げようというわけで、この利益線とは朝鮮だった。背景には、シベリア鉄道の着工間近だったロシアが朝鮮をうかがっていると危機感を持ったことがある。
 1876年の日朝修好条規以降、日本は「朝鮮の独立」を掲げて清国との従属関係を断とうとする一方、市場としても重要な朝鮮を意のままにしようとしてきた。朝鮮内部でも日清それぞれと結ぶ勢力が争い、1884年には日本に後押しされた金玉均らのクーデターを清国軍が鎮圧。朝鮮を挟んだ綱引きは、日清戦争で正面衝突に至る。
キーワード:東学
 860年に崔済愚(チェ・ジェウ)が創始した。韓国の円光大学校で東学を講じる朴孟洙(パク・メンス)教授は「身分制度が残る当時の朝鮮で、すべての人は平等で同じように大事なのだと主張し、差別を受けていた農民たちがこれに反応した」と語る。もう一つ、悪政をただすことを柱とし、「斥倭斥洋」をスローガンにした。
キーワード:光州事件
 国で1980年5月、クーデターで実権を握った全斗煥氏ら新軍部が、戒厳令下で野党指導者の金大中氏(後に大統領)らを逮捕した。これをきっかけに光州市で学生や市民が民主化を求めるデモを起こすと、韓国軍が戦車も動員して鎮圧し、多数の死傷者を出した。韓国政府の発表では死者193人とされている。

 ◆人名の読み仮名は現地音です。日本語読みが定着している場合にはひらがなで補記しています。

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