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きな臭さ 漂い続ける海

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復元された「定遠」=山東省威海市で、小宮路勝撮影

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1895年に日本軍が上陸した台湾東北部の澳底の浜辺。ガラスの説明版には、上陸した時の写真の図柄が刻み込まれている。浜辺に上陸してくる日本軍の亡霊を見るようだ=五十川写す

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西太后(1835〜1908年)清朝第9代皇帝の咸豊(かんぽう)帝の妃で、同治帝の母。若い皇帝の玉座の後ろに垂らした御簾(みす)の奥から、政治の指図をした。同治帝死去後、妹の子である光緒帝を立てる。約半世紀にわたり、権力を握り続けた。夏の離宮である北京の頤和園(いわえん)の修築や生誕60周年の祝賀行事などに巨額をつぎ込み、財政を圧迫したことが日清戦争の敗北につながったとの批判を受ける。1898年に政治改革「戊戌(ぼじゅつ)変法」を始めた光緒帝を幽閉するなど、清朝滅亡の直前まで影響力を持ち続けた。

 日清戦争(中国では甲午中日戦争)で日本と中国はどんな戦いを演じたのか。その結果は中国と台湾に何をもたらしたのか。その答えを求めて、日本軍がかつて押し寄せた中国と台湾の二つの浜辺を訪れた。

 静かな海が夏の日差しにきらめく。

 黄海に突き出す山東半島の先にある威海市。岸壁と湾内の小島、劉公島の間を、大勢の観光客を乗せたフェリーが行き交う。

 威海衛と呼ばれていた19世紀、ここには清の北東部の海を守る北洋艦隊の基地があった。海を囲んで砲台がつくられ、劉公島に提督の庁舎が置かれた。1880年代ごろまでは東洋一の艦隊と言われたが、日清戦争で敗れる。日本軍がこの海に襲来し、北洋艦隊は投降した。

 フェリー岸壁から数分歩く。岸壁に古い形の軍艦が見えた。北洋艦隊の旗艦だった戦艦「定遠(ティンユエン)」だ。実物とほぼ同じ形と規模で建造され、長さは90メートル余り。05年4月にデビューした。艦内に史料を展示している。

 この船を所有する威海北洋水師旅遊発展有限公司の姜培旗(チアン・ペイチー)社長に会った。「中日関係に影響を与えるつもりはありません。歴史を客観的に反映するのが目的です」と語る。2年間に約60万人が訪れ、観光振興にも役だっているという。

■警戒し合う日本と清 競って海軍を増強

 定遠は日本にとって、いわく付きの船である。1886年に他の艦船とともに日本に寄港した際、水兵たちが長崎で騒ぎを起こし、警察との大乱闘となって双方に死者が出た。日本側は清艦隊の威容を見せつけられる一方、水兵たちの振る舞いに「国辱だ」との反発も出て、海軍の増強に拍車をかける一因となった。

 しかし、先に清政府に警戒心をもたせたのは、日本の方だった。その12年前、日本による台湾出兵を経験した清政府は海軍増強に巨額をつぎ込んだ。日本と清は、軍拡競争に走っていたのだ。

 定遠の中を案内してくれた同公司の研究者によると、戦争当時には、日本海軍が優位に立った。「日本の船は砲数が多いうえに、発射の速度も上回っていた」と語る。一方、北洋艦隊の増強は1880年代末ごろから止まっていた。

 なぜ、清は増強を止めたのだろう。

 地元の専門家たちの著書「北洋海軍と劉公島」はこう記している。清政府は1891年、財政難のために艦船・火砲の購入を2年間禁止し、北洋艦隊は一隻も増えなかった。清政府が海軍力に慢心していたことや、最大の実力者である西太后が離宮の修築などに巨額を費やして財政難を招いていたことが、その背景にあるという。

 そうだとすれば、政府の慢心や西太后のわがままが敗戦の遠因になる。

 もちろん、他にも背景はあった。光緒帝と西太后の確執、ふたりに連なる高官たちの対立など様々な要素が陰に陽に対日戦略に絡んでいた、といわれる。中国では、総じて政治の近代化の遅れが原因、とのとらえ方が一般的だ。

 百数十年前の軍拡の歴史に触れると、東シナ海ににらみをきかせる昨今の日本と中国の姿が重なって見えてきた。

 中国の軍事費が19年続けて2けた増加したことや、着実に潜水艦隊の能力を高めていることなどから、日本は東シナ海での警戒を強めている。一方の中国は、日本が憲法を改正して海外での武力行使に道を開いたり、日米共同のミサイル防衛網を台湾まで広げたりしないかと心配する。

 もちろん、弱肉強食の帝国主義時代と今では状況が違う。この海で近い将来に日中が再び戦うことは想像しがたい。だが、たびたび相互不信に陥り、相手の軍事動向に神経を使っていることも事実だろう。互いにナショナリズムの火がつきやすいことも気になる。

 中国の日清戦争研究の第一人者は、清の敗因の一つとして、外交の失敗を挙げる。その人、山東省歴史学会名誉会長の戚其章(チー・チーチャン)氏に会うため、省都の済南市を訪ねた。

 戚氏によれば、外交、軍事を担う重臣の李鴻章は戦争を回避しようと、イギリスやロシアのあっせんに期待して動いたが、思い通りにいかなかった。台湾割譲に関しても、イギリスに台湾の権益を与えることによって日本への割譲を防ごうと、イギリス側に持ちかけたが、断られたという。

 「日本は列強の関係を見極めていた。清よりも自分たちの方がロシアの進出を食い止めることができるとイギリスに売り込んだ」と、戚氏は語る。列強の出方を見通せず、いたずらにあてにした清の戦略が誤りだったと見る。  もう一つの浜辺へ向かった。

■ルーツで違い 台湾人の歴史観

 台湾の北東部にある澳底(アオティ)。海水浴場に小さな波が立っていた。台風の影響で遊泳は禁じられ、浜辺に設けたプールから、子供たちのはしゃぐ声が響いてくる。

 1895年5月、この浜に日本軍が上陸した。台湾は日本と清の講和条約によって日本に割譲されたが、植民地支配がすんなりと始まったわけではない。台湾の官僚や名士らがつくった「台湾民主国」軍や地主勢力などとの戦いが秋まで続き、その後もしばしば武装蜂起が起きた。

 浜辺には抗日記念碑が立っていた。かつては日本軍上陸の記念碑があったが、70年代になって代えられた。

 台湾割譲の歴史に対する台湾の人々の見方は複雑だ。国民党政権の前からいた人々は台湾人意識が強く、それ以降に海峡を渡ってきた人々は中国人意識が強いという傾向がある。両者の間では、歴史観にも政治的立場にも違いがある。

 民進党は台湾人意識を訴え続ける。国民党には中国人意識が比較的濃く、大陸との統一も視野に入れる。

 台北郊外の国史館。台湾史を編集する総統府の直属機関だ。民進党政権になって以来、館長を務めている張炎憲(チャン・イエンシエン)氏は「台湾人には、清に捨てられたという悲しい感情があります」と語った。清から派遣されていた巡撫(知事にあたる)は、台湾民主国総統になったのに、日本軍が到着すると、すぐに大陸に戻ったことも指摘する。

 だが、一方ではこう語る。「日清戦争以後、台湾は中国と違う道を歩んできました。資本主義経済を発展させ、民主や自由を含めて社会の現代化をめざしてきた一貫した流れにあります」。一時は日本の統治を受けつつも、大陸とは別に、独自に発展してきたという自負が、中台問題への姿勢に影響していることは間違いない。

 一方、国民党の中には、台湾割譲の実相は、日本が力ずくで清からもぎとったもので、「侵略」という考えがある。

 国民党中央党史委員会の前主任委員である陳鵬仁(チェン・ポンレン)氏は台北の事務所でこう語った。「日本は、南進するための飛び石という軍事的理由と、茶や樟脳(しょうのう)の生産地であり、かつ日本の市場にしたいという経済的理由から台湾を求めたのでしょう」「日本の(第2次大戦)敗戦時、60歳を超える人々は、また中国に戻れると喜びました」

 台湾を割譲した清に対しては、「日本と戦い続ける実力はなかった。仕方がなかったでしょう」と理解を示す。

 台湾では目下、来年3月に迫る総統選への熱が高まりつつある。7月上旬には、日本統治期の台湾人活動家をめぐるシンポジウム「歴史と政治の対話」が台北であり、民進党の謝長廷(シエ・チャンティン)候補と国民党の馬英九(マー・インチウ)候補が火花を散らした。日本に立ち向かった活動家を馬氏が評価すると、謝氏は、日本も国民党も外来政権だった、と言及した。早速、歴史観でぶつかっている。

 この台湾社会の行方を中国が注視している。もしも、独立の動きを見せれば、中国は武力行使も辞さない構えだ。台湾の対岸に多数のミサイルを並べて牽制(けんせい)し、海軍も増強する。台湾軍も、中国との戦争を想定した演習を怠らない。

 私が訪ねた澳底はのどかな光景を見せてくれた。だが、11年前には、すぐ近くの海にミサイルが飛んできたのだ。初めての総統直接選挙を前に、中国が「演習」と称して発射したものだった。

 この海が持つきな臭さは、110年前とさほど変わっていない。

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 台湾領有を果たした日本は、朝鮮支配をめぐってロシアと戦う。この話は次回に。

(五十川倫義)

キーワード:台湾の歴史
 南太平洋系などの民族が古くから住み着いていたが、17世紀になって、オランダが南部に、スペインが北部に拠点を築いた。オランダがスペインを撃退して支配するが、明朝の再興をめざす鄭成功(てい・せいこう)がオランダ勢力を追い出し、鄭一族の統治に移った。
 これを清が倒し、自国の領土に組み込んだ。このころから、対岸の福建省を中心に大陸からの移民が急増する。日清戦争で日本が台湾西方の澎湖(ほうこ)列島を占領。1895年の下関条約で日本への台湾・澎湖列島の割譲が決まり、半世紀に及ぶ植民地時代が始まる。
 第2次大戦の敗戦で日本が撤退した後、国民党が率いる中華民国政府の支配下に入った。これによって続々と大陸から来た人々(外省人)と、元からの住民(本省人)の間に溝が深まり、1947年2月28日から続いた政権と住民の衝突(二・二八事件)で多数の住民が犠牲になり、亀裂は決定的になった。49年、大陸の内戦の末、共産党が中華人民共和国の成立を宣言。中華民国政府は台北に首都を移し、百万〜数百万人が台湾に逃れた。国民党政権が続くが、80年代から徐々に民主化が進み、96年の総統直接選の導入を経て、2000年、民進党が政権に就いた。
キーワード:下関条約
 本軍は陸海で清国軍を破り続け、1895年4月には日本側が伊藤博文と陸奥宗光、清国側は李鴻章らを全権として下関で講和条約を結ぶ。清国は(1)朝鮮の独立を認める(2)遼東半島・台湾を割譲する(3)賠償金2億両(約3億円)を支払う、とされた。ところが露独仏の三国干渉で日本は遼東半島を手放し、この時の「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」が日露戦争につながる。

 ◆人名の読み仮名は現地音です。日本語読みが定着している場合にはひらがなで補記しています。

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