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東郷が勝った! アジアに夢つかの間

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ロシア軍が立てこもった旅順・東鶏冠山の要塞=桜井写す

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「東郷、ロシア艦隊を撃滅」と伝えたニューヨーク・タイムズ

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ファン・ボイ・チャウ(1867〜1940)

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リアン・チーチャオ

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チェン・ティエンホワ

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 「久しぶりの日本だからね、どこに行こうかね」

 私の知人で今年77歳になる韓国人の元軍人、李(イ)さんがひょっこりと東京にやってきたのは、今年6月のことだった。日本で育ち、戦後、韓国軍に入り、1950年に起きた朝鮮戦争では陸軍少尉として前線で戦った。もともと私は取材を通じて李さんの息子と知り合いになり、それから李さんとも親しくなった。

 ガイドブックを読んだ李さんが選んだのは、日露戦争でロシアのバルチック艦隊を破り、英雄となった東郷平八郎(とうごう・へいはちろう)をまつる東京・原宿の東郷神社だった。

 「日本の戦い方は大いに参考になる。東郷元帥を尊敬しているんだ」

 境内に飾られた日本海海戦の絵の前で、記念写真を撮ってあげると満足そうだった。

 元外務省職員で明治時代の外交を研究している松村正義・日露戦争研究会会長は「アジアの新興国が欧州の一大強国に挑んだ戦争で、国際的な関心を呼ばざるを得ない大事件だった」と説明する。外国の記者から従軍取材の希望が殺到したという。

 1905年5月、東郷が率いる連合艦隊は、対馬沖の日本海でバルチック艦隊を迎え撃ち、大勝利を収めた。

 ニューヨーク・タイムズは「東郷、ロシア艦隊を撃滅」と1面トップ級で伝え、そのニュースは1面のほぼ半分を埋めた。イギリスのタイムズも「バルチック艦隊、事実上全滅という東京発の情報は、全世界を驚かせた」と書いた。

 勝利に興奮したのは日本人だけではなかった。

 のちにインド初代の首相となるネールは1930年代に獄中でこう書いている。

 「アジアの一国である日本の勝利は、アジアのすべての国ぐにに大きな影響をあたえた。わたしは少年時代、どんなにそれに感激したかを、おまえによく話したことがあったものだ」(大山聡訳『父が子に語る世界歴史』、みすず書房)

 中国の革命家孫文(スン・ウェン)(そん・ぶん)は、日本の勝利が、アジアのみならずエジプトやトルコ、アフガニスタンなどの独立運動を刺激したことを指摘している。欧米の大国に抑圧された有色人種に希望を与えたというのだ。アメリカの黒人知識人らも「黄色い人々」の活躍をたたえた。

 私は、そんな話を聞いてある人物を思い出した。ベトナムでフランスからの独立運動を指導していたファン・ボイ・チャウ(1867〜1940)だ。チャウは日露戦争の報を聞いた後、1905年はじめにひそかに出国し、春ごろ来日した。彼は数千キロも離れた日本に何を求めたのだろうか。ベトナムを訪ねた。

■「同文同種」なのに… ベトナム激しい怒り

 ハノイの社会科学院歴史研究所で長年、チャウを研究してきたチュオン・タウ教授(72)が、チャウの肖像画のかかる応接間で迎えてくれた。

 「日本はいち早く明治維新により近代化を進め、立憲主義を取り入れ、大国ロシアに勝った。『同文同種』の日本の姿は、列強の侵略に苦しむ人たちの模範となり、多くのベトナム人が日本に引き寄せられたのです」。同文とは同じ漢字文化圏、同種とは黄色人種の意味である。

 日本に着いたチャウは、横浜に亡命中だった中国の立憲思想家、梁啓超(リアン・チーチャオ)(りょう・けいちょう)を訪ねた。梁は清朝末期、国政改革に失敗し、日本に脱出した。チャウは、ベトナムで梁の著作を読み、奥付にあった住所を頼りに訪ねたのだった。儒者の家に生まれ、幼い頃から中国の古典に親しんできたチャウは、中国人や日本人と漢字で筆談することができた。

 チャウの来日の目的は、フランスと戦うため、日本から武器や兵力などの援助を得ることだった。チャウは、梁の紹介で当時の有力な政治家、大隈重信(おおくま・しげのぶ)や犬養毅(いぬかい・つよし)らに会う。しかし大隈らは、軍事援助が日本とフランスの間の外交問題になるなどとして断り、まずは人材育成に力を入れるよう諭す。

 チャウは、日本の有志から資金を得たり、留学先を紹介してもらったりして、ベトナムから若者を呼ぶ東遊(ドンズー)運動を始めた。留学生は一時、200人を数えたが、「安住の地」日本にいられる時間は、そう長くはなかった。

 日露戦争に勝った日本は1907年6月、インドシナと朝鮮の支配を事実上、互いに認めた日仏協約を結ぶ。フランス政府が日本に求めたのは、ベトナム独立運動の取り締まりだった。「日本政府はフランス植民地政権と結託し、ベトナムの留学生、さらにはファン・ボイ・チャウに至るまでも追放した。東遊運動は粉砕された」。ハノイで買った高校の歴史教科書にはそう書いてあった。

 チャウは1909年3月、4年間暮らした日本を追われた。東京の外務省外交史料館に、小村寿太郎(こむら・じゅたろう)外相にあてたチャウの直筆の手紙が残っている。チャウは、外相が「アジアの黄色人種を軽侮し、罪の有無を問わず駆逐している」とし、日本が欧米列強と手を結んだことを痛烈に批判した。薄い半紙に漢字で一字一字、きちょうめんに書かれた手紙を手に取ると、彼の激しい怒りが伝わってくる。

■日本に学ぶ清国学生 取締規則で警戒・反感

 当時、日本には、清からの留学生がもっとたくさんいた。清国は、日清戦争直後の1896年に留学生の派遣を始め、1905年にはその数は約1万人に達した。

 清末の留学生事情に詳しい李喜所(リー・シースオ)・南開大学教授を中国・天津に訪ねた。李教授は「日清戦争でなぜ日本に負けたのか。その理由を知ろうと日本への留学や視察が始まった」という。欧米で近代の思想や制度を一から学ぶのではなく、日本の経験に学べば効率的だとも考えられた。欧米より近く、費用が安くてすむという現実的な理由もある。1905年に科挙制度が廃止され、日本が新しい勉強の場と考えられたことも大きいと解説してくれた。

 日露戦争で日本が勝つと、清では「専制」ロシアに対する「立憲」日本の勝利という見方が広がり、日本への関心が一層高まった。中国の出身で山梨学院大の熊達雲(シュン・ターユン)教授は「日本の勝利は、中国の国民の目を覚まし、立憲制導入の動きを早めた」とみる。1906年、清朝政府は遅まきながら立憲政治の実施を約束した。

 そんななか、留学生にとって衝撃的なことがおきる。日本政府は1905年11月、「清国留学生取締規則」を公布した。革命運動への傾斜を清朝政府が恐れ、日本政府に取り締まりを依頼したのだ。留学生たちはこの措置に対し、授業のボイコットなどで反発する姿勢を示した。当時の朝日新聞はこれを「清国人の放縦卑劣」と批判し、それを読んだ留学生で革命派の活動家だった陳天華(チェン・ティエンホワ)(ちん・てんか)は、抗議のため東京の海に入り自殺した。

 「アジアの強国、日本から学ぶ。その一方で、朝鮮や中国東北部への支配を強めている日本に対する警戒と反感。留学生の気持ちは矛盾し悩んでいた」。李教授はこう説明する。今、日本の憲法改正の動きや歴史問題など、中国側が神経をとがらせる問題もある。李教授に学ぶ大学院生の李来容(リー・ライロン)さん(25)がこう付け加えた。

 「日本に学ぼうという気持ちと警戒感。日本を見る目はあまり変わってないですよ」

■中国「迷惑な侵略」 日本「植民地に夢」

 さて今、中国では日露戦争はどう受け止められているのか。激戦の地である旅順を訪ねた。

 旅順港は今も、中国海軍の重要な拠点で、一部の観光地を除き、外国人は自由に歩けない。「旅順、大連は日露の争奪戦の場だった。日本の勝利は中国侵略への跳躍台となった」。旅順の国防教育基地「日露戦争陳列館」で見た中国語のビデオだ。

 203高地のふもとの土産物屋で働く韓行恕(ハン・シンシュー)さん(82)は、子供の頃、旅順で日本語を学ばされたという。なめらかな日本語で、戦争の経緯を説明してくれた。私は「中国にとって日露戦争とは」と質問した。「迷惑な侵略戦争です。日本がロシアを追い出し、中国を助けたという人もいるが、間違いです。日本は戦争が終わっても居座り、旅順を支配してしまった。やがて中国全土に入ってきました」。穏やかに諭すような語り口だった。

 では、日本ではどうだろう。

 終戦記念日の8月15日、靖国神社の遊就館を訪れた。日露戦争のコーナーでは、軍艦マーチが高々と鳴り響き、日本の勝利を伝える映像が流れ、人だかりができていた。「東洋の小国だった日本が大国ロシアに打ち勝ったとき、ロシアやヨーロッパの支配下にあった植民地の人々にも大きな夢と希望をもたらしたのである」。ナレーションは誇らしげだ。

 それはそうかもしれない。しかし、朝鮮半島や中国など日本に近ければ近いほど、「夢と希望」が色あせるスピードは速かったのではないか。

 大江志乃夫・茨城大名誉教授はこう話す。「戦争直後、日本は朝鮮を保護国化し、アジアの人たちの希望は失望に変わる。日本の勝利は希望も与えたが、すぐに失望させたことも忘れてはならない」

(桜井泉)

【このころの東アジア】
 
1895 朝鮮皇后の閔妃、日本軍などに殺害される
96 朝鮮国王高宗、ロシア公使館に約1年移る
97 朝鮮国、大韓帝国に国号を改称
98 ロシア、清国から大連・旅順の租借権と南満州での鉄道敷設権を獲得
1900 北京で義和団事件(北清事変)が起きる
02 日英同盟調印
04 日露戦争が始まる。第1次日韓協約で大韓帝国は日本推薦の財政、外交顧問を受け入れ
05 ポーツマス講和条約調印。第2次日韓協約で日本は大韓帝国の外交権を奪い保護国に。伊藤博文を初代統監に任命
07 第3次日韓協約で内政も支配下に置かれる。この時の覚書で軍隊を解散させられる
10 「韓国併合に関する条約」を締結

キーワード:日露戦争
 904〜05年、ロシアと日本が韓国と中国東北部(旧満州)の支配をめぐり争い、日本が勝った。日本側の死者は約8万4000人と、日清戦争時(約1万3000人)の6.5倍に上った。ロシア側は約5万人。
 日清戦争後、ロシアは朝鮮での影響力を強めるとともに、極東で不凍港を手に入れるため、1898年に清から旅順・大連を租借、鉄道の敷設を進めた。モスクワ大学のアイラペトフ助教授によると、ロシアの対外政策の基本は大洋に進出するという海洋戦略で、皇帝ニコライ2世はこの考えを熱心に支持していたという。
 1900年、ロシアは義和団との戦いのため清に出兵、鎮圧後も満州に居座った。日本はロシアと交渉をしつつ戦争準備を進めた。交渉は決裂し、1904年2月、日本軍は旅順のロシア艦隊を攻撃、韓国・仁川にも上陸し戦争が始まった。日本軍は、12月には多くの犠牲者を出しながらも、旅順港を見下ろす203高地を占領し、翌年1月、旅順の要塞(ようさい)を陥落させた。日本の連合艦隊が5月、日本海海戦でバルチック艦隊に壊滅的な打撃を与えると、アメリカのセオドア・ルーズベルト大統領が講和をあっせん。ロシア国内は革命運動が広がり混乱、日本も戦費調達が限界に達していたので講和に応じた。
キーワード:ポーツマス講和条約
 905年9月、アメリカのポーツマスで日本の小村寿太郎全権(外相)とロシアのウィッテ全権(元蔵相)らが調印した。(1)ロシアは韓国に対する日本の指導監督権を認める(2)ロシアが持つ清からの旅順・大連の租借権譲渡、長春以南の鉄道を日本に譲渡する(3)ロシアが北緯50度以南のサハリン(樺太)を日本に譲渡する(4)沿海州とカムチャツカの日本の漁業権を認める、などの内容だ。巨額の賠償金が得られると信じていた日本の民衆は、講和の内容に反発し、東京で大暴動を起こした。

 ◆人名の読み仮名は現地音です。日本語読みが定着している場合にはひらがなで補記しています。

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