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ここから本文エリア 現在位置:asahi.com >歴史は生きている >3章:日露戦争と朝鮮の植民地化 > 鉄道とともに日本軍がやってきた
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![]() 京義線の韓国側最北の駅、都羅山。5年前につくられたばかりで新しい=韓国・坡州(パジュ)市で、中野写す |
![]() 鉄道を破壊した朝鮮人を日本軍が処刑する場面を再現した展示。韓国の子どもがじっと見ていた=韓国・天安市の独立記念館で、中野写す |
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広いホームに降り立つと、「ソウルまで56キロ、平壌(ピョンヤン)まで205キロ」の案内表示が目に入った。
ここは、南北朝鮮の休戦ラインに近い都羅山(トラサン)駅。中国との国境に近い北朝鮮の新義州(シニジュ)と、韓国の首都ソウルを結ぶ京義線(キョンウィソン)で、韓国側の最北の駅だ。韓国軍が民間人の出入りを制限する地域にあり、ここまで来る列車は1日3本だけ。身分証明書を見せ、憲兵の持ち物検査を受けなければ乗客とはなれない。
周辺はつい数年前まで地雷が埋まっていた。それが2000年の初めての南北首脳会談後、朝鮮戦争で破壊された京義線の一部を復元することが決まり、この駅も5年前に新しくできた。今年5月には休戦ラインを越えての試験運行があり、56年ぶりに列車が南北を往来した。北に延びる鉄路は、民族の和解を示す新しい舞台である。
洪水で南北首脳会談は10月初めに延びたが、韓国の盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領は8月28日、この京義線に沿うように延びる道路を通って平壌入りするはずだった。南北交流の成果を印象づけたい気持ちが伝わってくる。
さて、私はなぜここに来たのか。
日本がいつ、どのように朝鮮半島を植民地として支配するようになったのかを調べていると、鉄道が深く関係しているらしいことを知った。京義線もその重要な役割を果たしたという。
植民地支配の影と南北分断、そして融和。支配の始まりをたどる旅のスタートとして、歴史が折り重なった象徴の場を見ておきたかった。
■支配を拡大する道具、争いの火種に
ソウルで「日帝侵略と韓国鉄道」という著書のある鄭在貞(チョン・ジェジョン)・ソウル市立大教授をたずねた。
鉄道ができて便利になったのでは、と素朴な質問をぶつけると、鄭教授からは険しい表情とともに、こんな答えが返ってきた。
「韓国から見れば、鉄道とともに日本軍がやって来て、収奪と抑圧の時代が始まった。日本は朝鮮半島を軍事上の生命線と考え、半島を支配するための道具として鉄道を敷いた。また、日露戦争は鉄道をめぐる戦争でもあったのです」
鄭教授の説明は以下のように続く。
列強の国々にとって、軍や物資を大量に運べる鉄道は、支配地域を広げる重要な手段だった。中国東北部と朝鮮半島北部の鉄道をめぐって争ったのが日本とロシアで、交渉では決着がつかず、戦争に至る原因の一つとなった――。
確かに日清戦争の後、ロシアは、中国東北部を横断してウラジオストク近くへと至る東清鉄道と、ハルビンから旅順までの南満州支線の敷設権を清国から手にするなど、自らの鉄道ネットワークを広げようと躍起になっていた。
日本も、ソウルと半島南端の釜山(プサン)を結ぶ京釜線(キョンブソン)と京義線を手に入れることに力を注いだ。二つの路線によって半島の縦断が可能となるからだ。京釜線は日清戦争後に敷設権を手にし、1901年に起工。ロシアとの緊張が高まると、急ピッチで工事を進めた。京義線は、大韓帝国政府が朝鮮民族の手による自力建設を目指していたが、資金不足でなかなか進まずにいた。
当時の公文書から日本政府の意図がはっきり読み取れる。たとえば、1902年、小村寿太郎(こむら・じゅたろう)外相が桂太郎(かつら・たろう)首相に出し、閣議決定された文書にはこんな趣旨のことが書いてある。
「京義鉄道をわが手で敷設し、京釜線と連絡させれば韓国貫通の幹線鉄道はすべて帝国のものとなり、韓国をわが勢力範囲に置くのと同じだ」
翌年、ロシアとの交渉方針をめぐる閣議では「今後の韓国鉄道の満州南部への拡張」をロシアに妨害させないと約束させることを決定した。つまり、朝鮮半島からさらに中国東北部へと線路を延ばし、勢力圏を拡大させようということだ。
1904年2月、日露戦争が始まる。
開戦前、大韓帝国は戦争に巻き込まれまいと、「中立」を宣言していた。しかし、日本はこれを無視し、ロシアへの宣戦布告より2日前に仁川(インチョン)に先遣隊を上陸させ、続く部隊とともに総勢1万余りが首都とその周辺になだれこんだ。占領下ともいえる状況で、開戦から約2週間後には「日韓議定書」を結び、日本が「軍略上必要な地点を臨機収用できる」ことを認めさせた。端的に言えば、日本軍が「この土地は必要だ」とみなせば日本軍のものにできるようになったのだ。
懸案だった京義線について、日本は大韓帝国に「軍用鉄道」としてつくることを通告。鉄道大隊が工事に取りかかった。
■植民地支配の始まり、日露戦争から
鉄道と植民地支配の歴史が重なる場所を訪ね、ソウル市内の竜山(ヨンサン)区に向かった。
この区で竜山駅の東側あたりは、韓国の地図では空白になっている。巨大な在韓米軍基地があるからだ。道路沿いに有刺鉄線やコンクリート、れんがの壁が続く。
この一帯は日露戦争のさなか、日本軍が土地を収用し、軍事施設を築いた。それから100年が過ぎたが、民衆が自由に立ち入れないままだ。
日本軍はなぜ、竜山を選んだのか。
ソウル大で、金白永(キム・ベギョン)研究員が古い地図を広げながら教えてくれた。地域の玄関口にあたる竜山駅は当時、半島の鉄道の結び目にあたり、京義線などもここから延びていた。王宮にもにらみをきかせられる位置だった。
「王を威圧し、鉄道で半島各地に移動しやすいところに日本軍は巨大な軍事拠点を築いたのです」
もう一つの重要な路線である京釜線は、1905年1月に完成し、この年、日本の下関とを結ぶ連絡船の運航も始まった。翌年4月には京義線も全線が開通した。
日露戦争をはさむわずか数年の間に、半島を南北に貫いて中国東北部に迫る約950キロの幹線鉄道をつくりあげた。日本の新幹線では東京駅から新山口駅付近までと同じ距離だ。陸路では馬などを使って武器や食糧を運んでいたのが、大陸の入り口までの大量輸送ができるようになった。
軍と物資を運ぶ動脈をつくりあげただけではない。日本軍は、前線への物資輸送や鉄道沿線の警備などを理由に駐留軍を編成し、大韓帝国から首都の警察権も奪った。
ロシアとの戦争が終わっても、日本の軍隊は引きあげるどころか、2個師団規模、推定3万人の陸軍部隊がいすわった。さらに大邱(テグ)、釜山など沿線を中心に広大な土地を次々と収用し、軍事拠点にした。
ソウルの事務所で会った「親日反民族行為真相糾明委員会」の徐民教(ソ・ミンギョ)専門委員は「日露戦争が始まるとともに、韓国は事実上、日本軍の手に落ち、植民地化がすすめられた」と話した。そのため、委員会が調査対象としている「日帝強占」(日本による植民地支配)の期間も、1904年2月の日露戦争の開戦から1945年8月の解放までとなっている。
つまり、韓国では植民地支配の始まりを1910年の併合条約締結からではなく、日露戦争からと受け止めているのだ。
■農民がきつい労働、抵抗運動の対象に
朝鮮の民衆の目に、鉄道建設はどう映っていたのだろうか。
日本の歴史教科書問題を機に20年前にできた韓国の独立記念館(天安〈チョナン〉市)を7月初めに訪ねた。広場に、銃を構える日本兵とはりつけで処刑される民衆の等身大の人形が立っていた。説明板を読むと、8月末までの記念展示として「日帝が韓国侵略のために敷いた鉄道を破壊し、1904年に殉国した愛国志士の処刑の様子を再現しました」とある。日露戦のさなか、首都の京義線付近で公開銃殺された3人はいま、日本の植民地化に抵抗した「義兵」とたたえられ、処刑場面の記録写真は韓国の歴史教科書にも登場する。
鉄道は、民衆から農地を奪っただけではなかった。日本の軍人や業者は主に監督役で、現場でのきつい労働は、なかば強引に集められた農民らが担った。そんな手法は民衆の反発と憎しみを呼び、日本支配に抵抗する「義兵闘争」の攻撃対象となった。手を焼いた日本軍は、鉄道に危害を与えた者やかくまった者を「死刑」にする軍令も出し、実際に処刑した。
京釜線が通るソウル郊外の安養(アニャン)市。町並みを見下ろす小高い丘に立つ石碑に「伊藤博文(いとう・ひろぶみ)」という文字をみつけた。碑文によれば、1905年11月、伊藤が京釜線の列車で安養を通ることを知った地元生まれの元泰祐(ウォン・テウ)が列車に投石、伊藤はけがを負ったという。石碑は、拷問を受けて投獄され、不遇な生涯を送った「志士」の偉業を後世に伝えるため地元住民らが15年前に建てたものだった。
元首相の伊藤は、大韓帝国から外交権を奪い、保護国とする第2次日韓協約(乙巳<ウルサ>条約)の調印を迫る特使として来ていた。
その伊藤が安重根(アン・ジュングン)に殺害された10カ月後の1910年8月22日。大韓帝国の最後の御前会議が開かれ、併合条約の締結を承認した。今は世界遺産となっている王宮「昌徳宮(チャンドックン)」の一角に、会議の跡地があり、説明板には「韓日合併を決めた悲運の場所」とあった。
この翌年、朝鮮半島と中国大陸を隔てる鴨緑江の架橋工事が完成。釜山から中国東北部までがレールでつながった。日本は大陸侵略へと突きすすんでいく。
◆人名の読み仮名は現地音です。日本語読みが定着している場合にはひらがなで補記しています。
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