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朝鮮3・1 中国5・4 大正デモクラシー

声上げる民衆たちの連鎖

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かつての北京大学の建物のそばに、5・4運動の記念碑が建っている=中国・北京で、西写す

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呂運亨(1886〜1947)朝鮮の独立運動家。中国を拠点として活動し、19年に上海の大韓民国臨時政府樹立に参加。日本の敗戦後「朝鮮人民共和国」の建国を主導するが47年に暗殺された。韓国では長らく左派のレッテルを張られてきたが、2005年、盧武鉉政権の歴史見直し政策により叙勲されるなど近年再評価されている。

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李大▲(1889〜1927)中国共産党の創設者の一人。早稲田大学で学ぶ。新文化運動を指導し、雑誌「新青年」「毎周評論」を編集した。北京大学図書館主任の当時、補助員に毛沢東がいた。27年、赤狩りを進めていた軍閥側により絞首刑に処された。死後80年の今年、北京の旧居が記念館として一般に開放された。

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吉野作造(1878〜1933)宮城県古川町(現・大崎市)出身。東京帝国大学卒業後、袁世凱の長男の家庭教師として中国・天津に赴任した。欧州留学を経て、東大教授時代に「民本主義」を提唱し、大正デモクラシーの旗手の一人となる。晩年は明治文化研究に力を入れた。(写真は天津時代。吉野作造記念館提供)

 韓国で3月1日、中国で5月4日は大きな意味を持つ。1919年の2カ月の間に、3・1独立運動5・4運動という大規模な民衆運動が起きた。いずれも日本の帝国主義への反発である。

 韓国では毎年、記念式典があり、大統領が演説する。今年は盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領が日本に対し、「誤った歴史の美化、正当化」を戒め、誠意を尽くすよう求めた。昨年は記念式典を欠席してゴルフ場にいた首相が、批判を浴びて辞任するという事件も起きた。

 一方の中国。記憶に新しいところでは一昨年の春、上海などで反日デモが続発した際、5月4日はとりわけ日中当局者に緊張が走ったという。デモで掲げられた「抵制日貨(ティーチーリーフオ)」(日本製品ボイコット)という言葉は5・4運動のスローガンでもあった。

 日本の隣国では、あの日の記憶は今なおよみがえる。翻って日本はどうか。遠い日の遠い出来事と受け止めてはいないだろうか。だが、東アジアで起きた大規模な二つの民衆運動は、同じ年の2月8日、東京で起きたある事件が一つのきっかけとなっていた。

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 東京・水道橋。大通りを離れた一角に、在日本韓国YMCAの建物がある。正面玄関の右脇に、高さ2メートルほどの白い石碑が立つ。「朝鮮独立宣言一九一九 二・八記念碑」とある。この日、何があったのか。YMCA史などから再現してみる。

 雪の降る日だった。午後2時、講堂は約600人の朝鮮人留学生であふれかえった。この日は警戒する警察官の目を逃れるために、学友会総会を口実にして集まった。開会すると、計画通り独立大会に切り替えた。壇上には独立宣言文が掲げられる。代表者が読み上げると、場内は拍手と歓声に沸いた。帝国主義日本への反旗が翻った瞬間だった――。

 当時神田にあった建物は関東大震災で被災し、関係資料の多くも震災で失われたという。その後、今の場所へと移った。

 「記念碑のほかには?」と副館長の金弘明(キム・ホンミョン)さんに尋ねると、9階に案内してくれた。古い金属製のレリーフが廊下の壁に掛かっていた。当時の宣言文を写したものだ。起草者は当時早稲田大生で、文人として名を残す李光洙(イ・グァンス)。「3・1独立運動で読み上げられた文章に比べて、かなり戦闘的な内容です」と金さん。末尾には「要求が通らなければ、永遠の血戦をする」とあった。

 1910年の併合以来、朝鮮民族は日本への同化を強いられ、学校でも日本語を重点的に教えられた。民族の尊厳を傷つける支配に、水面下では独立運動が胎動していた。例えば上海に亡命した独立運動家、呂運亨(ヨ・ウニョン)は、新韓青年党を作り、東京の留学生はじめ各地とのネットワーク作りに奔走していた。1919年1月、朝鮮王朝の皇帝だった高宗(コジョン)が死去すると、日本による毒殺説が広まり、大衆の怒りに拍車をかけた。第1次世界大戦の講和会議で打ち出された「民族自決」つまり、ある民族のことに他民族は干渉すべきでない、との考えも後押しした。

 3月3日の高宗の葬儀にあわせ、何らかの独立運動を起こそうと模索が朝鮮で始まっていた。そんな中、届いたのが、東京での留学生決起の報だった。留学生の一人は、布に記した宣言文を帽子の中に隠してソウルに渡った。その文章は3・1独立宣言文に影響した、と言われる。ほかにも東京の集会に加わった留学生の一部は朝鮮に戻って、独立運動の準備を進めた。

 お年寄りたちの憩いの場として知られるソウルのタプコル公園(旧パゴダ公園)は、3・1独立運動の発祥地だ。門をくぐると、すぐ右手に独立宣言文を刻んだ巨大な碑がある。末尾には主導者である「民族代表」という肩書の33人の名前が並ぶ。しかし、実際に民衆の前で宣言を読んだのは学生で、彼らはその場にいなかった。近くの料理店で宣言文を読むや、警察に投降しているのだ。「宣言に掲げた非暴力を示した」などいくつかの説がある。

 デモは約3カ月にわたり、全土で1542回行われた。人口の約1割にあたる200万人が参加したとされる。当時は集会・結社の自由も、朝鮮人の自由な意思を伝える媒体もなかった。さらに「民族代表」も捕まった中、運動はどのように全国に広がったのだろう。民族運動史が専門の慎●廈(シン・ヨンハ)・梨花(イファ)女子大学碩座教授に聞いてみた。

 「宗教団体と学校組織が動いたのです。この二つだけは総督府に対し、事前連絡なしに集会ができたんです」。天道教、キリスト教、仏教の教徒、学校の教員らによって、事前に宣言文や太極旗が各地に配られていた。宣言文にある「民族代表」もすべて宗教指導者だった。「一方で、多くの民衆を巻き込めるように、地方都市では人々が集う市の日に運動を起こしています」

 あらかじめ意図されたネットワーク、そして偶発的な人のつながりが相乗効果を生んだというわけだ。

 「海外の民族運動への影響も大きかった。特に中国の5・4運動が起こる外部的な要因になっています」

 その言葉の通り、3・1運動は中国に飛び火した。

■中国に飛び火、決起促す教授ら

 まず、日本の弾圧を逃れたメンバーらが上海で今の韓国政府のルーツとなる大韓民国臨時政府を樹立し、上海は独立運動の拠点の一つとなる。呂運亨や2・8宣言を起草した李光洙も参加した。そして何より、中国の知識人への刺激となった。

 各地の労働者、農民らを巻き込み全土的な愛国運動に発展した5・4運動は、まず北京大学から始まった。

 朝鮮の3・1運動に注目していたのは、共産党の創設者ともなる教授の李大▲(リー・ターチャオ)、陳独秀(チェン・ドゥシゥ)や、学生会の中心人物だった傅斯年(フー・スーニェン)ら。自分が編集する雑誌で積極的に3・1運動を取り上げた。自らのメディアを持たなかった朝鮮と違って、中国では雑誌が大きな役割を果たしていた。北京大学では教員、学生らがいくつもの雑誌を発行していた。陳は「朝鮮人を見よ。われわれは何をしているのだ」と呼びかけた。

 北京中心部に「五四大街」という大通りがある。かつての北京大学の建物「紅楼」の中には、北京新文化運動記念館が設立され5・4運動の資料を展示している。しかし、3・1運動との関係を示す展示は見あたらなかった。

 北京大学の宋成有(ソン・チョンユー)教授(東北アジア史)は「大学の校史館にもありません。歴史が広い視点でとらえられていない。5・4運動を中国史の観点のみで見るのは問題がある」と率直な言葉を口にした。「3・1、5・4は間違いなく思想的な連関があります。共通の敵は日本でしたが、単なる反日ではありません。民衆による反帝国主義の愛国・民主運動ととらえるべきです」

 当時の日本はどうだったか。

■日本では米騒動、普通選挙運動も

 日本も民衆運動の季節を迎えていた。3・1、5・4の前年、米の高騰を機に富山県の女性たちが抗議行動を起こした「米騒動」が発生。全国に飛び火し、炭坑などで暴動化した。このため、初代の朝鮮総督でもあった寺内正毅内閣は辞職に追い込まれる。普通選挙運動も活発化している。大正デモクラシーと、後に呼ばれた時代だった。

 内ではデモクラシー、外には帝国主義。これが当時の日本の姿だった。

 そんな日本の中で、3・1、5・4運動に理解を寄せた知識人もいた。代表格が、大正デモクラシーの父とされる吉野作造である。東大教授の吉野はキリスト教徒で、学内のYMCAの理事長として、中国人、朝鮮人の留学生たちと接触があった。学費の面倒を見てもらっていた学生もいた。

 3・1独立運動の直後には「国民のどの部分にも『自己の反省』が無い。凡(およ)そ自己に対して反対の運動の起(おこ)った時、これを根本的に解決するの第一歩は、自己の反省でなければならない」(「中央公論」)。5・4運動に関して「日本を排斥するのは、実は侵略の日本を排斥するものである」「今日の日本には、侵略の日本と平和の日本との二つがあることを認めねばならない」(「東方時論」)と訴えている。

 5・4運動の指導者だった李大ショウは、吉野が中国・天津の北洋法政専門学校で教壇に立っていた時の教え子。それぞれが編集を手がけた雑誌を送りあうなど交流を続けていた。5・4運動の翌年には北京大学教授でもあった李を通じて、北京大学から学生団を日本に招いている。3・1運動の指導者、呂運亨とも東京で意見交換をし、「尊敬すべき人物」と評価している。

 東京外国語大学の米谷匡史准教授はここ数年、近現代史における東アジアと日本の関係性を論じてきた。学生は日本人だけでなくアジアからの留学生もいる。「それぞれの国の立場からしか歴史を学んでいないので、連関や絡まり合いという視点によって歴史が違って見えてくる、という声が毎年のように聞かれます。吉野についても大正デモクラシー、普通選挙運動の人としか見られていない。3・1、5・4に関心を持ち、朝鮮人、中国人と向かい合っていたことに日本人の学生が驚いているんです」

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 東京でも、ソウルでも、北京でも、歴史は、記念碑や記念館に深く刻まれていた。しかし今、日本人は3・1運動が足もとから始まったことを知っているのだろうか。中国人は5・4運動を動かした朝鮮人たちの存在を知っているだろうか――。一国史の壁を解き放った時、人や思想のネットワークの存在など、大切なことがもっと見えてくる気がする。

●=金へんに庸、▲=金へんにりっとう

(西正之)

キーワード:3・1独立運動
 日本の統治下にあった朝鮮各地で1919年3月1日に始まった全土的な抗日・独立運動。民衆が太極旗を振りつつ「独立万歳」と叫びながらデモ行進をしたことから、万歳事件とも呼ばれる。宗教指導者らにより事前に準備され、ソウル、平壌などで同時に起きた。ソウルでは中心部タプコル公園(旧パゴダ公園)に集まった民衆の前で、独立宣言が読み上げられデモ行進が始まった。約3カ月の間、全国で展開されたが、日本軍の弾圧によって、住民を礼拝堂に閉じこめ火を放つなどして約30人を虐殺した堤岩里事件などが起きた。一連の運動をめぐり死者7509人、負傷者1万5961人のほか、4万6948人が投獄された(朴殷植著「朝鮮独立運動の血史」)。朝鮮での労働運動、農民運動、女性運動などの原点にもなった。
キーワード:第1次世界大戦と民族自決
 1914年7月〜18年11月まで、欧州中心に約30カ国が参戦した第1次世界大戦の終結にあたり、米国のウィルソン大統領は14カ条からなる平和原則を提案。その一つが民族自決の原則で、各民族の発展は他からの干渉なく自ら決定できることを国際的に保障するものだった。戦後処理をめぐる19年のパリ講和会議は、14カ条の原則を基本とした。日本植民地下の朝鮮や青島の返還などを求めていた中国で期待感が高まった。しかし、非ヨーロッパ圏には適用されず、朝鮮、エジプト、インドなどでは民族運動が盛り上がる結果となった。
キーワード:5・4運動
 1914年7月、欧州で第1次世界大戦が発生すると、イギリスの同盟国日本は中国に進出していたドイツに宣戦布告。中国・山東半島にあった根拠地の青島を攻略した。日本はこれを機に15年1月、山東のドイツ利権の譲渡や南満州への権益拡大など21カ条からなる要求を突きつけ、袁世凱政府にのませた。1919年1月のパリ講和会議の際、中国は山東の返還、21カ条要求撤廃を求めたが却下された。これが伝わると、北京大学を中心とした大学生ら約3000人が5月4日、天安門広場で抗議集会を開いた後、デモを起こした。21カ条要求の交渉をしていた親日派官僚の自宅を焼き打ちするなどして、学生30人余りが逮捕された。これに抗議する形でさらに大規模なデモが起こり、上海、武漢、天津などで日本商品の排斥、労働者によるストライキなど全国規模での愛国運動に発展した。この結果、政府は親日派と目される官僚3人を罷免、講和会議に出席していた代表団に条約への調印を拒否させた。反日・抗日だけでなく、軍閥支配など封建主義への反対や思想解放運動など幅広い要素を持つ運動に発展した。

 ◆人名の読み仮名は現地音です。日本語読みが定着している場合にはひらがなで補記しています。

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