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現在位置:asahi.com >歴史は生きている >4章:辛亥革命と民衆運動 >シリーズ・識者20人に聞く > 加藤陽子

歴史は生きている

二重外交の始まりシベリア出兵 加藤陽子(東大准教授)

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1960年生まれ。1930年代の日本の軍事・外交史を中心に研究する。著書に「戦争の論理」「戦争の日本近現代史」など。

 作家の城山三郎は、「(日本が)戦争で得たのは憲法だけだ」と語っていた。ほかの国が例えば革命で獲得したことを、日本は近隣諸国を戦禍に巻き込みながら、戦争を通じて獲得したといえる。

 それだけに、「日本人の戦争」の特徴は何だったのかという視点を重視したい。

 意外と影響が大きかったのはロシア革命とシベリア出兵だ。日露戦争後、中国東北部からモンゴルにかけては日ロ両国のすみ分けができていた。ロシア革命でその秩序が崩れ、日本軍は英仏の意向を追い風として出兵した。

 このとき共同出兵したアメリカは、日本軍の出兵地域を沿岸部に制限したが、参謀本部は日本軍を中国軍司令官の指揮下に入れうるとの協定を中国と結び、満州全域で事実上自由な行動をとった。おりしも原敬が初の政党内閣を組織し、使用兵力量や地域を限定したのに対し、軍は巧妙に抜け道を作った。日本の二重外交はここから始まる。

 様々な工作や謀略を担う陸軍の特務機関が設けられたのもこのときだ。正式な手続きを踏まないまま謀略を機に戦争を始め、現地に傀儡(かいらい)政権をつくって事実上コントロールする日本軍の独自の手法もここに起源がある。

 2番目には、太平洋戦争の「敗北」を挙げたい。日本社会の基本的な秩序原理であった国体が、変革された。

 アジアにとって日本の敗北は「光復」だったが、混乱ももたらした。それが意外にも早く訪れたため、朝鮮では独立勢力が一致して国づくりを始める余裕がなく、分断に決定的な影響を及ぼした。中国でも国民党政府が共産党に対する態勢をとれず、内戦を経て共産党が政権をとった。

 1899年と1900年にアメリカが発した門戸開放宣言は「遅れてきた帝国」であるアメリカの方便だが、被支配民族に力を与えて、以後の大勢をつくった。支配されている側の土俵にのって自らの利益を追求するという、今日まで続くアメリカの手法だ。

 3・1独立運動は日本にとって、軍部に代わって政党が力をふるう絶好機だったが、生かせなかった。朝鮮の武断統治を改める際に政党は朝鮮総督のポストを奪い合い、党利党略と批判された。軍部が面目を失したのに政党は国民の信頼を得られず、軍部が息を吹き返すことになった。

 満州事変前に日本が南満州に持っていた権益は、国家が戦争によって獲得した条約上の権利が大半だった。日本の民間人は自ら大陸に出て行く能力がなく、国と軍隊に守られて出て行った。これが日本人の排外主義を助長した。まして日中間には条約に関する主張の不一致があったのに、国民に隠されていたことが、満州事変から日中戦争へと事態が拡大するのに影響した。

 日中共同声明はアメリカが中国を説得して実現した。当時アメリカは日本の核武装を本気で心配し、中国と協力して日本を抑えようとしたらしいことが分かってきた。

 日本人は、ベトナム戦争をベトナム側の「被害者」の目で見つつ、基地を提供し続けた。このときすべきだったのは、「侵略者」の立場から日中戦争と太平洋戦争を再考することではなかったか。

 辛亥革命から中華人民共和国の成立までを長い中国革命ととらえたい。途中には国共合作や対日戦争の勝利といった画期があった。

 最後に日清戦争と日露戦争を挙げる。日本という最後の参入者を得て帝国主義戦争にアクセルがかかり、清朝とロシアの王朝が倒れる契機となった。

(聞き手・吉沢龍彦)
  • (1)ロシア革命とシベリア出兵
  • (2)太平洋戦争の「敗北」
  • (3)アメリカによる門戸開放宣言
  • (4)3・1独立運動と政党政治の腐敗
  • (5)満州事変から日中戦争へ
  • (6)日中共同声明
  • (7)ベトナム戦争
  • (8)長い中国革命
  • (9)日清戦争
  • (10)日露戦争


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