中国は8年間に及ぶ日本軍の攻撃に耐えきった。なぜ、それが可能だったのか。その謎を解くカギの一つは、北京や南京から遠く離れた雲南省の小さな町の小さな橋にあるという。私は、その橋を訪ねた。
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「いまは乾期ですが、きのうは雨が降りました」
少数民族のナシ族の運転手がハンドルを握りながら言う。
道路のわきでは、シュロやゴム、バナナの葉が揺れる。道路に沿って流れる小川のすぐ向こうはビルマだ。今は軍が政権を握り、国名はミャンマーになった。
雲南(ユンナン)省西端の瑞麗(ロイリー)市。●町(ワンティン)はその中にある人口約1万人の町だ。市街地に●町橋があった。橋を渡るとミャンマー。古い橋と新しい橋が並んで架かっている。板敷きの古い小さな橋は通行止めだ。戦争中、この橋を通り、アメリカ、イギリスなどからの大量の物資が中国へ運び込まれてきた。蒋介石(チアン・チエシー)(しょう・かいせき)が率いる国民政府を支援する「援蒋ルート」だった。
■運命握る物資ルート インドから空輸も
戦火が北方から上海へ広がり、蒋介石は首都を臨時に南京から重慶(チョンチン)(じゅうけい)に移した。奥地を拠点にして持久戦に持ち込もうとしたのだ。さらに奥に位置する雲南省の省都昆明(クンミン)周辺は兵器工場などを抱える後方基地となり、これらの地域に支援物資を運び込むことが蒋介石政権の存続にかかわる重要問題となった。
国民政府は1937年12月、英国の植民地だったビルマと昆明を結ぶ◆緬(ティエンミエン)道路の突貫工事を開始した。昆明から●町まで約960キロ。このうち、●町からの約550キロは全く新たな道路建設だ。高い山々を越えて大きな川を渡る。住民ら約20万人を動員する人海戦術で、3000人以上が命を落としたという。翌年8月に完成。●町橋でビルマの道路につながった。そこから約190キロのラシオからは鉄道がある。つまり、インド洋からヤンゴンを経由し、鉄道と道路で昆明、重慶へ運ぶ大動脈ができたのだ。
援蒋ルートはいくつもあったが、日本軍は太平洋側から一つ一つ切っていった。38年10月に広州を占領して香港ルートを遮断し、40年には仏領インドシナ(今のベトナムなど)の北部に進駐し、中国につながる鉄道ルートを阻んだ。その結果、テン緬道路が中国の運命を握ることになった。軍需品やガソリンなど、月に数千トンから1万トン以上の物資が運ばれたという。
太平洋戦争の勃発(ぼっぱつ)から間もない42年1月に日本軍はビルマに進軍した。国民政府軍もビルマへと遠征軍を派遣し、英軍とともに迎え撃った。
●町に住む81歳の石明坤(シー・ミンクン)さんは、ビルマへ向かう遠征軍の光景を覚えている。走り過ぎるトラックに灰色の軍服を着た男性兵士たちが座っていた。見送る町の人々はたばこを兵士たちに投げ与えた。大勢の女性兵士を乗せたトラックが来ると、温かい輸入品のコーヒーを差し出した。少女だった石さんはじっと見ていた。
「人々からのコーヒーに、女性兵士たちは喜んでいましたか」と聞くと、石さんは首を大きく横に振った。
「いいえ、いいえ。喜ぶ人たちもいましたが、悲しそうな人たちもいました。これから戦争に行くのですから」
遠征軍は敗れた。派遣された10万人のうち、半数以上が死傷したという。ビルマの各地を占領した日本軍は雲南省に攻め込んできた。石さんは「山の中の少数民族の村に逃げました。ずっと野生のものを食べていました」と追想する。4年近く中国を支えた◆緬道路もついに断たれた。
だが、米中連合軍が新たな手を打つ。インドからの空輸だ。ヒマラヤ山脈の峰と峰の間を縫うように飛び、大量の軍事物資を運んだ。ただ、操縦が難しいうえ、悪天候や日本機にも襲われ、約600機を失ったという。
44年春、中国とアメリカ、イギリスはインド側と雲南省側から、日本軍を挟むように反攻に出る。戦いながら、インド東部のレドと●町を結ぶ道路も建設し、また新たな援蒋ルートができた。中国への補給はずっと続いたが、逆に日本軍には十分な補給が届かず、雲南省でも玉砕が相次ぐという悲壮な結末を迎えた。
北京の盧溝橋事件から8年。日本軍はついに援蒋ルートを断ちきることができなかったのだ。
●町の中心部で、当時の周恩来(チョウ・エンライ)(しゅう・おんらい)首相とビルマの首相が拍手しながら歩く姿を描いた大きな看板を見かけた。日中戦争の終結から11年が過ぎた1956年12月、中国側で開かれた両国の辺境住民の交歓会に出席するため、二人の首脳が●町を訪れた時の光景だ。両国の友好を歌い上げる詩も大書されている。少し離れたところには両国の友好記念館もある。
それらを見ていると、最近の中国の報道が頭に浮かんできた。ミャンマーの港町から雲南省にガスと石油のパイプラインを建設するという。中東やアフリカからの石油をミャンマー経由で雲南省、さらには重慶へと流すのだ。そうすれば、どこかの国がマラッカ海峡を封鎖しても、中国は石油を確保できる。重要な戦略的意義がある、と報じられている。
援蒋ルートはまだ生きている。そんなことを感じつつ、●町を去った。
■国民党の戦い 評価する兆し
昆明。標高1891メートルの高地にある約600万人の都市である。
日中戦争を研究する雲南大学の徐康明(シュイ・カンミン)教授を訪ねた。
「(盧溝橋事件から間もない)37年8月の軍事会議で、雲南省主席の龍雲(ロン・ユン)が◆緬道路と◆緬鉄道の建設を提案したのです。蒋介石がこれに賛同し、(政府に)雲南省と相談するよう命じました」
鉄道は実現しなかったが、道路が長い期間にわたって国を支えた。徐教授は雲南省の貢献ぶりを説明した。
不思議なことに●町も雲南の戦いも、中国で意外に知られていない。なぜだろう。
「(国共)内戦の関係でしょう」と徐教授は語った。
国民党が率いる国民政府と共産党は内戦を停止して、共同で日本と戦うことを約束した。だが、その間にも局地的に戦闘は起き、抗日戦争後に雌雄を決する。共産党にとって、国民党は敵だ。史実であれ、彼らの活躍を教え、伝えることには消極的だった。こうして、国民党主体の雲南やビルマの戦いの記憶は薄れたというわけだ。
変化の兆しはある。
一昨年、胡錦濤(フー・チンタオ)国家主席が戦後60周年の演説で国民党の貢献に触れたのだ。「国民党と共産党の指導する抗日軍はそれぞれ『正面戦場』と『敵後方戦場』での作戦の任務を担い、ともに抵抗、反撃する戦略的な態勢を作った」と述べた。
これには背景がある。内戦で敗れた国民党は台湾に移り、7年前まで台湾で政権を握ってきたが、いまは野党として、与党の民進党による台湾独立の動きを阻止しようとしている。共産党と思惑が一致し、両党が接近し始めたのだ。
雲南やビルマの戦いに、もっと光があてられる日が、遠くない時期に来るのかも知れない。
昆明には戦争中、多くの工場や大学が引っ越してきた。「東部から何十社もの工場が移ってきたので、昆明の工業が発展するチャンスにもなりました」。雲南省中国近代史研究会の呉宝璋(ウー・パオチャン)会長は語る。
機械や製鉄などの工場も来た。飛行機も組み立てたという。雲南省は支援物資の輸送路だったが、後方基地としての役割も大きかったのだ。
■作曲家は昆明出身 映画主題歌が国歌に
市街地に接する湖、◆池。それを見晴らす西山に聶耳(ニエ・アル)の墓があった。地元出身の音楽家で、「義勇軍行進曲」の作曲で知られる。
この曲は30年代の抗日映画「風雲児女」の主題歌だったが、抗日戦争中に人々の間で広く歌われた。「……中華民族は最も危険な時に至った……起(た)て、起て、起て、我々はみな心を一つにして、敵の砲火をついて、前進しよう……」(田漢<ティエン・ハン>作詞)という内容だ。
この歌が中華人民共和国の国歌に選ばれた。「もう最も危険な時は過ぎたではないか」という意見もあったが、当時の周恩来首相は「平和な時にも、危険に備えておくことが重要だ」と述べたという。文化大革命の際に、田漢が批判され、一時的に演奏だけになるなどの曲折はあったが、今もこの歌詞で歌われ続けている。
抗日戦争を戦ったことが、共産党政権の存立基盤の一つであり、国家の土台とも言える。抗日戦争で生まれた国歌はそれを象徴しているように思える。
聶耳は1935年、日本を経由して、欧州、ソ連留学に行こうとした。出発間際に作曲した義勇軍行進曲の楽譜を日本で直して完成させたと、中国誌は伝える。中国の国歌は日本で完成したことになる。その数カ月後、聶耳は湘南の海で泳いでいておぼれ死んだという。23歳の若さだった。しかし、彼のメロディーは生き続ける。来年の北京五輪の会場でも繰り返し演奏されることだろう。
歌うたびに、みんなが抗日戦争を思い出すわけでもないのだろうが、あの体験を「風化させまい」という意思を感じる。
※●は田に宛、◆はさんずいに眞
(五十川倫義)
キーワード:援蒋ルート
アメリカ、イギリス、ソ連などが蒋介石の率いる国民政府に軍需品や石油などの支援物資を送り込んだルート。アメリカは当初、中立の立場をとったが、蒋介石の要請を受けて借款を実施。日本軍が仏領インドシナに進駐するなど戦線を広げるに連れて中国への軍事支援を拡大した。
日本の対米英開戦の後、欧米列強の植民地は次々に日本軍に占領された。フランスやオランダはすでに欧州戦線でドイツに降伏しており、アメリカとイギリスにとっては、中国の抗戦力の維持が極めて重要となった。このため、物資の提供と、作戦協力の両面から中国を支えた。援蒋ルートは中国の生命線を握っていたので、アメリカとイギリスはこの輸送路を守るために中国軍と共同して戦った。その最大の攻防が雲南省、ビルマで展開した。
42年には、蒋介石はアメリカのルーズベルト大統領の提案で連合軍の中国戦区司令官に選ばれ、戦区参謀長としてスティルウェル将軍がアメリカから派遣された。日本と中国の戦争はこのようにして、日本対中国・アメリカ・イギリスという構図に広がっていった。
ソ連もまた、日ソ中立条約が締結されるまで、独自に新疆方面などから中国に支援物資を送った。欧州でのドイツ戦に専念するために、日本軍を中国にくぎづけにしたかったためといわれている。
キーワード:仏領インドシナ
現在のベトナム、カンボジア、ラオス一帯に形成されたフランス領インドシナ連邦のこと。フランスは19世紀半ばから、インドシナに出兵し、ベトナム南部のコーチシナを領有、ベトナム北部のトンキン、中部のアンナン、カンボジアを保護領・保護国化した。ベトナムの宗主国だった清朝と戦争になるが(清仏戦争)、その結果、清朝はフランスによるベトナム支配を承認。フランスは1887年にこれらの領土や保護領・国を合わせてインドシナ連邦をつくり、後にラオスも編入した。フランス大統領が任命する総督の統治下、コメやゴムを大規模に栽培し、輸出するプランテーションや石炭生産に力を入れた。中国につながる鉄道も建設した。
◆人名の読み仮名は現地音です。日本語読みが定着している場合にはひらがなで補記しています。