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「戦死者に申し訳ない」という呪縛

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東条英機陸相

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東郷茂徳外相

 「心配なのはテロとの戦いと(地球温暖化の)炭素ガスです」

 老人は自分に言い聞かせるように語った。

 1世紀近くの時間を生きてきて、今は地球社会の将来を憂えているのだ。私は、その言葉に感じ入りつつ、はあとうなずくほかなかった。

 老人は、元海軍中佐、木山正義(きやま・まさよし)さん(98)。

 対米戦争を始めるに至った過程を描こうと様々な資料を読んでいるうちに、戦争を決定し、指導する側にいた人の「生の声」をどうしても聞きたくなった。とはいえ開戦から66年がすぎ、当時の要人は世を去り、「国策」と呼ばれた国家の重要政策を起案した陸海軍の幕僚たちも没している。大本営陸軍部で最も若い幕僚だった瀬島龍三(せじま・りゅうぞう)さんは2007年9月、95歳で亡くなった。

 しかし、無理と分かりつつもやってみるというのが新聞記者の仕事である。各方面にあたっているうちに親切な方がいて木山さんをご紹介いただいた。

 熊本県出身の木山さんは、海軍機関学校を出たエリート将校だった。開戦時には軍中央にはいなかったが、1944年1月から海軍省軍需局員として燃料政策の責任者となる。戦時の軍中央の空気をじかに知る数少ない一人だ。戦後は海外からの引き揚げ者のために燃料会社などを興した。

 ――開戦のころ、アメリカと戦争をすることをどう思っていましたか?

 最も聞きたかったことを質問すると、瞬時に答えが返ってきた。

 「僕はアメリカと戦争するのは愚の骨頂だと思っていた。アメリカと戦争をやっても勝つ見込みはない。軍人がいささか『おごり症候群』ではなかったのか」

   ×   ×   ×

 「愚の骨頂」。海軍で当時そう感じていたのは木山さんばかりではなく、首脳陣にも少なからずいた。日米開戦の決定過程を研究している森山優(もりやま・あつし)・静岡県立大講師は「日本には国をかけてまで戦う利害はアメリカに対してはなかった。アメリカも世論は圧倒的に中国びいきだったが、かといって中国のために自ら進んで血を流すことは考えにくい。結果からみれば非常に奇妙な戦争だった」という。

■奇妙な戦争 石油禁輸が契機に

 では、奇妙な戦争はなぜ起きたのか。その答えを探るにあたって、1937年7月の日中戦争勃発(ぼっぱつ)後の経過を「前号のあらすじ」風にざっとふりかえりたい。

 日本は首都・南京を陥落させれば中国は降伏すると思っていたが、蒋介石(チアン・チエシー)(しょう・かいせき)率いる国民政府は奥地の重慶を臨時首都にして抗戦を続け、イギリス、アメリカも支援した▼日中戦争は泥沼状態となり、日本軍は対米英開戦までに実に18万8000人余の戦死者を出した。一方、ヒトラー率いるドイツが欧州で戦争を始め、フランスやオランダを降伏させた▼日本はドイツ、イタリアとの三国軍事同盟を結び、アメリカ、イギリスに圧力をかけようとした▼だがこれが裏目に出て、アメリカの強硬姿勢を招く。当時、日本が石油輸入の大方を頼っていたアメリカは、41年8月に全面的な輸出禁止を決定する――。

 日本はアメリカの石油禁輸によって、それまでとは全く異なる局面に立たされ、重大な判断を迫られることになる。選択肢はざっくり言えば二つである。

 石油などの重要物資を得るために、オランダ領だったインドネシアやイギリス領のマレーシアなどを武力制圧する。つまりは蒋介石政権を打倒するためにも、米英との全面戦争に踏み切る――。

 あるいは、中国からの撤兵などアメリカの要求を受け入れる――。

 昭和天皇にしても当時の近衛文麿(このえ・ふみまろ)首相にしても戦争は避けたかった。アメリカは今ほどの軍事超大国ではないにせよ、車の生産台数だけをみても日本の100倍もあり、工業力に圧倒的な開きがあった。

 ところが、陸軍が中国からの撤兵という要求をがんとしてはねつけていた。

 その主張がよく分かるのが、10月14日の閣議。東条英機(とうじょう・ひでき)陸相の発言だ。

 「撤兵問題は心臓だ。米国の主張にそのまま服したら支那事変の成果を壊滅するものだ。満州国をも危うくする。さらに朝鮮統治も危うくなる。支那事変は数十万人の戦死者、これに数倍する遺家族、数十万の負傷者、数百万の軍隊と一億国民が戦場や内地で苦しんでいる」

 「駐兵は心臓である。(略)譲歩、譲歩、譲歩を加え、そのうえにこの基本をなす心臓まで譲る必要がありますか。これまで譲り、それが外交とは何か、降伏です」

 陸軍は、植民地統治への影響に加え、むざむざと兵を引き揚げるのは、明治以来の陸軍主導の大陸政策の否定であり、威信失墜につながると受け止めていた。

 加えて戦前の日本には「戦死者に申し訳ないから○○ができない」という論法が広くまかりとおっていたような気がする。例えば、日露戦争後に元老の山県有朋(やまがた・ありとも)は政府への意見書で関東州返還問題について「20億の資材と20余万の死傷をもって獲得した戦利品を返還できない」との趣旨を述べた。この「戦死者に申し訳ない」という呪縛が戦争を続けさせ、本土決戦寸前に至らせた一つの要因ではなかったのか。

 ところで政府・軍部内では、アメリカと戦争をする当事者は、広い太平洋で艦隊同士がぶつかりあう海軍と理解されていた。海軍が「戦争は絶対に出来ない」との姿勢を崩さなければ対米戦争はできないはずだった。だが、「仮想敵国はアメリカ」という理由で戦備のための予算を得てきた海軍にとって「負けるからできない」と認めるのは、自らの存在意義を否定することと同義だった。海軍にも問題があったのだ。

■事情にうといまま 新海相は開戦を決意

 近衛は東条の「駐兵は心臓」発言の2日後、辞職する。昭和天皇は後任に東条を選んだ。東条であれば陸軍を抑えることができるだろうと期待し、もう一度国策を白紙から見直せと指示したのだ。

 しかし、軍部トップの陸相、海相、参謀総長、軍令部総長の4人のうち、新内閣で代わったのは海相だけ。人が代わらなければ発想の転換は難しい。しかも、東条は海軍が推した避戦派の海相候補を拒否した。急きょ海相となった嶋田繁太郎(しまだ・しげたろう)は中央の事情にはうとい人物だった。

 嶋田は10月30日午後、避戦派の沢本頼雄(さわもと・よりお)海軍次官らを呼んで開戦を決意したことをこう告げる。

 「いまだに中央のこともよく分からないが、数日来の空気を総合して考えると、この大勢は容易に挽回(ばんかい)できない」

 沢本の日記によれば、沢本はこの後、再び嶋田と会って翻意を試みる。

 沢本 陸軍に(日米)交渉条件の緩和について再考を求めるべきです。

 嶋田 そんなことをしては陸軍20万の生霊に対して申し訳ない。支那事変の成果を没却するものだという考えはどうにもできない。

 沢本 それを変えるかどうかが問題なのです。(考えを)動かすべきではないというところに陸軍の頑迷があり、これを是正する必要があるのです。

 沢本の最後の粘りも、「申し訳ない」論法の前には通じなかった。

 海軍も開戦を決意したが、東郷茂徳(とうごう・しげのり)外相はなお即時開戦に抵抗した。ここからは最後の場面で東郷が講じた秘策を紹介したい。最終結論を出す11月1日の大本営政府連絡会議は翌日未明までの17時間の議論で、月末までに外交決着しなければ12月初めに開戦することを決めた。

 問題は、アメリカと交渉するうえでどこまで譲歩するかだった。すでに政府・軍部の調整で日本側最終案(「甲案」)は決まっていたが、東郷外相はこの場で、まったく新しい案(「乙案」)を示す。日本軍はフランス領インドシナ南部(南部仏印)に進駐し、アメリカの石油禁輸を招いたのだったが、そこから北部に撤収する代わりにアメリカは一定量の石油輸出を認めることを眼目にした内容だ。

 甲案ではまとまらないと考え、中国からの撤兵問題には触れないまま、開戦を避けるための東郷の「切り札」だった。

 最近、細谷千博(ほそや・ちひろ)・一橋大名誉教授と佐藤元英(さとう・もとえい)・中央大教授が日米交渉に関係する文書を見いだしたことで、乙案をめぐる新しい事実が分かった。文書は「日米交渉経緯(下巻)」と題され、開戦の翌年に加瀬俊一(かせ・としかず)アメリカ局1課長がまとめた。

■切り札の譲歩内容 外交電報から削除

 乙案については、こう書かれている。

 「特別の考慮に基づき、乙案から『南部仏印駐屯中の日本軍は北部に移駐する用意がある』を除いたものを、乙案として打電した」

 つまり、乙案の中で最も重要だと思われる譲歩内容については、ワシントンの日本大使館へ打った外交電報にはわざと入れなかったというのだ。その部分を含めたものは、最終交渉のために急きょ派遣した来栖三郎(くるす・さぶろう)大使に持たせたという新事実がこの文書で分かった。

 東郷は外交電報の暗号がアメリカ側に解読される危険性を考え、「切り札」の内容をはずしたのだろう。暗号解読でアメリカ側が事前に知れば「切り札」のインパクトは弱まる。ちなみに日本も米国の外交電報を傍受し、暗号を解読していた。

 アメリカ側は乙案が11月20日に提示された後、その対案をまとめた。日本が北部仏印の兵力を2万5000人以下にすれば日本への民需用石油は輸出するという、3カ月間だけ有効な暫定協定案だ。戦争準備になお時間をかけたかったからだ。

 ハル国務長官は25日には暫定協定案を日本側に提示する考えだったが、翌26日夕に示したのは、仏印や中国からの全面撤兵を求めるなどの強硬な基礎協定案(いわゆる「ハル・ノート」)だった。なぜ一夜でアメリカ側の考えが変わったのかはいまだによく分かっていない。

 もし、この暫定協定案が提示されていれば12月の開戦はなく、戦争自体も避けられた可能性があるという。日米開戦を半世紀以上も研究してきた細谷氏はこう語った。

 「3カ月先になれば日本が期待していたドイツの戦いぶりは変わり、アメリカの軍備は整う。日本にとって開戦決定は極めて難しくなったでしょう。私は戦争のもたらした惨禍、特に人的犠牲が出たことを考えると、戦争せずに臥薪嘗胆(がしんしょうたん)の選択もやむを得なかったと思います」

(佐藤和雄)

キーワード:アジア・太平洋戦争
 1941(昭和16)年12月8日から45年8月15日まで、日本とアメリカ、イギリス、中国など連合国との間で戦われた戦争。国際的にみれば第2次世界大戦の一環。日本にとっては1937年からの中国への侵略戦争の決着もからんだものだった。  戦争の始まりは日本時間の12月8日(ハワイでは7日朝)、ハワイの真珠湾基地への攻撃と思われているが、1時間ほど早くイギリス領マレー半島のコタバルへの上陸から始まった。このように戦争の目的は「自給自足体制」を確立するため、イギリスやオランダの植民地を武力制圧し、石油など様々な資源を確保することだった。イギリス領などを攻撃すればアメリカとの戦争は避けられないと考え、太平洋側の拠点を攻撃した。  戦争は45年8月、広島、長崎への原爆投下とソ連の参戦で、日本が連合国側のポツダム宣言と呼ばれた降伏勧告を受け入れることによって終結。日本歴史史上で最大の惨禍をもたらしたほか、アジア・太平洋で犠牲が広がった。軍人や一般国民を含む日本の死者は約310万人とされているが、外地での生死不明者や原爆を含む空爆での死者がはっきりしていないことから、さらに上回るとみられる。
キーワード:戦争の名前
  戦争が始まった2日後、政府は大本営政府連絡会議で今回の戦争の呼称を「大東亜(だいとうあ)戦争」と決定した。これまでの「支那事変」と呼ぶ日中戦争も含むとした。  この名称は、占領後に連合国軍総司令部(GHQ)の指令で公文書での使用を禁止され、米側が使っていた「太平洋戦争」という呼称が次第に定着した。今回の「歴史は生きている」シリーズでは、日中戦争との重なりなど戦争の性格を分かりやすく伝えるために「アジア・太平洋戦争」とした。

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