ベール論争2006年10月30日 編集委員・川上泰徳 英国のストロー前外相がイスラム教徒の女性のベール着用を批判し、議論になっている。ベールには髪を覆って顔を出す「ヒジャーブ」と、頭をすべて覆って目だけをだす「ニカーブ」がある。ストロー氏はニカーブの着用について、「顔が見えない相手と話をするのは心地よくない」「顔を覆うベールは意思疎通を難しくする」などと発言した。
ニカーブの女性は、ペルシャ湾岸のアラブ諸国ではよく見るが、私が駐在していたエジプトではまれだった。ところが、この10年近くの間に、カイロでもニカーブの女性を見かけることが珍しくなくなった。2年ほどまえだが、私はカイロの中心部の繁華街のファーストフード店でコーヒーを飲んでいる時に、後ろから小さな男の子を連れたニカーブの女性にいきなり話しかけられたことがある。それも日本語で、「日本人ですか」と聞かれた。 ニカーブの女性と話をしたのはそれが初めてだった。それも向こうから声をかけられたのだから驚いた。「日本人です」と答えると、その女性はかなり流暢な日本語で、「観光客ですか、ここで働いているのですか」と聞き、「働いています」と答えた。彼女は「日本人と話すのは久しぶりです」という。カイロ大学日本語学科の卒業生で、日本人のツアー客を相手にする観光ガイドをしていたが、ニカーブをするようになってから、ガイドの仕事はやめた、という。 5分程度、女性は立ったままで話した。女性は久しぶりに日本語で話すのがうれしい様子で、声がはしゃいでいたが、私の方は不思議な違和感にとらわれていた。彼女は次々と、私の仕事は何かとか、アラビア語を話せるか、などと質問をしてきた。声や話しぶりから判断する限り、彼女の様子は普通だったが、目しか見えない女性との間に、こちらから質問することがためらわれるような距離感を感じたのも事実だ。 ニカーブの話題が出ると、いつもあの場面を思い出す。こういう体験を書くのは、ニカーブについての違和感を正当化しようという意図ではない。ニカーブの女性に対して違和感を抱いたのは、私がニカーブをしている女性に話しかけたり、話しかけられたりする相手だと全く考えておらず、つまりコミュニケーションの領域の外にあると、勝手に思いこんでしまっていたからだろう。ところが、ニカーブの女性の方から、それも親しく話しかけてきたのだから、もっとうち解けて対応すればよかったのだ。自分が抱いている違和感が壁になって、十分なコミュニケーションをとることができなかったという悔いが残った。問題は相手の側にあるのではなく、明らかに自分の側にあった。 それを一般化すれば、非イスラム教徒やイスラム教徒であってもニカーブに慣れていない人々は、ニカーブの女性について、他人との意思疎通に背を向けるような存在だという先入観を抱きがちだ。実際に相手と対面した時に、自分が感じる相手に対する違和感や相手との距離感によって、その先入観が強められてしまう。ストロー氏は、自分の違和感を正当化して、「顔が見えない相手では意思疎通は難しい」と、特定の服装を排除しようとする拒否の論理を展開しているのだ。それでは差別主義と言われてもしかたないだろう。 ストロー氏は「顔が見えなければ意思疎通が困難」という言い方は一見もっともなように思えるかもしれないが、それは電話でのコミュニケーションは成り立たないと言っているようなものだ。もちろん、初めての相手でも、顔は知らなくても、声だけでも、電話でさえ意思疎通は可能だ。仕事の関係であれば、やりとりは電話だけで長い間、顔は知らないという関係は珍しくないし、「いのちの電話」のような深い意思疎通を伴う関係もなりたつ。ニカーブの場合には、相手の声の調子も、息づかいも、さらに目の表情は伝わってくる。ニカーブにとらわれて意思疎通が困難だと思うのは、ストロー氏は自分で拒否の壁をつくっていることを自覚していないためだ。 イスラム女性のベールについて、欧米の非イスラム教徒が違和感を抱くのはやむ得ないことだが、その違和感を超えて意思疎通をし、相互理解の道を探るしかない。欧米ではイスラム体制のイランが、外国人に対してまでベールや身体の線を見せない服装を強いる偏狭さを批判する声は強いが、自由を標榜している欧米で、ニカーブはだめとか、フランスで起こったように「ヒジャーブで学校に来てはいけない」と言うならば、イランの服装強制の論理とどこが違うのだろう、と首をかしげたくなる。 その後、私はニカーブを着用している女性が、カイロのジャーナリスト組合が主催した民主化要求集会の壇上にあがって、政府の人権侵害を告発するのを見た。シナイ半島の中心都市アリーシュからきた女性で、イラク戦争後にシナイ半島の保養地で起こった爆弾テロに絡んで、政府が厳格なイスラム教徒に対して逮捕状も具体的な容疑もなく大量逮捕を行っているという告発だった。そのニカーブの女性と連絡をとり、アリーシュに取材に出かけた。カイロの集会で報告したニカーブの女性やその姉妹の話を聞くことができた。その後で、政党の事務所に行くと、ニカーブの女性たちであふれていた。支援活動をしている地元の人権団体や野党系組織が、逮捕された人々の妻や母親に呼びかけてくれた。 女性たちは日本人の新聞記者に自分たちの夫や息子、父親に対して警察の無法をぶりと、自分たちの窮状を訴えようと集まっている。私の方は、記者として何が起こったかを具体的に知りたい。そのような場では、当然のことながら、女性たちがニカーブをしているから意思疎通に困難を感じるようなことは全くなかった。 日本も含めて非イスラム世界の政府や人々が、ニカーブの着用を排除するように動けば、それは異文化であるイスラムの教えを拒否することになる。しかし、エジプトのアリーシュの例に限らす、国際的にも2001年の米同時多発テロ以来、イスラム過激派に対する国際的な懸念が高まるなかで、ニカーブ着用に象徴されるようなイスラム厳格派を、治安問題の対象とする傾向が強まっている。しかし、イスラム的に厳格であるということと、イスラム過激派を混同してはならない。 エジプトでは英国でのニカーブ論争に触発される形で、「ニカーブ着用は宗教的な義務か」という議論が盛り上がっている。女性のベール着用についてはイスラム教徒が神の言葉と信じるコーランで、「女子の信者にはこう言え、『目を伏せて隠し所を守り、露出している部分のほかは、わが身の飾りとなるところをあらわしてはならない』」と記されている部分が根拠になっている。イスラムのベールは、夫や家族ではない男性からのみだらな視線を避けるためのものである。 ただし、何が「わが身の飾りとなるところ」なのかは、具体的に示されているわけではなく、宗教解釈の問題となる。イスラム穏健派のアラビア語インターネットサイトの「イスラム・オン・ライン」によると、イスラム教徒の多数派であるスンニ派の宗教権威であるエジプトのアズハル機関(モスク・大学)では、「髪を覆って、顔を出すヒジャーブは宗教的な義務であるが、ニカーブは義務とは言えない」という解釈が、宗教者たちの見解の大勢を占めるようだ。ただし、義務ではないと言っても、「女性は回りからじろじろ見られることを避けるために顔を覆うことも認められる」という意見もある。ニカーブ着用は義務とは言えないが、個人の自由という解釈が主流と考えられる。 私がかつてベール問題について話を聞いたエジプト人の社会学者は、「ベールのように身を覆うのは、本人が自覚しているかどうかは別として、自分を守ろうとする意識からくる」と語った。90年代初めにはニカーブの女性がまれだったカイロで、少数派ながらニカーブの女性が増えていることは、欧米文化や風俗が流入する傾向に不安を覚えて、イスラム的な防衛を強める女性が増えていると見ることができよう。 非イスラム教徒の欧米人や日本人には、ヒジャーブやニカーブについて「イスラムの女性への強制」という女性抑圧の現れと見る傾向があるが、当のベールを着用している女性たちに話を聞いてみると、「神の教えに従っている」と前向きに考えているのが普通だ。イスラムのベールについては非イスラム教徒が、外部からの思いこみで解釈したり、排除しようとしたりすれば、誤解や摩擦を生むことになるだろう。 プロフィール
PR情報 |