2009年6月8日1時25分
幼いころの写真を手に「母と姉はきっと生きている」と語るセニーダ・ベシロビッチさん(右)。現在は母方のおじ(左)の家に身を寄せている=サラエボ、玉川写す
ボスニア紛争で犠牲になった村人の名前を刻んだ石碑。5月、セニーダさんの名前の上に無地の板が張られた=ボスニア北東部ツァパルデ村、玉川写す

再会した父と娘は昨年、故郷の家の敷地に新しい家を建てて住んだ。しかし、記憶のつながりもなく、別の新しい家族を持つ父との生活は3週間しか続かなかった。
そんな折、新聞記事を読んだ母方の叔母が名乗り出た。彼女はいま、サラエボでその叔母夫婦と暮らしながら、ジャーナリストを目指す。「苦しくても、過去を知らずに前には進めない」。紛争で何が起きたのか調べるつもりだ。
ただ、セルビア人を憎む気持ちにはなれない。愛情を注いでくれた養父母には感謝している。間もなく18歳の誕生日がくる。一度は捨てた、養父母がつけてくれた「ミラ」という名に戻すことを考えているという。ミラは「平和の子」という意味だ。
地元報道などによると、ボスニア紛争では92〜95年の間に約1万人の子供が殺害されたとされる。親を亡くした紛争孤児は推定で約3千人だ。(ツァパルデ〈ボスニア・ヘルツェゴビナ北東部〉=玉川透)
■ボスニア紛争 旧ユーゴスラビアからボスニア・ヘルツェゴビナが92年に独立したのをきっかけに、分離を目指すセルビア人と、クロアチア人、モスレム人(イスラム教徒)との内戦に突入。20万人以上が犠牲になったとされる。95年7月にはスレブレニツァでモスレム人7千人以上が殺害され、第2次大戦後の欧州で最悪の虐殺となった。
95年のデイトン和平合意で「ボスニア連邦」(モスレム人とクロアチア人主体)と「セルビア人共和国」が併存する体制になり、戦いが終わった。隣国セルビアとも国交は正常化したが、民族間の関係はまだ和解の途上だ。