|
野口拓朗 (元上海支局特派員)
延安(イェンアン)。陝西省の奥地にあるこの地名を聞くと、格別な思いが去来する。中国共産党の革命の聖地だった。個人的には将来の職業(記者)への憧憬を萌芽させた場所だったからだ。
一度訪ねてみたい。そう思いながら、果たせずにいた。その宿願が叶ったのは3年前。北京から乗った飛行機は約50人乗りのプロペラ機。延安のいまを象徴するかのようだった。会社の先輩から「片方のプロペラがとまった」と搭乗体験を聞いていた。本当かなと眉に唾しつつも、やはり不安ではあった。滑走路に車輪が無事着地すると、期せずして機内から歓声があがった。みな、同じ心境だったようだ。
毛沢東主席(1893−1976)率いる共産党は敵対する蒋介石総統(1887−1975)の国民党軍による執拗な攻撃を受け、1934年、江西省瑞金の根拠地を放棄、いわゆる「長征」に出る。天然の要塞、延安に入ったのは37年。途中の戦闘や難所の行軍などで兵力は出発時の9万人(30万人説もある)から3万人に減っていた。ここで10年間、共産党は戦力や人材を蓄え、日本敗戦後の国民党との内戦に勝利、49年に中華人民共和国を樹立する。延安は革命成功への基盤を培ったのである。
毛主席らの当時の住居が保存されていた。この地方特有の、山の斜面をくりぬいてつくった「窰洞」(ヤオトン)だ。半世紀以上前にタイムスリップしたかのような感慨を覚えた。毛主席と米人ジャーナリスト、エドガー・スノー氏(1905−1972)が会談した時のテーブルがあった。スノー氏はインタビューをもとに「中国の赤い星」を発表、共産党や毛主席の存在を世界に知らしめた。
スノー氏が書き残した毛主席との会談録は実に面白い。スノー氏は毛個人に関する質問リストを用意した。その中に「貴方は何回結婚したか」とあるのを見て毛主席は笑った。(この時点で3度目)。スノー氏の執拗さに根負け、毛主席は生まれてから延安までのことを語っている。
こんなエピソードがある。《10歳の時、私塾の先生が厳しくて殴るので、嫌になって逃げだした。父に叱られるので、家に帰るわけにもいかず、3日間山をさまよった》《母は心のやさしい人で、飢饉の時、ものもらいが来ると米をわけてやった》《新設の高校に、音楽と英語担当の日本人教師がいた。偽の弁髪をつけているので、みな笑い者にしていたが、先生が日本の様子を話してくれるのが私は好きだった。日露戦争で勝った日本の戦勝歌を教えてくれた。歌詞を覚えている。日本の美しさや誇り、強さを感じた。今日我々が知っている野蛮な日本という点は、思いもしなかった》(詳細は『The Long Revolution(漫長的革命)』、94年、新疆大学出版社)
スノー氏は毛主席と5度会見している。最も親しかった外人記者であろう。米国と中国は72年2月、ニクソン米大統領の訪中で和解したが、その約1年前の70年12月の会談録も興味深い。話が米国の政治に及び、毛主席は「私は民主党は好きじゃない。共和党のほうが好きだ。(共和党の)ニクソン政権を歓迎している。彼は嘘が少ない。もし、彼が北京に来たいのなら、こっそり来るようあなたから伝えてほしい。飛行機に乗ればすむ話だ。会って話がまとまらなくてもいい。しかし、あなたのアメリカには秘密というものがない。大統領の出国を秘密にしておくのは不可能だ」と語っている。ソ連の脅威に備え、米国との関係打開を望む心情がうかがえる。
革命にからむ史跡を訪ねていると、高校時代に読んだ本の記憶が蘇った。ある欧米人が書いた延安取材をもとにした毛沢東の伝記だった。スノー氏をはじめ、当時、延安には海とも山ともつかない謎に包まれた共産党をつぶさに見るために欧米のジャーナリストが入った。日本と中国は敵国同士だったからか、日本人記者の記録を知らない。命がけで延安に入り、秀作をものした欧米人の記者魂に感銘を受けたのを覚えている。
生き証人も健在だった。古希になる鄭翁は子供のころ、母とともに毛主席に洗濯物を週1回届けたという。ある時、主席に頭をなでられ、「大きくなったら何になる」と尋ねられた。「働く」と答えると、粟でつくったマントーをくれた。「うれしかったね。とてもうまかった」と昨日のことのように喜々として語るのだった。
延安は山に囲まれている。不便である。水くみに丘陵を上り下りする人を見かけた。トイレも芳しくなかった。半世紀前よりは改善されているのだろうが、生活基盤の整備が立ち遅れている。延安が革命に果たした貢献度と比べれば、アンバランスの感が拭えなかった。
(03/02/27)
|