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【ワールドウオッチ】
 
ロシア新語・言い回し辞典

エリツィン前ロシア大統領
1995年12月、病気療養先で、ロシア下院選挙に投票するエリツィン前ロシア大統領
プーチン・ロシア大統領と小泉首相
モスクワのクレムリンで、共同声明に署名、握手をするプーチン・ロシア大統領(右)と小泉首相

大野 正美(論説委員)

 プーチン大統領のもとでそれなりに安定したからか、最近はあまり感じられなくなったが、ひところロシアでは夏、とりわけ8月になるといつも「何かが起きる」という雰囲気があったものだ。

 実際、1991年には保守派によるクーデター未遂という大事件があり、ソ連の崩壊へとつながった。

 近年を見ても、98年は金融危機とキリエンコ首相の解任、99年はステパシン首相を3カ月で解任、プーチン氏の後任への任命と、エリツィン大統領のもとで政治の激震が続いた。そして、プーチン時代が始まった直後の2000年にも原子力潜水艦のクルスクが沈没した。

 こうした事件の日々、たまたまモスクワに勤務していた。大陸性気候のロシアの夏は6月から7月にかけてが結構暑く、車の渋滞でスモッグまみれのモスクワは太陽で蒸し焼きにされるような気分によくなったものだ。

 この熱気が大地にエネルギーとなってたまり、人をよからぬ動きへとかき立てるのだろうか。そんな空気に合わせるようにメディアは陰謀説を流し、けっこう的中したりもする。

 そして政治、経済、社会のさまざまな場面で事件が起きると、新しい言葉が生まれ、時代を読み解くかぎとなり、次の事態を占うのに使う羅針盤として残っていく。

 その夏の季節を迎えて、ロシアのジャーナリストも同じような思いを抱いたらしい。「コメルサント・ブラースチ」という週刊誌が最近、そうした言葉を集めて「20世紀末のロシア社会言語辞典」という特集をやった。

 これを利用しながら、ペレストロイカ末期以来の十数年のロシアを、さまざまな出来事とともにできた言葉からふり返ってみたい。

《プーチン時代》

 まずは政治、それもみじかな現大統領にまつわる言葉から始めることにしよう。

 ■便所につけておく■

 99年9月24日、首相に就任して1カ月のプーチン氏がモスクワでのアパート爆破事件を受けて開いた記者会見で、犯人と目されるテロリストをどうする、という質問に答えて言った。

 「テロリストはトイレに追いつめる」という言葉に続けたものだ。この荒っぽい発言で断固とした指導者というイメージを手に入れたプーチン氏は、チェチェン共和国のイスラム過激派制圧を目指して強硬な軍事行動を推し進めてさらに人気を高め、翌年の大統領選の圧勝に結びつける。

 ■権力から等距離に■

 2000年2月28日、大統領選のさなかにプーチン氏が選挙事務所で支持者に言った。「誰かが権力にすり寄って、自分の目的に利用するようなことがあってはならない」という立場を示す。

 エリツィン前大統領の取り巻きとなった新興財閥が政治に大きな影響力を持ち、国民のひんしゅくを買ったことを意識している。だが、野党への資金援助を表明した石油会社社長ホドルコフスキー氏の新興財閥がさまざまな容疑で最高検察庁の捜査を受けているように、権力との距離の取り方はプーチン時代の今も相変わらず難題ではある。

 ■あれは沈んだ■

 2000年9月9日、CNNの人気インタビュー番組ラリー・キング・ショーに出演したプーチン大統領が、クルスクの沈没事故について「ずばり、ロシアの潜水艦に何が起きた」ときかれて答えた。

 大統領は国連ミレニアム総会出席のためニューヨーク滞在中で、たまたま私も同行取材をしていた。「沈んだ」という言葉は深刻な事故への質問をユーモアで受け流したもので、CNNを見ていた私も思わず笑ってしまった。

 西側の記者には当意即妙のセンスを感じさせておおむね好評だったが、「沈んだ」と言った時ににやりと笑った大統領の表情がロシアでは大変に評判が悪く、政治的な過ちとすら受け取られたという。

 ロシアの政治家の言葉遣いにまつわるむずかしさを感じさせた。

《ソ連末期・エリツィンの台頭》

 次いでペレストロイカによる言論の自由化を受け、新しい政治の言葉が次々に市民権を得ていった時代へとさかのぼってみたい。

 この時期、政治の言葉は多くがロシアの初代大統領となったエリツィン氏と関係しており、91年末のソ連崩壊前にすでに実権の多くがロシア側に移りつつあったことを実感させる。

 ■ボリス、君は正しくない■

 ペレストロイカの末期、ロシア国民が特に好んで口にしていた。

 88年7月1日、第19回共産党協議会で改革の促進を訴え、保守派を批判したエリツィン氏の演説に、保守派の大物リガチョフ政治局員が幹部会席からマイクで割って入って反論した。エリツィン氏の名をあげ、「君のエネルギーは莫大(ばくだい)だが、破壊的だ」と決めつけた。しかしそれを無視して演説を続けたエリツィン氏の人気は一気に上がった。

 ゴルバチョフ指導部から追放され、閑職の建設閣僚ポストにいた「ボリス」は翌年の人民代議員選挙で大勝し、政治的復権を果たす。

 ■のみ込める限りの主権をとりなさい■

 90年8月8日、ロシア最高会議議長だったエリツィン氏が、ロシア内の共和国のひとつタタールスタンの首都カザニの演説で発言した。

 当時、ソ連の最高会議は、対立するエリツィン氏率いるロシア政府の頭越しにロシアの中の共和国との間で権限を区分けする法律を採択した。ソ連政府とロシアの共和国がこれをきっかけに関係を密接化すれば、ロシア政府は両者の間で宙に浮いたような存在になってしまう。

 エリツィン氏の発言はその危機感からのもので、税収や資源の管轄、経済の運営などで共和国など地方の側に大幅な権限を認め、指導者の支持を取りつけることが狙いだった。結果は思惑通りで、地方指導者の支持巻き返しに成功したロシア政府はソ連との権限争いを有利に進めていく。

 ■主権のパレード■

 しかし、地方にあまりにも多くの権限を認めたことはロシア政府の立場を著しく弱め、エリツィン期の政治の混乱の主な原因のひとつとなる。

 またロシアは90年5月にエリツィン氏を最高会議議長に選んだ直後に主権宣言をしたが、その後、8月から10月のうちにロシアのほかに14あるソ連の構成共和国のうち10までが主権宣言をし、独立の方向を踏み出すに至る。

 発言はこうした情勢を受けて90年12月10日にロシア人民代議員大会でゼリン代議員が語ったもので、傾向の行き着く先として「経済関係の分断、分離主義の強化、中央権力と地方権力の相克」をあげた。ソ連崩壊による経済の分断と混乱、チェチェンやタジキスタンの民族紛争などで、後に懸念は現実化した。

《制度づくりの苦闘》

 一方で、一党独裁制を西側の民主主義の仕組みに置き換える試みも、試行錯誤を繰り返しながら進んでいった。その航跡は言葉からも見える。

 ■不信任決議■

 89年5月6日発行のグラスノスチ(情報公開)の旗手的な存在だった週刊誌「アガニョーク」に初めて登場した。共産党の一党支配がゆらぎ始めるなかでボゴリュブスカヤという法学博士候補の投稿の形で「どこの文明国家でも政府はしばしば厳しい批判の対象であり、不信任決議は引き離しがたい民主主義の属性である」と主張した。

 翌90年9月、ソ連最高会議幹部会に対し、改革派指導者のサプチャーク議員がエリツィン氏らの属する地域間代議員グループの名で連邦政府不信任を議題とするよう提案して現実の政治の世界の言葉となる。

 ■弾劾(インピーチメント)■

 89年12月23日発売の同じくアガニョーク誌に載った反体制SF作家ストルガツキー兄弟のインタビューに初めて登場した。「働くものは多くを得、働かないないものは何も得ない。この基本原則を20年代の終わりに破られてしまった。生産的な勢力にはすぐブレーキがかかる。ここでは何でも起こすことができる。軍事クーデターはソ連風の弾劾なのである」という文脈で使った。

 弾劾の仕組みは、ロシアに大統領制を導入するため91年5月に憲法を修正した時に、人民代議員大会が大統領の解任権を持つという形で制度化された。砲撃事件へと至る93年秋のエリツィン大統領と議会の対立で停止措置を受けた最高会議は、これを理由に大統領罷免を決議した。だが、代議員大会が正式に解任の手続きを取ることがなかったため、無効と見なされている。

 弾劾の言葉が現れてから10年後の99年5月、ロシア下院はエリツィン大統領の弾劾を正式に審議したが、チェチェン戦争の開始など5つの罪状はいずれも否決された。その後、弾劾審議の例はない。

 ■全国民に選ばれし者■

 90年3月12日、ロシア初代大統領を目指すエリツィン氏を支持して故郷のスベルドロフスク(現エカテリンブルク)で開かれた10万人集会は、ロシア史上初めて市民と地方権力が対立ではなく、共催する形を取った。

 そこでのスローガンに「エリツィンにダー(イエス)、ゴルバチョフにニェット(ノー)。全国民に選ばれしロシア大統領は独裁への対抗軸」とある。この言葉はしばらくの間、大統領の同義語となった。

 ■就任式(イナウグラーツィヤ)■

 英語のinaugurationからきた。90年7月6日、タタールスタン共和国の最高会議が選出したシャイミエフ大統領がタタール語とロシア語で宣誓し、ロシア史上初めて「就任式」の言葉を使った。

 鼻をあかされたのは、4日後にクレムリンで「就任式」をした、ロシア大統領選で「全国民に選ばれた」エリツィン氏だった。腹いせなのか、「就任式」はイスラム教徒の多いタタールスタンと対照的に、ビザンチン風かつロシア皇帝風の荘厳な雰囲気で執りおこなわれた。その結果、ロシアの辞典ではマイナス評価だった「就任式」はプラス評価の言葉に変わった、とか。

《歴史は繰り返す?》

 さて、言葉はふたたびプーチン大統領にかかわりのあるものへと戻る。

 ■法の独裁■

 91年6月1日、沿ボルガ・ウラル軍管区司令官であり、エリツィン氏の対抗馬の一人としてロシア大統領選にも出馬していたマカショフ将軍が、地元紙「ボルガ報知」のインタビューで次のように語った。

 「私は保守主義者だ。愛国主義、国際主義、レーニン主義の旗を変えようとは思わない。さらに私は法の独裁、憲法の独裁に賛成だ。残念なことに今日、法も憲法も実行されてはいないためだ」

 大統領選に得票率4%弱で落選した将軍は、8月のクーデター未遂事件でクーデター派を支持したとして司令官を解任される。さらに93年秋の最高会議砲撃事件では最高会議ビルの防衛責任者の一人となり、モスクワ市庁舎やテレビ放送センター襲撃の陣頭指揮を取ったあげくに逮捕される。その後も、釈放されて下院議員などを務めたりしたロシアの代表的な保守強硬派である。91年時点での「法の独裁」宣言は事実上、軍事力に訴えてでもソ連を守るという勢力のマニフェストとなった。

 その「法の独裁」という言葉を2000年1月31日、大統領選を目前にしたプーチン氏が使ったことから話がややこしくなった。

 くわしくは「法の独裁、それは我々が従うべき唯一の独裁の変種である」と言った。しかし、それはエリツィン前大統領のもとで汚職や不正が蔓延(まんえん)した社会を立て直す前提として素直に「法治社会の重要さ」に言及したのか、それともマカショフ将軍流に力によって法秩序の立て直しに動くつもりなのか、旧ソ連国家保安委員会(KGB)の将校出身という経歴もあって見方は分かれた。

 ある意味でその議論は今も、新興財閥への対応などをめぐって続いているともいえる。

 ともあれロシアも夏を迎えている。プーチン氏の大統領一期目4年の任期では最後の夏ともなる。

 それで「何かが起きるのか」、新しい言葉が生まれるのか。

 とりあえず、夏の終わりにふり返ることとしよう。 (03/07/31 18:01)









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