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【ワールドウオッチ】
 
金容淳書記のこと

歓迎会で朝鮮労働党の金容淳書記(中央)と会食する村山富市団長(左)と野中広務氏=1999年12月1日、平壌市の玉流館で

小菅 幸一(論説委員)

 朝鮮労働党の金容淳(キム・ヨンスン)書記が69歳で死亡したという朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の報道を聞いて、すぐに92年3月31日の光景が思い浮かんだ。

 平壌郊外の、現地では「招待所」と言っている瀟洒な迎賓館である。取材団の一員として、筆者は当時の金日成(キム・イルソン)主席との会見の末席にいた。

 「わが国は今や『水の持ち主』になった。大同江の上流部を合わせると80億トンの貯水量となる。農業用水として十分だ」

 話は水不足対策の取り組みに及び、主席は野太くしゃがれた声で冗舌にしゃべり続けた。

 「このほかにも、全国に大小合わせて、貯水池を、えー……」と、主席が少し言いよどんだ瞬間、

「1700でありますっ」という、素っ頓狂に大きな声が響き渡った。

 驚いて、メモの手を止めて声の方に目を向けると、主席の横の椅子に腰掛けていた金容淳書記が直立不動の姿勢をとっているではないか。すかさず数字を代弁したのだ。

 キムチの話が出てきた時も、書記は「家で漬けたキムチは春には酸っぱくなりましたが、今は工場で科学的に作るので、酸っぱくなりません」と、これも突っ立ってしゃべった。

主席は、そんな光景は当たり前、といった風である。「金王朝」の一端を見た思いがした。

 その頃の金容淳氏は、というと、84年に党書記になり、程なく解任されたと推測されるが、90年5月に国際担当の党書記に選出された。その年の9月、日朝関係の大きな転機となった金丸・田辺両氏による自民・社会両党訪朝団との会談を労働党側代表としてこなし、国交正常化交渉開始を両国政府に勧告するとともに、日本の植民地支配についてだけでなく「戦後の償い」をも盛った3党共同宣言に署名した。

 翌91年に党代表団を率いて来日、さらに92年1月には訪米してカンター米国務次官とニューヨークで会い、初の米朝高官会談をしきる。この年12月には対南担当書記となり、統一戦線部門が主体になるにつれてますます、金正日総書記(当時書記)の側近として振る舞っていく。

そんな当時の、いわば昇竜の勢いにあった金容淳書記だから、主席会見時のあの直立不動が意外に思えたのだ。極めて精悍な顔つきだった。小柄な人の多い北朝鮮にあって、身長はたぶん180センチを超える大柄で、「イノシシ」とのあだ名もあったらしい。

 こわもてぶりが日本の反感をかったこともある。

 95年当時の村山政権が北朝鮮へのコメ50万トン支援を決めた後、書記は韓国誌との会見で「日本が謝罪の意味でコメを送るというのに、受け入れないことはない」と語ったと報じられ、日本の世論は急に冷めた。99年の超党派による「村山訪朝団」に対して、その反省からか、書記は「過去の日本の食糧支援には感謝している」と表明した一方で、「拉致という言葉を使うこと自体が敵対的だ」と言い、同行の日本記者団には「わが国が日本との国交正常化を望んでいると書いた社はいるか? 望んでいるのは日本の方じゃないか」と声を荒げたという。

 その書記は、筆者がソウル勤務をしていた2000年9月、今度は金正日総書記の特使として韓国にやって来た。随行の人民軍高官が運び役となり、総書記が贈ると約束した天然物の最高級マツタケ3トンも一緒だった。同年6月の史上初の南北朝鮮首脳会談で金容淳氏は始終、総書記に付き添っていた。この会談を機に、表面的には交流は進み、当時クリントン政権の米朝関係もうまく運びつつあった。

 青瓦台に金大中大統領を訪ねた書記には、落ち着きが感じられた。6月の首脳同士の共同宣言で「適切な時期に」と表現された総書記のソウル訪問について、書記がその時、韓国側と交わした共同報道文では「近い時期に」とうたって一歩踏み込んだ。しかし、具体的な言質は与えない。

 一時の飛ぶ鳥を落とす勢いよりも、書記のしたたかさ、老獪さ、といったものを筆者はソウルで感じた。

 金容淳書記を最後に直接見たのは、昨年8月下旬のロシア極東ウラジオストクである。

 この地方を訪れた金正日総書記を追って、筆者はソウルから出張した。書記もやはり同行していた。

帝政期の面影をも残す駅舎のホームで総書記は専用のリムジンに乗り換えて駅頭にすべり出た。そのまま大通りを進む。書記ら随行員は駅頭まで歩いて出て、バスに乗って街に消えた。現代的なショッピングモールでは、書記らはショールやマトリョーシカなどを見て回る総書記の後をただ黙って付き従う。

 「あれーっ、年とったなあ……」。書記の10年前の姿と重ね合わせ、少し驚いた。顔つきに精彩さを欠き、足取りに力ない。疲れているようだった。

 北朝鮮の発表によると、金容淳書記は今年6月16日に交通事故に遭って入院治療を続け、10月26日に死亡した。

 平壌北西の平安南道平原で34年に生まれ、金日成総合大学を出てモスクワ大に留学した。90年から対外的に目立つ存在になり、現代財閥など韓国との事業窓口であり、外貨資金も扱うアジア太平洋平和委員会の委員長なども務めた。北朝鮮指導部に入る人間の多くがそうであるように、失脚説や重病説などの対象に何回もなったりした。

 書記は、昨年9月の日朝首脳会談で日本人拉致の事実を認めて謝罪したほうがよい、と事前に進言したひとりだろう、という話が日本国内の関係筋などに出ている。北朝鮮からすればその後の予想以上に強硬な日本の反応、日朝関係の閉塞状況と、今回の死亡をからめて見ようとする向きもないではない。

 書記は6月13日に総書記に同行して黄海北道のヤギ種畜場を訪れ、これ以降、死亡まで書記の動静報道は途絶えていた。ラヂオプレス(RP)によると、視察翌々日の15日は同じ種畜場を各地方指導者らが訪れており、書記はそれにも参加したと思われる。17日には黄海南道の牧場視察予定があり、事故当日の16日はまさに移動日と見るのが自然だ。交通事故の話は韓国政府を含めて複数ルートから出てもいた。

 「とすれば、この事故が要因になっての死亡はたぶん本当だろう」と、ある北朝鮮ウォッチャーは言う。

 その裏付けにもなるだろうか、北朝鮮の国会に当たる最高人民会議の常任委員会(金永南委員長)は10月27日、金容淳書記に英雄称号を与える政令を出した。「金容淳同志は朝鮮労働党中央委員会の重要な職責に長く従事し、党の対外的権威を高め、祖国統一の偉業に貢献した」としている。

 このところ、書記が日本との関係を仕切っている形跡は見えず、北朝鮮の核問題を左右する6者協議などでは外務省が前面に立ち、韓国との会談でも内閣責任参事がこなしてくるなど、書記が表に出ることはなく、時代はすでに流れつつあった。彼の死は、ひとつの時代の終わりをさらに実感させる。 (03/10/30 17:59)









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