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ニッポン人脈記

港町の石畳から世界へ

2005年12月12日

 11月最後の日曜日、英国・リバプールの朝は格別寒かった。れんが色の倉庫街が、この冬最初の雪で白くかすんでいる。

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ザ・キャバーンのステージ。60年代のバンド名が並ぶ=リバプールで

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曲の舞台ペニー・レインを説明する阿部卓二さん=吉村輝幸氏撮影

 大英帝国の絶頂期を支えた海運都市。18世紀に奴隷貿易の中継港として栄え、19世紀には欧州各地から新大陸を目指す移民でにぎわった。20世紀最大の「輸出品」が、この街で生まれ育った4人組、ザ・ビートルズだ。

 昼前、ビートルズ観光の聖地、マシュー・ストリートを訪れた。300メートルほどに、ゆかりのパブやライブハウスが並ぶ。雪はとうにやんで、Tシャツ姿の人もいる。

 「一日で何度も天気が変わる。予報なんて誰もあてにしません」

 37年前からリバプールに住む阿部卓二(あべ・たくじ)(57)が説明してくれた。街に10人いる公式ビートルズガイドの一人で、唯一の日本人。案内した客のひとり、司馬遼太郎(しば・りょうたろう)には、著作の中で「リヴァプール人」と呼ばれている。

 聖地の中で一番人気のザ・キャバーンから案内してもらった。「ビートルズが292回演奏した伝説のクラブを忠実に再現したものです」。ガイドに戻ると阿部の日本語がひときわ滑らかになった。世間話なら、もはや英語の方が達者なのかもしれない。

 川崎で生まれ、羽田空港へ行っては飛行機を眺める子どもだった。19歳で欧州旅行へ。リバプールに立ち寄り、気さくで冗談好きな人たちにひかれて居着いた。街の病院でセラピストの職も得た。

 70年代後半から世界のビートルズファンが押し寄せ始め、83年、州は専門ガイドを募った。接客もビートルズも好きだったので志願し、1000人以上を案内してきた。

 次の名所へ阿部の車で向かう。ナンバープレートに「ABE」の3文字。業者から買ったと言う。

 車はビートルズ4人の地縁をたどって市内を巡る。ジョン・レノンが生まれた産院と同じブロックに、幼いリンゴ・スター(65)が入院していた病院がある。そこから歩いて10分弱で、ポール・マッカートニー(63)とジョージ・ハリソンが通った中高一貫校の校舎。

 2時間半で回った名所は30を数えた。同郷4人組の縁は思っていた以上に濃密だ。石畳の道路のそこかしこで4人がすれ違うのを見たような気になった。

 1962年。

 ザ・ビートルズは「ラブ・ミー・ドゥ」でデビューし、港町の石畳から世界にはばたいた。70年に解散したあとも、ビートルズやメンバーの曲が世界のどこかで流れなかった日は一日もないだろう。

 先月。とうとう彼らの曲は地球を飛び出した。ポールが歌う「グッド・デイ・サンシャイン」が生中継で国際宇宙ステーションに届いたのだ。

 8月5日には、被爆60年前夜の広島の爆心地で、ジョンの「イマジン」が夜通し流された。

 01年11月。ジョージの死を悼んだ英バッキンガム宮殿は、衛兵交代式の行進曲をビートルズメドレーに差し替えた。

 71年8月。バングラデシュの難民を救うため、ジョージが「サムシング」を、リンゴが「明日への願い」を歌った。

 70年。映画「いちご白書」で、ベトナム反戦を訴えるアメリカの学生たちから、ジョンの「平和を我等(われら)に」がわきあがった。

 66年6月30日。

 「ロックンロール・ミュージック」が日本武道館に響いた。

 ビートルズは日本に来たのだ。

 7月2日までの5公演で、5万人の日本人が生身の4人を見た。チケットが手に入らなかった人、ビートルズの名前も知らなかった人たちまで巻き込んで、「来日」は39年前の日本を揺るがすことになる。

 (このシリーズは湯瀬里佐と篠崎弘が担当します。本文は敬称略)

「ニッポン人脈記」は、月曜日から金曜日の朝日新聞夕刊(夕刊のない地域では火曜日から土曜日までの朝刊)に連載。このページでは各シリーズごとに1回目を掲載します。 ≫朝日新聞購読のご案内

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