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ラブレター200通 戦地発2006年08月08日 激しかった砲火の響きがようやくやむと、山鳩(やまばと)がものがなしく啼(な)くのが聞こえてくる。戦場の村がふと静まると鶏が啼いて、それが恐ろしく寂しい。
歌人宮柊二(みや・しゅうじ)は1939(昭和14)年、27歳で陸軍に召集され、「万葉集」1冊を持参して中国・山西省の戦地に赴いた。43年に内地に帰るまで、黄土高原の戦いの日々を詠み続けた。 おそらくは知らるるなけむ一兵の生きの有様(ありざま)をまつぶさに遂げむ 「上官から幹部候補生にといわれたけど、断って一兵卒として過ごしたんですね」と妻で歌人の英子(ひでこ)(89)。とても元気、歌の会があれば一人でひょこひょこと出向く日々だ。 一兵卒の目は民の目である。 麦の秀(ほ)の照りかがやかしおもむろに息衝(つ)きて腹に笑(わらひ)こみあぐ やがて戦友が死ぬ日が来る。 あかつきの風白みくる丘蔭に命絶えゆく友を囲みたり 敵を殺す日が来る。 ひきよせて寄り添ふごとく刺ししかば声も立てなくくづをれて伏す 戦後、これらの歌をまとめた歌集「山西省」は、こみあげるように、しかしたかぶらず、「兵士の戦争」をみつめた絶唱である。のちに歌誌「コスモス」を主宰し、歌壇で大をなした柊二にとっても「『山西省』は一番大事な歌集でしょうね」と英子。 ◇ 出征の前、柊二は北原白秋(きたはら・はくしゅう)の門下で歌を学び、そこで英子を見初めた。戦地からの軍事郵便で200通のラブレターを送った。 英子の身辺を心配し、英子の手紙を待ちわび、しかし、いつ戦死するかもしれない身、「滝口さん(英子の旧姓)は滝口さんにふさわしき人を見出して、宮(柊二)に仰せ頂きし愛情をこそ傾けられたく、山西の遥(はる)かより祈り居り候」と書き送ってもいる。 86年12月、柊二は74歳で死去、英子はこれらの古びた便箋(びんせん)やはがきに涙して出版した。「砲火と山鳩」がそれである。 あの時代の男の愛し方ですね。「あれは作りものですよ」。そんなに照れないで。「困ったこと!」。柊二の死後、英子は8回も山西省を旅した。「鶏が遊んでいたり女の人がお洗濯していたり。杏(あんず)の花がきれいでした」 柊二の故郷、新潟県魚沼市堀之内の宮柊二記念館は「柊二と英子展」を来年3月まで開いている。そこには柊二のこんな歌の色紙も飾っている。 ゆらゆらに心恐れて幾たびか憲法第九条読む病む妻の側(わき) ◇ やはり新潟県出身の奥村和一(おくむら・わいち)(82)は、柊二と入れ替わるように44年に20歳で召集され、中条町(現・胎内市)から山西省に向かった。そこでまず「肝試し」の新兵訓練を受けた。上官の「かかれっ」の号令。捕まえてきた中国人を銃剣で刺し殺す。そのときの彼らの怒りを含んで見開いた目を忘れられない。 45年8月、日本は敗れた。アジア全域を侵した日本兵は投降し、続々と故国に帰った。ところが、奥村らはそこから奇妙な運命に巻き込まれる。「君たちは山西省に残ってくれといわれたんです。上官の命令はそむくわけにいきません」と奥村。 中国では、蒋介石の国民党と毛沢東の共産党の内戦が始まる。山西省に残った日本兵2600人は、国民党軍と組んで3年半、共産党軍と戦い敗れ、550人が死んだ。戦後の戦死! 奥村は負傷、コーリャン畑で捕虜になり抑留され、故国に帰ったのは54年9月。終戦から9年も過ぎていた。待ち受けていたのは「逃亡兵」同然の扱いである。 この7月、奥村を主人公にして監督池谷薫(いけや・かおる)(47)がつくったドキュメンタリー映画「蟻(あり)の兵隊」が封切られた。こんな理不尽なことがあっていいのか? 誰が仕組んだのか? 映画は、05年に中国を再訪し、「日本軍山西省残留問題」の真相を追う奥村の怒りと悲しみを描き出す。 戦争を起こした罪、戦争にかかわった罪はどうあがなわれ、どう裁かれるべきなのか? 戦後61年目の日本でなお未完の問題であり続けている。 (このシリーズは本社コラムニスト・早野、編集委員・福島申二、大室一也、写真は中井征勝が担当します。本文は敬称略)
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