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出世を拒絶 さすらう心2006年09月13日 俳人の金子兜太(かねこ・とうた)(86)が55歳の定年を日本銀行で迎えたのは、1974年9月のことだ。最後の肩書は、係長クラスの証券局主査。同じ東大出の同期の多くが出世コースを駆け上がっていた。
定年の直前、日銀記者クラブの時事通信キャップだった藤原作弥(ふじわら・さくや)(69)が訊ねてきた。戦後の革新俳句の雄といわれた金子だが、取材に来た記者は他にいなかった。 藤原は中国東北部からの引き揚げ者。国境を越えた旧ソ連の戦車軍団が草原で発砲し、国民学校の級友30人の大半が命を落とした。生き残った罪悪感が消えない。「私も心の漂泊者。だから、彼のことが気になった」 ◇ 後日談がある。四半世紀後、2人は日銀本店の副総裁室で再会した。藤原は過剰接待汚職事件で揺れた日銀の副総裁にマスコミ界から抜擢(ばってき)された。「失礼だとは思ったが、私が招いた。うっ屈した思いがある場所なのに、ひょうひょうとやって来た」 金子の日銀人生は「漂泊」そのものだ。43年、東京帝大経済学部を繰り上げ卒業し、日銀に入行。すぐに海軍主計中尉としてトラック島へ。赴任した施設部では、徴用工に多数の餓死者がでた。捕虜生活を経て46年に帰国する際、こんな句を詠んだ。「水脈(みお)の果(はて)炎天の墓碑を置きて去る」 従業員組合の初代事務局長に自ら手を挙げ就任した。「出世に響くぞ」。東大出の先輩から忠告されたが、餓死した徴用工たちの小さな顔が頭から離れなかった。 「非業の死者に報いるため、内なる出世主義を拒絶する。それが自分一人(いちにん)の戦争責任の取り方」 日銀の近代化運動の先頭に立ったが、1年後にレットパージに巻き込まれ、福島支店に飛ばされた。「クビにはならなかったが、白地の退職願を書かせられた」。神戸、長崎支店と回り、東京の本店に呼び戻されるのは60年。 孤独感を支えたのは、旧制水戸高時代から始めた俳句だった。「人間とは何かを見定めてみたい」。自分の生な姿をさらけ出した漂泊の俳人種田山頭火(たねだ・さんとうか)や小林一茶(こばやし・いっさ)にのめり込んだ。 67年に社宅を出て埼玉県熊谷市に家族と居を構えた。その頃から「定住漂泊」を唱え始める。「人間にはさすらい感、漂泊の心性というものがある。世の中が豊かになればなるほど逆に、強くなる。山頭火のようにすべてを捨てた放浪ができる時代ではない。定住して漂泊心を温めながら、築き上げるというかたちもある」 ◇ 反骨、豪放らい落な金子を愛するファンは多い。俳優の小沢昭一(おざわ・しょういち)(77)もそのひとり。「梅咲いて庭中に青鮫(あおざめ)が来ている」という句が、気に入っている。「なかなか『青鮫』なんて発想は出てきません。私なんか先生と違って、出たとこ勝負。日めくりカレンダーみたいな生き捨て人生ですから」。全国の放浪芸を集めて回った小沢と金子は30年以上の付き合いだ。 金子には道楽者の血が流れる。実家は埼玉県秩父市で300年は続いた家柄だが、祖父は田舎歌舞伎の女形を演じ、開業医だった父は秩父音頭を復興させた。 医院を継いだのは、弟の金子千侍(かねこ・せんじ)(78)だ。旧制新潟医専で脳外科を学び、秩父音頭の家元も継がされた。「兄をうらやましいと思ったことは一度もない」と涼やかな表情だ。43年前に貧しかった秩父に腰を据え、毎日7、8軒の往診をいまも続ける。 金子にこんな句がある。「夏の山国母いてわれを与太と言う」。2年前に103歳で亡くなった母はるは、長男のくせに医業を継がず、俳句にうつつを抜かす金子が実家に顔を出すと、兜太とは呼ばず「与太が来た、バンザイ」と言った。金子の漂泊の思いを深いところで理解していたのは、はるだったのかもしれない。
(このシリーズは、文・加藤明、写真・フリー大北寛が担当します。本文は敬称略)
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