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連綿ジャーナリスト魂

2006年11月07日14時18分

 イラク戦争のさなか、幼い3人きょうだいが空爆で死んだ。その墓標に誰かが書いた。

 「お父さん泣かないで。私たちは天国で鳥になりました」

 切ない言葉が、フリーのビデオジャーナリスト綿井健陽(わたいたけはる)(33)の胸を突いた。

 綿井は、03年の開戦後1年半にわたってイラクを取材。膨大な映像から今年4月、戦火の中の家族を描くドキュメンタリー映画を作った。題名は墓標から「リトル・バーズ(小さな鳥たち)」とした。

 泣くのはいつも弱い者。そんな、戦争への怒りを込める。

 開戦が不可避になっていた03年3月11日未明、撤退を始めた日本の新聞、テレビと入れ替わるように、綿井は陸路バグダッドを目指した。「爆弾を落とされる側」から報告したかった。

 紛争地報道で実績はある。だが、いつにない不安に身を硬くしていた。バグダッドは真っ先に空爆の標的になるだろう。市街戦も予想された。「無謀だろうか」

     *

 揺れる綿井を、ベトナム戦争報道で名をはせた新聞記者の言葉が支えた。「一国の崩壊に立ち会えれば、記者冥利(みょうり)に尽きる」

 サンケイ新聞の近藤紘一(こんどうこういち)。75年4月30日、南ベトナムの首都サイゴン(現ホーチミン市)が陥落し、戦争が終わる。国外へ逃れる人々で恐慌状態の中、近藤はこの言葉を自分に言い聞かせ、現地からニュースを打電し続けた。綿井が3歳のときだ。

 「【四月二十八日夕 サイゴン発】/クレジットを打ったあと、しぜんに文章がでた。『サイゴンはいま、音をたてて崩壊しつつある。つい二カ月、いや一カ月前まではっきりと存在し、機能していた一つの国が、いま地図から姿を消そうとしている……』」(「サイゴンから来た妻と娘」=文芸春秋刊=から)

 近藤はサイゴン特派員時代、ベトナム人と再婚し、妻の実家に転がり込んだ。妻も再婚で11歳の娘がいた。市場に近い下町での暮らしが、記事に「人のにおい」を吹き込んだ。妻子を連れて帰国、「サイゴンから来た妻と娘」で大宅壮一ノンフィクション賞を受けた。だが、86年に45歳で早世する。

 綿井は長じて、戦争と人間を活写した近藤のルポに感銘を受ける。インドシナも訪ね、ジャーナリズムの世界に導かれていった。

 03年3月20日未明。米軍の空爆で戦争は始まった。米地上軍がバグダッドに迫る。市内から警官が消えた。制服を脱いで一般市民にまぎれたのだ。大統領宮殿が制圧された4月7日、綿井は中心街の広場から日本のテレビに向けて中継リポートをした。

 「フセイン政権がいま、音をたてて崩壊しつつあります」

 ここ一番の場面で使ったのは、28年前の近藤の言葉だった。

    *

 開戦時、バグダッドには約20人の日本人フリーランスがいた。綿井と同じホテルに村田信一(むらたしんいち)(41)がいた。炎上する大統領宮殿に向けてシャッターを切った。

 元自衛官。最前線で銃撃戦を撮るのが生きがいだった。いつしか「撃った撃たれたは戦争の一部」だと気づく。銃後にも膨大な光景があるのだ、と。

 村田の脱帽する一枚が、米UPI通信の酒井淑夫(さかいとしお)(99年没)がベトナムで撮った「より良きころの夢」だ。酒井は繊細だった。「無残な死体や、瀕死(ひんし)の負傷者がどうしても写せない」と悩んだ。一歩引いた目線で本領を発揮する。砲撃のやんだ雨期の戦場、つかの間の眠りに安らぐ米兵の写真は、68年にジャーナリズム界最高とされるピュリツァー賞を受賞した。

 ベトナム戦争が終わって30年。「泥と炎」と形容された戦場から、報道写真やドキュメンタリーの多彩な群像が生まれ出た。

 (このシリーズは編集委員・福島申二、写真は山本壮一郎が担当します)

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