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同級生 67年ぶり再会2006年11月07日 ニューヨークに住むジャズピアニスト秋吉敏子(あきよしとしこ)(75)は11日、公演中の東京で心ときめく客を迎えた。映画監督黒木和雄(くろきかずお)(74)。 「いやあ、懐かしいなあ」 「67年ぶりかしらね」 2人は日本が戦前、中国東北部につくった傀儡(かいらい)国家「満州国」の遼陽の小学校で机を並べた。 黒木は小学2年で転校。それっきり音信は絶えていたが、12年前、テレビで秋吉の紀行番組を見て驚く。遼陽の母校が出てきたからだ。サルのように活発だった、あのおてんば娘だ! 会いたいと思った。懐かしさだけではない。日本の敗戦によってわずか13年半で崩壊した「満州国」とは何だったのか。今の世界を秋吉はどう見ているのか。
話してみると、2人の原点はともに満州にあった。「小学1年のとき、3年生が弾く『トルコ行進曲』に魅せられて、ピアノを習い始めたの」「僕は、学校をさぼって映画館に通っていた」 当時の満州はロシア人も多く、欧州文化に接する最先端。だが、それも他国を侵した上での話だ。 秋吉は、大連の女学校から陸軍看護婦を志し、訓練中に終戦。生徒を毒殺した方が敵の手に渡るよりいい。上官がそんな相談をしていたと聞き、ぞっとする。 別府に引き揚げ、56年に渡米。「ロング・イエロー・ロード」で注目された。日本人への偏見を感じ、満州の黄色い大地を歩むように、黄色人種として生きる決意を込めた曲だ。イラク戦争があったおととしは、カーネギーホールで組曲「ヒロシマ」を披露した。 「私、空襲経験はないの。内地は激しかったんでしょ?」 秋吉に問われて、黒木は顔を曇らせた。中学に入るため郷里の宮崎県に戻った。勤労動員された工場が米軍機の爆撃を受け、11人が死んだ。友人を助けられずに逃げ、生き残った負い目をずっとひきずってきた。 その体験を02年の「美しい夏キリシマ」で映画にした。広島原爆で生き残った娘の後ろめたさがテーマの「父と暮せば」(04年)、被爆直前の長崎市民の日常を描く「TOMORROW/明日」(88年)、合わせて戦争レクイエム3部作と呼ばれる。 22日、秋吉は東京の岩波ホールで「父と暮せば」を見る。秋吉が「ヒロシマ」を演奏し、黒木の映画を上映。そんな催しの夢も膨らむ。分かれた道が戦後60年の夏、平和という交差点で合流した。 満州生まれで「平和」にこだわる音楽家が、もう一人いる。世界的指揮者小澤征爾(おざわせいじ)(69)。 「中国で生まれ、日本で育った自分の音楽経験を若い世代に伝えたい」。常々そう語る小澤はこの10月、若手を育てる「音楽塾」の北京初公演や、広島での平和イベントでタクトを振る。 征爾の名は、31年に満州事変を起こした関東軍参謀板垣征四(いたがきせいし)郎(ろう)、石原莞爾(いしはらかんじ)から一字ずつもらった。 父開作(かいさく)は、満州国の理念「民族協和」を唱えた民間団体の幹部。征爾が生まれた翌年に北京に移り、やがて東京へ。「彼は草の根主義者で、人のつながりを大事にした。軍の統制が強まり、自らの理想に反したのでは」。「キメラ――満洲国の肖像」(中公新書)を著した京都大教授山室信一(やまむろしんいち)(53)の見立てだ。
満州といえば、「馬賊の唄(うた)」を思い出す人もいるだろう。 ♯僕も行くから君も行け 狭い日本にゃ住みあいた 敗戦直前、日本人は150万人を超えた。ソ連軍が侵攻。混乱の中で多くの人が殺され、シベリアに抑留され、残留孤児が生まれた。毒ガスなど日本軍が残した負の遺産は多い。一方、満州国の官僚統治システムの実験は、戦後日本の骨格にも影響を与えた。そしていま、アジア協調の時代。「満州」が残したものを、人と人のつながりの中にさぐる。 (論説委員・隈元信一)
◇このシリーズは隈元、編集委員・大久保真紀、林美子が担当します。本文は敬称略
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