現在位置:asahi.com>ニュース特集>ニッポン人脈記> 記事 語り部96歳 「恕」の経営2007年02月15日15時36分 みなさんは、渋沢栄一をご存じだろうか。
幕末から昭和の初めを生き、500もの株式会社をつくった「日本資本主義の父」である。 栄一は、会社のあり方などについて、様々な考えを披露した。村上ファンドの村上世彰(47)は逮捕される直前、「金もうけ、悪いことですか」と問いかけた。 栄一ならこう答えただろう。「悪くはないが、ルールや倫理に背かないこと」。当たり前だ、と私たちは胸を張っていえるだろうか。 ◇ 栄一の考えの語り部として、渋沢家お墨付きの男がいる。関誠三郎、96歳。首都圏で約300の事業所の食堂を運営する「栄養食」(東京、年商約50億円)の、バリバリの現役会長である。 祖母は渋沢家の女中頭、祖父は栄一の弟子。社名は、栄一の孫で戦時中に日銀総裁を務めた渋沢敬三がつけた。関は学生のころ、栄一にあいさつに行っている。「優しい笑顔と、黙った時の鋭い表情が印象に残っています」 関は毎日、しっかり仕事をこなし、帰宅後、脳をフル回転させて考える。会社は何のためにあるのか? 会社は社員をどう待遇すべきなのか? 息切れがして3年前に入れたペースメーカーが、関の心臓を支える。 「私は、のうのうと生きてはいけない」。栄一が娘のように可愛がった関の母なら「がんばれ」と励ますだろうから。そして、戦死した多くの友人への償いの思いといってもいい。 母への思いは、1923年9月の関東大震災にさかのぼる。12歳だった関は東京・大森の自宅にいた。朝鮮人が暴動を起こすと流言が飛び、人々が家の庭を走り抜けて逃げる。母は「ありえない」と諭して回った。そして、関に言った。「日本人は肝っ玉がないね」 関は、栄一が設立にかかわった東京商科大(現一橋大)を卒業して数年後に召集された。たまたま大学の後輩だった上官に「お部屋係」にしてもらい、終戦。同じクラスの3分の2が戦地に散った。 戦前から兄らと食堂運営をしてきた関は、戦後、社長として再出発する。40代になって疑問を抱く。「利益だけを追っているのではないか」。昼は仕事、夜は考察の日々が始まった。お手本、栄一の理念は、道徳に背かないこと。そして、論語にもある「恕」、つまり人への思いやりである。 関は社員に株の8割を持たせ、いつでも関を解任できるようにした。食材の仕入れ先に無理なコストダウンを求めない。会社の規模は追わず。石油危機の時、銀行マンに、仕入れ済みの油を転売すればもうかる、とささやかれたが、「他人の弱みにつけこむなんて」と断った。まだまだある。 関は81年、会長になり、栄一がつくった第一国立銀行の流れをくむ第一勧業銀行(現みずほ銀行)から社長を3代迎えている。 いまの永島宏(65)は第一勧銀名古屋支店長から転じて、驚いた。規模を追い、取引先に厳しいコストダウンを求める会社ばかり見てきたからだ。理想と現実の調和をめぐって、関と血相を変えて議論した。理想を追いすぎて、ライバル社に負けたこともある。でも、いま永島は思う。「博愛に満ちたこんな会社、あっていい」 関の主治医は、東京都済生会中央病院の宇井進(51)。2〜3カ月に1度来院する関の心臓を診る。宇井は、循環器科部長として若い医師の教育に悩むことがある。相談すると、関は、自分の利益より若手への思いやりをもって見本になれ、と語る。「渋沢栄一の考え方なのでしょう。病院の管理職にも当てはまる」と宇井。 「残された時間は多くない」。関は2年前、「会社の心」(文芸社)を出した。拝金主義がはびこる会社に人間らしい心を取り戻そう。関にすれば、大企業のトップもニートも「若者」だ。彼らみんなに贈るメッセージである。 ◇ 拝啓、渋沢栄一様 あなたは日本の企業社会の基礎を築き、学校をつくり、民間外交にも尽くされました。ご存命だったら、私たちの現実をどう思うでしょうか。 敬具 (このシリーズは中島隆が担当します。本文は敬称略) PR情報関連情報 (
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