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こっそり大陸に渡った

2007年06月07日14時26分

 南極へ。雪と氷に閉ざされ、人を容易に寄せ付けない1万4000キロ離れた大陸へ、日本が観測隊を送り続けて50年になる。

写真50年前に南極で撮られた自分たちの写真を指す佐伯栄治さん(左)と佐伯宗弘さん
写真佐伯高男さん。後ろの写真は父親の富男さん

 南極大陸に最初の一歩をしるした日本人はだれか。初代越冬隊長・西堀栄三郎(にしぼり・えいざぶろう)は1957年3月27日、8人の越冬隊員が「大陸にはじめて足を印する」と越冬記に書き残した。それが公式の記録となっている。だが、実はその1カ月以上前に、ひそかに大陸に立った男たちがいた。

 第1次南極観測隊53人は56年11月、観測船「宗谷」で日本をたった。「命の保証はない」と、遺書をしたためた隊員もいた。船が50度も傾く暴風圏を抜け、氷の海と格闘し、大陸まであと4キロの小さな島に年が明けてたどり着いた。ここに昭和基地を築くと宣言、2週間の突貫工事で4棟を建て、食料、燃料、通信を確保して、11人の越冬が決まった。

 2月14日。越冬隊と、翌日に帰国の途につく隊員との別れの会が「宗谷」であった。北アルプス立山の山男、佐伯栄治(さえき・えいじ)(79)、宗弘(むねひろ)(81)と、のちに南極点に立つことになる村山雅美(むらやま・まさよし)ら5人は基地で留守番をしていた。彼らも越冬隊に入れず、これが南極最後の日だった。日本人がまだ触れたことのない、白くふんわりとした大陸が見える。「大陸を踏まないで、南極へ来た意味がないよな」。だれからともなく言い出した。

 2月は夏の終わり。日の沈まない時期が過ぎたばかりで、前に横たわる海の氷は薄い。栄治らは綱渡りの曲芸師のように5メートルほどの竹ざおを横に抱えて走り出した。「もし氷が割れても竹ざおがつっかえ棒になって海に落ちないだろう」。未踏の地に臨む山男の心が、不安をかき消した。

 こうしてしるした「第一歩」はしかし、その後の半世紀、彼らだけの秘密になった。

 栄治と宗弘は、南極観測の立ち上げを支えた「佐伯5人衆」の2人だった。何が起きるかもわからない初めての南極行きには「自然の暴威の中、困苦欠乏に耐えうる人間が必要」と西堀は考えた。相談を受けた極地探検研究家の加納一郎(かのう・いちろう)は、1人の若者を推した。北大山岳部の後輩で、だれも見ていないところで人の嫌がる仕事を黙々とこなす佐伯富男(さえき・とみお)だった。

 当時27歳の富男は立山のふもと芦峅寺(あしくらじ)の出身だった。山岳ガイドや山小屋経営など山と生きてきた村だ。佐伯姓が多い。山男の西堀も、親友で後に日本山岳会会長となる今西錦司(いまにし・きんじ)と雪山に遠征したとき、佐伯一族にガイドの世話になっていた。「厳しい自然の中、自らの手で生き抜く芦峅寺の佐伯一族なら間違いない」。富男は小学校から知る山の達人たち安次(やすじ)、昭治(しょうじ)、栄治、宗弘に声をかけ、「佐伯5人衆」は南極に向かった。

 西堀の期待した5人衆の力は、南極の随所で発揮された。「宗谷」が氷海に阻まれて止まったとき。クマ撃ちの名手・宗弘は銃を手に氷上に下りると、アザラシを仕留めた。5人が500キロの巨体を甲板でさばく。犬は肉にかぶりつく。「越冬中もエサになるぞ」と隊員たちは喜んだ。栄治は得意のスキーで犬ぞりを先導して氷海を走った。越冬隊に加わった富男は、なぜか雪に埋もれた荷物の場所がわかり、猛吹雪でも平然と掘り出した。

 栄治らを乗せた「宗谷」の帰港は、8000人が東京の日の出桟橋に繰り出す熱狂ぶりだった。帰国後、佐伯5人衆は山の暮らしに戻り、南極は二度と訪れていない。

 観測隊長を2度務めた渡辺興亜(わたなべ・おきつぐ)(68)は昨夏、芦峅寺に栄治、宗弘と、亡くなった富男の長男高男(たかお)(48)を訪ねた。1次隊の秘話を聞きだそうと、酒を酌み交わした。日付が変わったころ、栄治が「実は大陸に行ったんだ」と切り出した。「怒られると思って黙っていた」と。

 初の南極観測隊を支える役に徹した栄治と宗弘は、その黒衣を半世紀もひきずったのか。「彼ららしい」と渡辺は思った。宗弘は大陸からこぶしより少し大きな石を持ち帰っていた。今も自室の隅の、小さな座布団の上に座っている。

(このシリーズは第45次南極観測越冬隊に同行した中山由美が文を担当します。本文は敬称略)

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