現在位置:asahi.com>ニュース特集>ニッポン人脈記> 記事 持ち帰った土の伝説2007年06月21日15時06分 甲子園は数々の伝説を生んできた。福嶋一雄(ふくしま・かずお)(76)がつらなるのは「グラウンドの土を持ち帰った最初の選手」という伝説である。
戦後まもなく、福嶋は九州の小倉高(旧制小倉中)のエースだった。父は中国で戦死。終戦の年、背が高いからと誘われて野球部へ。配給米の時代。ふだんはジャガイモやカボチャでがまんし、米を甲子園に持参する。 夏の大会で連続優勝、3連覇のかかった1949年8月、準々決勝で敗れた。福嶋はグラウンドを去る前、本塁でふと足をとめる。スコアボードを見た。6対7。ほんとに負けたんだ。もうここには来られない。悔しかった。 小倉に戻ってすぐ、見知らぬ人から速達の手紙が届く。「君のユニホームのポケットに大切なものが入っている」。大会審判副委員長の長浜俊三(ながはま・しゅんぞう)からだった。 何のことだろう。福嶋は新聞紙を広げ、汗まみれのユニホームを逆さに振ってみた。パラパラと、ひとつまみほどの土が落ちる。 無意識のうちに本塁の後ろで土をすくう福嶋の姿を、長浜は本部席から見ていたのだった。福嶋は、その土を自宅のゴムの木の鉢に混ぜこむ。 「なぜ私が第1号といわれるのか、よくわからんですよ。私より前にも、スパイクについた土を記念に持ち帰ったりした人はいたはず。みなさん、おっしゃらないだけでね」 早稲田大に進み、八幡製鉄(現新日鉄)に入った。40代に3年間、合理化担当役員として大阪の関連会社に送りこまれる。労働組合と丁々発止の日々。「甲子園の優勝投手がそんなことするんか」とののしられた。 会社の命令と人情との板ばさみ。「つらかったですね」。そんなとき、甲子園をおもった。毎日300球以上も投げこみ、猛暑に耐えたあのころを思い出し、自分を奮い立たせた。
作詞家の阿久悠(あく・ゆう)(70)が福嶋を訪ねてきたのはこのころだ。甲子園をわかせた選手たちのその後を追うテレビの取材だった。 「福嶋さんが最初に土を持ち帰ったという説があって、それを確認する意味がありました」 阿久にとって、福嶋は幼い日のヒーローでもあった。 終戦の年、阿久は、瀬戸内海に浮かぶ淡路島の国民学校3年生。玉音放送にうなだれる大人のわきで、よくわけがわからないまま泣いた。まだ野球というものを知らなかった。戦争で甲子園大会もプロ野球も中止されていた。 やがてラジオから、再開された甲子園の熱戦が流れてくる。「飛燕(ひえん)のジャンプ」「砂煙を巻き上げる球」と声をうわずらせるアナウンサー。連投する福嶋は「ミラクル投法」と呼ばれた。 阿久はとりこになった。「フック、シマアーッ」と叫び、木ぎれに毛糸をまきつけた球で友達とキャッチボールをした。 「野球のおもしろさを突然、知ったとき、神様がおりてきた感じがしたなあ」 甲子園の土が最初は淡路島から運ばれたと知るのは後のこと。79年、小説「瀬戸内少年野球団」を発表。戦後の混乱と荒廃のなかで島の少年たちが女性教師とふれあい、野球にめざめていく。それは少年の日の阿久自身だった。 親友の映画監督篠田正浩(しのだ・まさひろ)(76)が84年に映画化し、夏目雅子(なつめ・まさこ)が涼やかな白いブラウスの教師を演じた。阿久はいまも、福嶋が投げた試合の大半の結果をそらんじている。「球児は、甲子園という聖地への巡礼者だ」と思う。
映画のロケ地になった岡山県笠岡市に「瀬戸内少年野球団」が誕生したのは95年。監督の桑田勝正(くわだ・かつまさ)(49)は夏目の大ファンだった。近所の小学生を集めて新チームをつくるとき、映画のことを話し、「な、かっこええじゃろう?」。子どもたちもうなずいた。 1年目は1勝14敗だったが、いまや県大会常連の強豪チーム。キャプテンの森美輝(もり・よしき)(12)はいう。 「目標は松坂大輔(まつざか・だいすけ)。甲子園、出たいですっ」 (このシリーズは村上英樹と藤島真人が担当します。本文は敬称略) PR情報関連情報 (
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