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奥尻の海が爆発した夜

2007年07月23日14時43分

 インド洋の大津波、ハリケーン・カトリーナ、そして今年、早くも台風が日本を襲い、各地につめ跡を残した。地球で猛威をふるう水の破壊力に、人は無力である。

写真下村冨士子さん。夫の栄完さんの遺影を手に、「くつ塚慰霊碑」の前で
写真河本ふじ江さん
写真中村征夫さん

 世界の海にもぐる水中写真家中村征夫(なかむら・いくお)(62)は、北海道・奥尻島であった大津波の語り部である。

 93年7月12日、中村は取材で海辺の民宿にいた。午後10時17分、震度6の揺れ。民宿の奥さんが叫んだ。「逃げてえ」

 中村は、高台へ裸足で走った。後ろでゴーッと地鳴りのような音。振り向くと、高さ30メートルの真っ黒な魔物のような水の壁が迫っていた。「のみ込まれる。もうだめだ」。水はすぐ後ろに落ちた。

 高台にはすでに数百人も避難していた。民宿の奥さんもいた。下の集落でガス爆発、火柱が立つ。悲鳴、叫び声。中村は「落ち着け」と自分に言い聞かせた。

 大津波の直後、中村は仕事ができなかった。民宿に遊びに来た女子中学生が、親切な漁師が、200人以上が海に殺された。「海は素晴らしい、と今さら言えるか」

 しばらくして、考え直した。「お前は生きて恐ろしさを伝えろ、と残されたんだ」。津波から2カ月後、奥尻の海にもぐった。カニやハゼが何もなかったようにいる。「野生はしたたかだなあ」

 講演では、かならず奥尻体験に触れる。「母なる海も時に爆発する。それを忘れちゃいけない」

 戦後の日本最大の水害は、59年9月の伊勢湾台風である。死者行方不明は5000人を超えた。

 名古屋市南区の下村冨士子(しもむら・ふじこ)(88)はあの夜、夫栄完(えいかん)、15歳の一人息子真(まこと)と逃げた。濁流に襲われた3人は、道ばたの木にしがみついた。栄完が冨士子に言った。

 「母さんは泳げる。行け」

 冨士子は女学校時代、ベルリン五輪の金メダリスト前畑秀子(まえはた・ひでこ)に水泳部でしごかれた。「いやだ」「行け」と言い合いの末、泣きながら冨士子は離れた。だが、水中でもがく人に体をつかまれて気を失い、5時間後に救出される。

 翌日、冨士子は、避難所だった中学校で栄完をみつけた。

 「真ちゃんは?」

 「大波にさらわれてしまった」

 栄完は真の腕をきつく握っていた。だが、何度目かの大波で、真の腕がすーっと離れていった。

 夫婦は泣いた。冨士子は「3人で死ねばよかった」と思った。

 避難所の周辺だけで307人が亡くなり、近くに遺品の長靴の山ができた。栄完が、ベニヤ板に詩を書いて掲げた。

 「ここは冷い海でした/胸までつかる水の中/波のしぶきと吹く風に/よろめく足をふみしめて/たがいに励し助け合い/嵐の中に手をとって/頑張りつづけたところです」

 この詩が名古屋市長の小林橘川(こばやし・きっせん)を動かし、「くつ塚慰霊碑」ができる。夫婦はここで、体力が続いた94年まで慰霊祭を開き続けた。

 栄完は00年、87歳で亡くなった。冨士子はまだ自分を責めている。「屋根の上に逃げれば、真は助かったかもしれない」 

 伊勢湾台風の数カ月後、くつ塚近くに仮設住宅ができ、託児所が作られた。東京の保育士、河本(かわもと)ふじ江(72)ら2人が応援にきた。

 昼間から酒に酔った男らが、河本に絡んだ。必死で子供たちと「夕焼け小焼け」を歌うと、男らは泣き出した。水ですべてを失い、みんな参っていた。

 子供たちも同じ。なぜ僕たちだけが、つらい目にあうの?

 「みんなは悪くないのよ、みんな大事なのよ」。思いを伝えようと、時にはきつくしかった。後に保育記録「レンガの子ども」(光風社)をまとめる。童話「三匹の子ぶた」を聞いた子どもが、「壊(こわ)けん家はええなあ」とつぶやいたことから、このタイトルにした。

 いま、子供たちは50歳を過ぎ、すし職人や看護師として働いている。河本は名古屋に残り、保育園を運営する「名南子どもの家」理事長。「何も知らずに飛び込んだ被災地が、私のふるさとです」

 この6月、河本は、保育士の研修会で当時を語った。参加者からすすり泣きが聞こえた。

 水は生命の源である。地域を変える力になり、争いの種にもなる。水の惑星、地球。私たちは水とどう向き合えばいいのだろう。

 (このシリーズは、論説委員・伊藤智章が担当します。本文は敬称略)

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