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「乙女の祈り」を探して

2007年10月23日16時36分

 ピアノを習いたてのころ、だれもがあこがれる曲といえば「乙女の祈り」だろう。どこかはかなげな響きが胸にしみる。

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ワルシャワにあるテクラ・バダジェフスカの墓=ドロタ・ハワサさん提供

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宮山幸久さん

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ドロタ・ハワサさん

 音楽プロデューサーの宮山幸久(みややま・ゆきひさ)(45)も少年時代、ピアノを習った。「母は子どものとき、『乙女の祈り』を弾きたかったけど、家計が苦しくピアノを習わせてもらえなかった。その夢をぼくに託そうとしたのでしょう、泣くまで何度も練習させられました」

 86年、宮山は大学3年のときポーランドを旅し、ワルシャワ大学の寮に泊まる。そこで日本語学科の女子学生ドロタ・ハワサ(41)と出会った。「バダジェフスカって作曲家、知ってる?」「ううん、知らない」

 テクラ・バダジェフスカは「乙女の祈り」を作ったポーランドの女性だ。なのに、なぜこの国の人が知らないんだろう?

 宮山は大学を卒業後、レコード会社に入った。バダジェフスカの資料は乏しく、生涯は霧に包まれていた。「ほかにも曲を書いていたはずなのに、楽譜は日本になかった」。宮山はロシア人の妻の助けを借り、モスクワやロンドンの図書館で楽譜を探しはじめた。

   ◇

 ドロタは90年ごろ、西武グループの堤清二(つつみ・せいじ)(80)がワルシャワで日本語学科の学生と歓談したのがきっかけで西武百貨店に就職、日本に来る。ポーランドの美術館所蔵の浮世絵展に携わった。日本人の新聞記者と結婚、自らもポーランド・ラジオの東京特派員になる。

 宮山から「楽譜が集まり、ようやくCDを出せそうだ。解説を書いてくれないか」と頼まれるのは2年前だ。資料を求めて帰国、ラジオ局で尋ねると「なぜ、そんなどうでもいい人のことを調べるの?」。「乙女の祈り」は母国ですっかり忘れ去られている。

 バダジェフスカは19世紀の人である。ドロタは図書館で古い新聞を見つけた。1851年のその記事に「乙女の祈り」の楽譜がワルシャワで出版された、とあった。彼女が17歳のときだ。その後、パリの音楽雑誌の付録になり、欧米で100万部以上売れた。

 当時、ポーランドはロシアに虐げられ、抵抗の地下運動が続いていた。バダジェフスカは警察官の家に生まれ、18歳で結婚、5人の子に恵まれる。

 ドロタは役所の記録をたどり、生家があった地区をつきとめた。だが、そのあたりは第2次大戦でナチスに破壊され、昔の面影は消えていた。

 なぜポーランドで忘れられたのか。「その原因は、当時の評論家の偏見にあったと思う」とドロタ。19世紀の音楽事典は「乙女」の作者をこう酷評していた。「浅薄な素人くささを超えられなかった」。音楽に高い精神性や芸術性を求めるあまり、音楽教育を受けていない少女の、独白のような小品を見下したのだろうか。

 母となったバダジェフスカは30以上の曲をつくった。大半は歴史に埋もれ、弾く人もなかった。その楽譜を宮山は見つけ出した。「乙女の感謝」「田舎小屋の思い出」「母の祈り」「かなえられた祈り」……。

 「彼女は何を祈ったんでしょう。幸福な一生だったのか。祈りはかなえられたのか」。宮山は思いをめぐらせる。

 24日にキングレコードから出るCDは、おそらく彼女の世界初の作品集だ。17曲を弾くのは、日本のコンクールで優勝したロシアの新鋭ピアニスト、ユリヤ・チャプリーナ(20)。祖母にポーランドの血が流れている。

   ◇ 

 「乙女の祈り」は明治時代に日本に伝えられた。ピアノ教本と一緒に楽譜が持ちこまれた。「セロ弾きのゴーシュ」を書いた宮沢賢治(みやざわ・けんじ)の親友のピアニストも岩手で演奏した。ドロタは思う。「生まれた国で否定されても、別の場所で新たな命を得る。音楽には、そういう不思議がある」

 バダジェフスカは27歳の若さで世を去った。ドロタが探しあてた墓は、ワルシャワの墓地の木立の中にある。訪れる人のないその墓を、「乙女の祈り」の楽譜を手にした女性の像が飾っている。

 (このシリーズは吉田純子が、写真は中井征勝が担当します。本文は敬称略)

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