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万博の味 コックの青春

2007年11月09日14時17分

 家庭の食卓にお皿がふえて「ごちそういっぱいの国」になる扉は、70年の大阪万博で開いた。半年で6400万人を集めたイベントは、各国が自慢料理を日本人にふるまう「食の祭典」でもあった。

 会場ではたらく若いコックたちの中に、石鍋裕(いしなべ・ゆたか)(59)もいた。いまや「フレンチの鉄人」として知られる彼は、このとき22歳。

 横浜生まれの石鍋は、早くに母を亡くし、子どものころから台所にたった。中学を卒業したら料理の道に進むと決め、ならば日本一の調理場でと考えた。訪れたのは宮内庁。「天皇の料理番」と呼ばれた秋山徳蔵(あきやま・とくぞう)にいわれた。「ここにはもう新しいものはないよ」

 石鍋は、欧州帰りだった秋山の息子の店ではたらいた。深夜、洋書を手に料理の試作を繰り返しては、本場へいきたい、と夢見た。

 そんな石鍋にとって、万博は世界の空気を吸うチャンスだった。イタリア館の皿洗いにもぐりこんだ。次にブルガリア館の給仕係。まかないに出る素朴なトマトのパスタ、初めて口にした甘くないヨーグルト。すべてに触発される。

 チーズを溶かしてジャガイモにつけるスイス料理のラクレット。くるくると回るロースターでつくる鶏の丸焼き。料理の見せ方もおもしろかった。

 各国パビリオンのスタッフと親しくなり、空き時間に調理場を手伝った。夜はいっしょに遊び、会場に戻ってベンチで2〜3時間の仮眠。明るくなると起きて、また仕事。「楽しくて楽しくて」

 万博の翌年、石鍋はパリに旅立った。そのころフランスの料理界には、素材の持ち味を生かす「ヌーベル・キュイジーヌ」と呼ばれる新しい風が吹いていた。石鍋は「マキシム」などの一流店で5年間もまれ、その現場の技術とセンスを身につけ帰国した。

 82年、東京・西麻布に、多くの日本人に親しめるフランス料理を、と「クイーン・アリス」1号店をひらいた。現在は、イタリアン、ベトナム料理など様々なタイプの店をつくり、大阪、愛知、香川などにも展開する。

 「どこへいっても物おじしない度胸を、僕は万博にもらった」 

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 東京・代官山の「パッション」は、日本にあるフランス人レストランの草分け的な店である。そのオーナーシェフ、アンドレ・パッション(62)は、万博のカナダ館で輸入牛のステーキを焼いていた。富士山の国が見たくて来日したが、レジ係だった美代子(みよこ)(61)に恋をし、交際するように。

 万博が終わった。「いつか迎えにくる」と告げての帰国寸前、万博でフランスパンをヒットさせた神戸の「ドンク」の社長だった藤井幸男(ふじい・ゆきお)(86)が、これから開くビストロに採用してくれた。

 2人は結婚、パッションは店を大きくする一方、流行に左右されない自分の郷土の味を大切にした。看板の料理は、秋の深まりを告げるインゲン豆と肉の煮込み「カスレ」。美代子はマダムとして、また、成長した2人の息子も店の仕事に加わっている。

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 「太陽の塔」近くにあった「水中レストラン」では、当時の新大阪ホテルに入社して6年目の松本則雄(まつもと・のりお)(61)が、上司の料理長友納喜久司(とものう・きくじ)(75)考案の、しょうゆを使った国際食に挑んだ。

 しょうゆのイメージを変えたいスポンサー、キッコーマンからの特命だった。本格的なフランス料理を志すコックにとって、当時、しょうゆを使うことは「邪道」。松本にも抵抗があった。

 肉料理に、バターやスパイスとしょうゆを組み合わせる。サラダにしょうゆ風味のドレッシング。自分でも「いける」と思ったが、連日の大入り満員。残業で調理場の流しを風呂代わりにする忙しさに、松本は手応えを感じた。

 大阪・中之島にあった旧新大阪ホテルは、リーガロイヤルホテルとなり、松本はいま、総菜部門の料理長。ピラフの隠し味にはたらり、魚のグリルではオリーブ油と合わせてソースを作るなど、しょうゆを自由に使いこなす。

 当時の新聞や雑誌には、万博の料理に「値段ベラボウ 味まあまあ」と辛口批評もあった。日本人に外食が身近になる「外食元年」ともいわれる。そして、コックたちの青春があった。

 (このシリーズは長沢美津子が担当します。本文中は敬称略)

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