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「いのちの授業」ふたたび

2007年11月29日15時11分

 山田泉(やまだ・いずみ)(48)は「いのちの授業」を続ける。

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山田泉さんは、ピンクの服を着て子どもたちの前に立った

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原実男さん

 大分県豊後高田市の中学で養護教諭をしていた00年、乳がんが見つかった。手術を受けて戻った学校は荒れていた。「死ね、ぶっ殺す」の声が教室に飛び交う。保健室のベッドに生徒が転がり、ふざけて「オレ、がんじゃもん」。言葉が心に突き刺さる。もう、やっていけないと思った。

 困った時、山田はいつも生徒に相談する。一人の女子生徒が、こんなことを言った。「自分の命も、人の命も、同じように大事やと感じる授業しちょくれ」

 山田は教室で、自分のがんについて話した。「死が怖くて眠れなくなった」と告白した。肺がん患者の教頭も「生きたいから、生きたいから治療を受けた」と語る。悪ガキたちが涙を流した。「いのちの授業」の始まりだった。

 授業は、車いすのマラソンランナーや性同一性障害の作家を招いて続く。生の輝く瞬間を、飾らずに語ってもらった。そんな中に、余命3カ月と宣告された乳がん患者の稙田(わさだ)妙子(たえこ)がいた。

 死の間際、稙田はホスピスに生徒を招いた。「人が死ぬって、当たり前のことが一つずつ、できなくなることなの。あなたたちはできる。やりたいことを、思い切りやってね」。山田へは「人のために、したいと思うことをやり続けて」と言い残して亡くなった。

 山田はがんの再発、治療、復職をへて、体がどうにもついていかなくなった。今春退職、転移がわかった。手術はしないと決めた。もう何もかも終わった。絶望の中にいると、性教育の研究会の仲間、鹿児島県の日置市立上市来(かみいちき)小学校の村末勇介(むらすえ・ゆうすけ)(44)から「遊びに来ませんか」と誘われた。

 山田は心の色を少しでも明るくと思いピンクの服を着て出かけた。6年生のクラスで、自分のがんの話をした。命の限り生を語った稙田との出会いと別れを話し、一人ひとり目をのぞき込んで思いを聞いた。帰る山田の車を子どもたちは校門まで追いかけた。「抱きしめてくれた山ちゃんの手は温かかったよ」と書いた子どもの感想文を読んで、村末は泣いた。

   ◇

 生の輝きを伝えるのが山田なら、兵庫県立加古川南高校の原実男(はら・じつお)(47)は死を、生物の授業を通して語る。教員生活を、病院に隣接した病弱養護学校で始めた。教え子が亡くなり、学校で死が日常だった。次に赴任した高校では、生徒の意見表明の場に、と新聞部をつくり顧問になった。97年、近くの神戸市須磨区で連続児童殺傷事件が起き、14歳の凶行に衝撃が走る。

 新聞部の生徒は食肉センターや、いのちの電話を訪れ、「死」を取材した。阪神大震災で500人の検視をした医師は、その話をすると心的外傷で涙がとまらない。それでも話し続けてくれた。死を通し、命のかけがえのなさが立ち現れてくると原は感じた。

 生物の時間、ムラサキツユクサの細胞内部が動く映像を、モニターに映し出す。よくある授業だ。そこに原は水酸化ナトリウム水溶液を落とす。瞬間、細胞が黄色く変わり、動きが止まる。「生命の停止、死や」

 厳粛な死を見せる一方、ヒトの受精卵一つが生まれるのに染色体の組み合わせは64兆以上と紹介し、一つ一つの命のかけがえのなさに触れる。「自分の代わりはいないと言われたようでうれしくなった」と生徒は感想文に書いた。原は1人の生徒に父と母、さらにその父母にも父と母、とたどると40世代前は約1兆人になると計算し、「そんなに人口はなかったよね」。どこかで先祖が重なり、人と人はつながっていると伝える。 

   ◇

 10月末、上市来小の教室に再び山田の姿があった。「いのちの授業」は再開していた。人と人の命はつながっていると、山田は話し続ける。年末まで、ほかの学校も回ろう。「収穫には立ち会えないかもしれないけれど、一つでも多くの種をまきたい」

 人はみな先生に出会う。教えるって何だろう。あったかい、熱い気持ちで子どもに向き合おうとする、先生たちを訪ねた。

 (このシリーズは文を編集委員・氏岡真弓が担当します。本文は敬称略)

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