現在位置:asahi.com>ニュース特集>ニッポン人脈記> 記事 夢の舞台で私は踊った2008年01月08日14時23分 摩天楼の、ほの明るい夜空から雪が降り続いていた。ニューヨーク、03年2月。大雪にふるえながら、ブロードウェーのとある劇場の楽屋口に立ちつくす日本人がひとり。舞台はとうにはねた。観客も人通りも途切れた。
楽屋から最後に出てきた女優高良結香(たから・ゆか)に、雪まみれの日本人は、宮本と名乗った。演出家宮本亜門(みやもと・あもん)(50)である。 「沖縄出身ですか?」と宮本。びっくりしたのは高良の方。「おお」と小柄な体がおどった。 高良は、ミュージカルの本場で主役級を演じる数少ない日本人である。この日も「フラワー・ドラム・ソング」に出ていた。 娘を米国留学させたい、という母美佐子(みさこ)(58)の夢を背負い、高良は3歳で那覇のアメリカン・スクールに通い、5歳からバレエに打ち込む。米バージニア州の大学に留学し、1年でニューヨークに乗り込んだ。 3年後の01年、「マンマ・ミーア!」でデビュー。「レント」などに出演、07年のニューヨーク・ミュージカル・シアター・フェスティバルで優秀演技賞を受賞した。アジア系で背が低い、という逆境を感じさせない活躍である。 そんな高良がどうしても立ちたかった大好きな舞台があった。 「コーラスライン」 役名がつかない脇役、コーラスダンサーのオーディションに参加する若者たちを描く人気作だ。 高良は05年、約1700人が応募したオーディションを受けた。まずはダンス、次にバレエで次々と落とされ、持ち歌を歌って、さらに絞られる。通過したら歌とせりふの選考、そして最終選考。1年がかりだった。 自信はあった。でも、演出家の目に合わなければ選ばれない。高良も多くのオーディションに落ちてきた。合格の連絡を受け、高良は泣いて沖縄の母に電話した。昨夏までの1年間の舞台で、背が低くてバレリーナになれなかった中国人街出身のコニー役を演じた。 ニューヨークはエネルギッシュな街だ。「みんな夢とはっきりした目的をもって世界中からやってくる。だから、自分の根っこをしっかり持つことが大事だと思う」 ◇ 高良の根っこは、ふるさと沖縄。コーラスラインに出演中、沖縄出身の「ヨシ」こと比嘉良治(ひが・よしはる)(69)のダウンタウンにある自宅に寄宿した。 少年時代から画家を夢見た比嘉は、東京の多摩美術大に学んだ。中学、高校で教えながら展覧会に出品。作品が売れると、「こんなに早く結果が出るのはよくない」とニューヨークに飛び出た。東京五輪があった64年のことである。 真冬に灯油も買えない貧乏の底から抽象画、写真、彫刻と表現手段を広げてきた。さらに、61歳のときに自転車で米大陸単独横断、62歳でマラソンに初挑戦して完走。フランスで料理修業し、欧州大陸を自転車で縦断した。 「人間は不安定な状態にあるとき緊張する。その緊張こそ美しい」。そう話す比嘉のおおらかな笑顔と多彩な料理で、高良は元気をもらい、「がーじゅー(負けず嫌い)」の精神を研いだ。 ◇ 5年前のあの大雪の日。劇場で宮本は「フラワー・ドラム・ソング」を見た。舞台の最後に、出演者が出身地を紹介した。「オキナワ、ジャパン」。場内に響く高良の声を聞き、宮本は、ぜひ会いたいと思い、高良に声をかけたのだった。東京・銀座生まれの宮本も沖縄に移り住んでいた。2人は意気投合した。 04年、宮本のブロードウェーデビュー作「太平洋序曲」が上演され、高良はその舞台にたった。 宮本は今年、水上勉(みずかみ・つとむ)の「ブンナよ、木からおりてこい」をミュージカルに仕立てて、ワシントンに打って出る。 高良はいま、沖縄に帰ってシンガー・ソングライターの活動に熱中している。「いい作品なら挑戦したいけれど、俳優は役柄に自分を合わせなければいけない。それより自分の歌で自分を表現する方が、より自然な形だと思うから」 ニューヨーク。現代文明の交差点に生きる日本人を訪ねてみた。 (このシリーズは文・都丸修一、写真・本田理が担当します。本文は敬称略) PR情報関連情報 (
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