現在位置:asahi.com>ニュース特集>ニッポン人脈記> 記事 福岡はアフガンへの窓2008年01月25日14時43分 福岡市中央区。九州電力本社の大きなビルのすぐ裏に、小さな出版社がある。
「石風(せきふう)社」の表札の向こうで、代表の福元満治(ふくもと・みつじ)(59)ら5人が本の山に埋もれて働いている。仕事場は83平方メートル。ここがいま、アフガニスタンの窮状を日本に伝え、難民を支援する窓口なのだ。 福元は87年、地方紙にのった医師中村哲(なかむら・てつ)(61)のエッセーに心を揺さぶられる。アフガン難民を救う医療活動がつづられていた。「感動したというより、嫉妬(しっと)。アフガンの人々と中村さんの関係の深さに対する嫉妬でした」 福元は鹿児島で生まれ、熊本大学法文学部の全共闘で副委員長。70年、水俣病患者を支援して厚生省に座りこみ、東大助手宇井純(うい・じゅん)らとともに逮捕される。その後、市民運動とは距離をおいていた。 「水俣の重い現実は、『階級闘争』なんて学生運動の言葉ですくいとれるものではなかった。僕は黙って漁師の手伝いをするしかなかった。今もボランティアなどという言葉を聞くと、自分の底に眠っている悪意が頭をもたげてくるんです」 その福元の血が、久々に騒いだ。内戦で荒れ、干ばつにあえぐアフガン。そこで診療し、黙々と井戸を掘る。中村が向き合っている現実とは、水俣で見たものと同じではないか。「この人の本だけは自分で出したい」「出したら、深入りすることになるな」。長く出版の仕事をしていたが、こんな思いは初めてだった。 89年、中村の初の著書『ペシャワールにて』を出した。活動を支える「ペシャワール会」の事務局を引き受け、自ら現地を20回以上訪れる。「深入り」の予感は当たった。「アフガンには近代日本を相対化する異質な社会がある。そういう異質の視線がないと、世界は息苦しい」 ◇ そんな中村たちが脚光を浴びるのは01年9月11日、米同時多発テロの直後だ。米軍は報復のアフガン空爆へ。現地の状況を聞きに東京のテレビ局が押しかけてきた。「9・11で日本人は中村を発見したんです」と、福元はいう。 石風社には電話が3台ある。出版用の2台とペシャワール会用の1台。世界情勢が動くと、間断なく鳴り出す。福元のパソコンには中村とスタッフのメールがすべて届き、福岡にいながらにして現地の様子が逐一わかる。 昨年11月、「対テロ戦争」という看板は偽りだという中村の新著『医者、用水路を拓(ひら)く』を出した。これで8冊目だ。「中村さんのような著者に巡りあえたことは、出版人として幸運でした」 ◇ 福元を出版の道に進ませたのは作家の石牟礼道子(いしむれ・みちこ)(80)と評論家の渡辺京二(わたなべ・きょうじ)(77)である。 石牟礼は、故郷をむしばむ水俣病の悲惨を『苦海浄土』で全国に知らしめた。そのもとになった連載をのせた雑誌の発行人が渡辺だ。水俣病追及の先頭に立つ。70年の厚生省抗議では「全存在を賭けろ」「これは浪花節なんだ」と福元らを鼓舞し、ともに逮捕された。その後、季刊誌『暗河(くらごう)』の編集を福元に手伝わせた。 渡辺は、近代日本の成り立ちに鋭い視線を向ける。和辻哲郎文化賞を受けた『逝きし世の面影』では、幕末から明治に生きた日本人の精神を外国人の訪日記から克明に描いた。 「石牟礼さんたちがいなかったら、水俣病は単なる損害賠償請求にすぎなかっただろう」と福元。人々の痛苦をわがものとする魂の表現者がいたからこそ、水俣病は戦後日本の暗部をえぐる事件になったのだ。 「そして、石牟礼さんは水俣で、ある種の幻を見せてくれた。それなしには生きていけないような幻を」。福元にとって出版は、その「幻」を追い求めることなのかもしれない。 いま出版は「冬の時代」だ。それでも志を胸に、わが町で本を出す人々がいる。それぞれの地方で筆者を探し、原稿を待ち、校正をくり返し、在庫を抱え、印刷会社への支払いに悩みながら。 福岡の出版人の歩みをさかのぼると、ある人物にたどりつく。 (このシリーズは文を編集委員・篠崎弘が、写真を中井征勝が担当します。本文は敬称略) PR情報関連情報 (
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