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秋に偲ぶ「イラクの死」

2008年02月14日14時26分

 東京・霞が関の外務省。正門を入って左手に1本のキンモクセイがある。03年11月、イラクで何者かに襲撃されて死亡した奥克彦(おく・かつひこ)参事官(後に大使、享年45)と井ノ上正盛(いのうえ・まさもり)3等書記官(後に1等書記官、享年30)、イラク人運転手の3人を、静かに慰霊している。

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岡本行夫さん

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兼原信克さん。外務省のキンモクセイの前で

 惨事から1年後、奥と井ノ上の同期たちが植えた。なぜ、キンモクセイか。事件のあった秋がめぐるたびに漂う芳醇(ほうじゅん)な香りで、奥と井ノ上を偲(しの)んでほしいから。

    ◇

 「防弾チョッキ、着けないのか?」。首相補佐官だった岡本行夫(おかもと・ゆきお)(62)は、バグダッドで奥に聞いたことがある。奥はイラクを駆け回り、病院や学校への支援策を練っていた。

 「岡本さん、防弾チョッキを着けるということは『あんた、おれを狙っているんだろ? おれはそう思うから防弾チョッキを着けてんだよ』という意思表示でしょ。それじゃあ、イラクの人と本音の話はできないですよ」

 その会話からまもなく、奥は撃たれた。

 生前、奥は知人にこんな話をしていた。「人間にはプロアクト型とリアクト型がいる。まず、自分で行動してみよう、責任は自分で取ればいいと考えるのが能動型のプロアクト。他人が動くのを見極めて、責任も分散しようとするのが受動型のリアクト。僕は、典型的なプロアクト人間です」

 奥は高校でラグビーを始めた。2年生の時に全国大会に出場。早大でもラグビー部に入った。だが、2年生の夏に「一本目(1軍)」を目前に退部。外交官試験の勉強に専念した。奥は友人に「おれたちが外交の一本目をしょって立つ」と話していた。

 岡本は、最近の講演で「プロアクト」に触れることがある。

 「奥はリスクを取ることを恐れなかった。人間愛に基づいたプロアクト型人間でした。死んで英雄になったんじゃなくて、英雄が死んだのです。さぞ、無念だったでしょう」

 岡本も、プロアクト型外交官だった。安保課長、北米1課長と、中枢ポストを歩んだ。

 転機となったのが、90年8月の湾岸危機だ。イラクがクウェートに侵攻、米国を中心とした多国籍軍が対イラク戦争の態勢を組み始めた。米国からは「湾岸の衛星写真を見てみろ。写っているのはほとんど日本のタンカーだ」と言われた。中東の石油の恩恵を受けている日本は目に見える協力ができないのか、とせっつかれた。岡本は知恵を絞った。

 だが、日本は自衛隊も派遣できず、物資協力も霞が関の抵抗を受け、思うようには進まなかった。130億ドルを提供したが、クウェートからは感謝されず米国にも対日不信が残った。その無力感もあって、岡本は91年に退官。その後は首相補佐官として沖縄問題、イラク復興などに取り組んできた。

 自分への「陰口」を耳にすることもある。「自分から動こうとしないリアクト型の人の目には、岡本はスタンドプレーをしていると映るのでしょうか」

 岡本は外交評論家として「自分の頭で考える外交のすすめ」を発信し続けている。

    ◇

 キンモクセイを植えたひとり、奥と同期の兼原信克(かねはら・のぶかつ)(49)は、プロアクト型外交をめざす中堅外交官の論客だ。いまは総合外交政策局総務課長として、外交政策の司令塔を務める。

 「日本では、悪いことはしないというリアクト的な政治や外交が続いてきた。何か良いことをしようじゃないかという外交を考えていきたい。奥の気持ちも、そうだったと思います」

 プロアクトとリアクト――。戦後の日本は米国に付き従い、リアクト型外交を続けた。だが、冷戦が終わり、米国はそれまでのような庇護(ひご)者ではなくなった。日本は経済大国として独自の役割も求められている。近隣では中国が台頭し、核実験を強行した北朝鮮の脅威が増す。日本外交はプロアクト型に踏み出せるのだろうか。外交の波頭を行く人々の思いを描く。

(編集委員・星浩、丹内敦子 文中は敬称略)

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