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抑留を耐えた宇治十帖

2008年04月21日14時28分

 シベリアの捕虜収容所で、寒暖計は零下43度まで下がった。極限状態のなか、国文学者藤村潔(ふじむら・きよし)(86)の胸ポケットには、シラミよけの薬品と一緒にいつも『源氏物語』があった。

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藤村潔さん

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秋山虔さん

 『源氏』全54帖(じょう)は前半が主人公の光源氏(ひかるげんじ)の一代記だ。最後の10帖は出生の秘密をもつ子の薫(かおる)と孫の匂宮(におうのみや)に、3人の宇治の女君(おんなぎみ)を配した悲恋の物語で宇治十帖とよばれる。藤村は宇治十帖が好きだった。「まとまっていて何となく寂しいから」

 1943年、朝鮮の大学から学徒出陣。翌年、旧満州の軍隊から親に送金を頼んだ。「お札は、私の蔵書の中の岩波文庫にはさんでください」。そう指示したのが宇治十帖を収めた1冊だった。

 45年敗戦。シベリアの収容所を転々とする。「帰国できるのか。日本はどうなったのか」。飢えと寒さに苦しみ、不安でならない。『源氏』だけは手放さなかった。拾い読みすると、みやびな言葉に心がなごんだ。

 文庫本はソ連兵によく取り上げられた。たばこの巻紙になるから。「日本で読まれている、とても古い物語なんだ」。ロシア語で懸命にかけあって取り戻す。地面に男の姿を二つ、女の姿を三つ描いて、内容も説明した。ある日、1人の兵から質問される。「薫ほどの貴公子がなぜ恋人を次々に失うのか?」。藤村は答えられなかった。

    ◇

 50年春、念願の帰国。藤村はハバロフスクの収容所を出るとき、6年間もち歩いた文庫本を厳寒の地に残る友人に贈る。「慰めの言葉の代わりにいちばん大切なものを渡したくて」。友人は56年に帰国、会う機会もなく逝った。本のゆくえはわからないままだ。

 香川県で高校教師になった。シベリアでのソ連兵の質問が研究の原点となる。主著『源氏物語の構造』は宇治十帖の構想を精緻(せいち)に論じている。やがて札幌の藤女子大に移り、教え子に歌手中島(なかじま)みゆき(56)がいた。

 論文の校正を手伝ってくれた妻昭子(あきこ)が82年に逝った翌春、札幌の家の庭でダケカンバが芽吹いた。いまは高さ10メートル近い。妻に見立てて大切にしている。

 「軍隊では研究から引きはがされた喪失感を、収容所では国が滅びた喪失感を『源氏』が埋めてくれました。人生で最も危険な時期を私は宇治十帖にすがって生きた気がします」

    ◇

 国文学者秋山虔(あきやま・けん)(84)は56年、見ず知らずの藤村から送られてきた論文集に驚いた。「高校の先生がこれほど本格的な研究を」。のちに『源氏物語の構造』出版の労をとり、大学の職も紹介することになる。

 シベリアで藤村が『源氏』にすがって生きていたころ、秋山は『源氏』を否定したくてならなかった。旧制高校生のとき、日本が戦争になだれこむ動きに背を向け、京都の自然や詩歌のなかに逃避した。学徒出陣の軍隊から東京の大学へ戻ったときは虚脱状態だった。

 「叙情の世界におぼれた反動で、『源氏』に代表される日本的な美意識に反発したんです。『源氏』を否定しなければ立ち直れない。そう思い詰めて」

 しかし、読めば読むほど『源氏』に圧倒され、組み伏せられた。戦後を代表する源氏学者のひとりとなる。「人間の運命はわかりません」。藤村の人生にも通じる感慨である。

 東大名誉教授、紫式部(むらさきしきぶ)学会会長、文化功労者。功成り名遂げた秋山だが、いま意外な悔恨の言葉を口にする。

 「自分の生き方を検証するために『源氏』を研究した藤村さんのように、もっとひたむきに勉強したかった。私はまだつかみ切れないんです。紫式部が冷徹なまなざしで見つめた、人間の虚無と闇の世界を」

 『源氏物語』の存在が初めて文献にあらわれて、今年でちょうど千年。この世界最古の長編小説は今なお私たちの心をとらえる。『源氏』とともに生きる人たちの物語をひもとく。

 (このシリーズは文を編集委員・白石明彦、写真を八重樫信之が担当します。文中敬称略)

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