現在位置:
  1. asahi.com
  2. ニュース
  3. 特集
  4. ニッポン人脈記
  5. 記事

同じ空 輝く「昴」 心ひとつ

2008年5月30日14時31分

印刷

ソーシャルブックマーク このエントリをはてなブックマークに追加 Yahoo!ブックマークに登録 このエントリをdel.icio.usに登録 このエントリをlivedoorクリップに登録 このエントリをBuzzurlに登録

写真谷村新司さん写真王潔実さん写真荘魯迅さん

 歌手の谷村新司(たにむら・しんじ)(59)は月1回のペースで上海音楽学院に通う。中国から教授に招かれたのは04年春だった。初めての授業の日、水を半分入れたコップを手に「じゃあ、これで詩を書こう」と学生に呼びかけた。

 「みんな、目が点になってましたね。クラシックをベースに小学校から一貫して音楽にとりくんできた英才ばかり。自分で詩を書く授業なんて、受けたことなかったですから」

 30分たって教室に戻ると60人全員が書き上げていた。中に、おやっと思う詩があった。

 コップが倒れ、水がこぼれ出た。そのとき、水は初めて自由を知った。そして自分には形が無いことも知った――「発想の素晴らしさ、表現力。うなりました」。

    ◇

 いまから思えば「隔世の感」の体験がある。81年8月、谷村は堀内孝雄(ほりうち・たかお)(58)、矢沢透(やざわ・とおる)(59)と組んだ「アリス」として初訪中、北京で1万人コンサートに出演した。受け入れは中国共産党の青年組織だった。

 「若者でいっぱい。でも僕らのいう『さあ、のっていこう』という雰囲気に全然ならない。あせりましたね」

 ステージから降りてはだめといわれていたが、谷村はVIP席の前まで行ってギターをかき鳴らし大声で歌う。「そしたら真ん中にいた人民服の老幹部が立ち上がり、手拍子を始めた。それを合図に満場がドッときて、やっと一つになれた」

 それはトウ小平(トン・シアオピン)だった。中国を揺るがした文化大革命などで失脚しては復活し、改革開放にかじを切った当時の最高実力者である。

 「中国のポップス記念日」となったその日、日中の歌手たちは30曲ほど歌い、谷村は最後に自作の「昴(すばる)」を披露する。楽屋に戻ると、「いい歌だ。教えて」と人気歌手の王潔実(ワン・チエシー)(55)に頼みこまれた。

 谷村は中国語が、王は日本語がわからない。だが音楽はその壁をこえる。通訳をわきに、谷村から口写しで教わった王はすぐ歌えるようになった。

 「あの開放幕開けの時代、新しい歌い方を探していた。『昴』はメロディーの美しさが感動的だった」と王はいう。

 日本語の歌詞のまま持ち歌に加えた王は、翌年、「星」という題で中国版をレコードに吹きこむ。いま「中国人が最も好きな日本歌曲」の一つになった歌が広まるのはそれからだ。

 上海で、ラジオから流れる「昴」を耳にした青年がいた。荘魯迅(チョワン・ルーシュン)(51)。少年時代、文革で一家は離散、道路工事の労働者になる。でも好きな音楽があきらめきれず、ギターを弾いてアングラ活動をしていた。

 「あの広大でのびやかな曲想にすっかり魅せられ、僕が歌の道に生きようと意を固める大きな力になったんです」

 人気歌手になった荘は、文革で失った学問の機会を求めて88年に来日。文学を学び、いま東京の大学で中国の古典を講じる。そのかたわら、大塚の小さな喫茶店で月例ライブを5年余り。中国民謡や、漢詩に自分で曲をつけて歌う。谷村の曲もレパートリーにある。

    ◇

 「昴」は、谷村が31歳のときニッカウヰスキーのCM用に作詞作曲した。小さい頃から目をつむると、はっきり見える風景がある。荒涼たる大草原のかなたに山並み。見上げれば満天の星。それを歌にした。

 大阪生まれの谷村にとって、そこは実際に行ったところではない。「でも中国の老朋友(ほうゆう)たちの意見では、絶対にロシア国境の黒竜江省あたりだと。いずれ自分で歩いて確かめようと思っているんですけどね」

 四川大地震を旅先のホテルで知った谷村は、駐日大使の崔天凱(ツォイ・ティエンカイ)(55)に電報を打った。

 「今、私たちに何が出来るのかをぜひ教えてください。どんな時にも同じ空を見上げている、たくさんの人たちがいることを思い出して下さい」と。

 (編集委員・加藤千洋、本文は敬称略)

PR情報
検索フォーム
キーワード:


朝日新聞購読のご案内