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反骨でっせ 寄席でっせ

2008年7月9日14時23分

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写真桂三枝さん、天満天神繁昌亭で写真土居年樹さん写真寺井種伯さん

 人を笑かすなりわいの話を、上方にひもときましょか。落語の祖は江戸時代の京都の寺の住職、安楽庵策伝(あんらくあん・さくでん)でっせ。今の形の漫才が生まれたんも、大阪の寄席やってんから。

 大阪の笑いは大阪弁の笑い。その大阪弁が禁じられる未来を描く落語がある。桂三枝(かつら・さんし)(64)の「大阪レジスタンス」だ。

 「アホちゃいまんねん、パーでんねん」は「バカじゃないんだ、パーなんだ」と言い換えさせられる。抵抗運動の地下組織ができるが、リーダーの天ぷら屋は捕まって銃殺刑に。その死を乗り越え、大阪は日本から独立し国連に加盟、大阪弁の復活とともに元気を取り戻す。

 三枝はこの中で、郷土の文化への愛を、標準語で表現しきれない、やわらかな、奥行きのある大阪の言葉に託した。「しんどい」「はんなり」「ぼちぼちいこか」。国が言葉を押しつける薄ら寒さも伝えながら。

   ◇

 1943年の夏、堺市に生まれた。生後11カ月で父は病死。母と暮らした寮は8歳の冬に大火事で全焼し、旅館の住み込みになった母とは、別々の暮らしに。寂しさから、遊びに来た友だちを物まねや冗談で楽しませてひきとめた。ラジオのコメディー番組の公開録音を見て、人を笑わす仕事にあこがれた。

 高校時代は素人漫才、関西大では落語研究会。23歳、落語家の内弟子生活を始めると、ラジオ出演をきっかけにトントン拍子に名が売れる。

 大忙しになっても、大阪にとどまった。「大阪が一番という気概があります」。語り継がれた古典より、自ら作り演じる落語にこだわり、200近い作品を送り出す。真骨頂が地元に根ざす「大阪レジスタンス」だ。

 だが、その大阪に戦後、毎日開かれる上方落語専門の寄席はなかった。お笑いの劇場は、漫才が中心。若手の育つ場がないと、落語に未来はない。三枝は03年7月、上方落語協会長になると、寄席づくりに乗り出す。

   ◇

 日本一長いと言われる大阪・天神橋筋商店街に、街おこしで知られる土居年樹(どい・としき)(71)がいた。同志社大在学中に父が急死、中退して陶器店を継いだ。商いと文化を結びつけ、27年も前に商店街の空き店舗にカルチャーセンターを開いた。

 小さな寄席のための店舗を探す三枝と、04年1月、喫茶店で会った。三枝は言葉を選んで商店街の活性化についても語った。「きまじめで繊細、一緒にやれそうや」。土居は真剣に考えた。

 「天神さんに相談してみたらどやろか」

 地元のシンボル「天神さん」こと大阪天満宮、その宮司、寺井種伯(てらい・たねのり)(74)に会いに行く。

 「どうぞ駐車場の敷地を使って下さい。お金はいりません」

 話を持ちかけた土居の方が驚いた。「ほんまかいな」。駆けつけた三枝も600平方メートル近くもある広さに仰天する。

 あたりには戦時中まで、演芸小屋があった。「天神さんの裏へ行くのが楽しゅうてね。芝居を見たり、落語を聞いたり」。実は寺井も、そんな思い出話をお年寄りから聞かされ、お参りがてら家族で楽しめる場を復活させたいと夢に描いていた。

 亭内のちょうちんに名前を入れます、という建設資金集めに約2億4千万円が集まった。06年9月15日、216席の「天満天神繁昌(てんまてんじんはんじょう)亭」の灯がともる。

 裏方であいさつ回りに奔走した土居は帰宅すると、妻にしかられた。大事な結婚記念日なのをすっかり忘れていたからだ。でも「あんなにうれしかった日はおまへんな」。

 いま、テレビを中心にお笑いの発信は東京に偏っている。その中で、引き寄せられるように大阪の芸人、商人、神社が結びついてできた繁昌亭は連日、大阪弁の響きと笑いに満ちている。「反骨精神の象徴やないかと思うんです」。三枝にはこの小屋とにぎわいが、「大阪レジスタンス」に重なる。

(このシリーズは文を篠塚健一、写真を山崎虎之助が担当します。文中敬称略)

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