「紙ふうせん」の平山泰代さん(右)と後藤悦治郎さん
守りもいやがる ぼんからさきにゃ 雪もちらつくし 子も泣くし/はよも行きたや この在所こえて 向こうに見えるは 親の家(うち)
哀切なメロディーにのせて、フォークグループ「赤い鳥」が1971年に大ヒットさせた「竹田の子守唄(うた)」だ。
京都市の被差別部落に住む梅村君江(うめむら・きみえ)(78)は「きれいな曲になっていたけど、歌詞は、母親らが染めものや草履づくりをしながら歌っていたのと同じようやった」と話す。
子守唄に出てくる「在所」は、京都では被差別部落をさすことがある。
梅村の母は明治の生まれ。明治から大正、昭和にかけて、幼い少女たちが子守奉公や弟妹の世話をしていた。守り子のつらさや嘆き、自らへの励ましを込めた労働歌だった。
その元唄が地域の集会で披露されたのが9年前。梅村ら部落解放同盟改進支部の女性部30人余りが舞台に立った。
元唄といっても、守り子がそれぞれ歌い継いだから、同じ部落でも微妙に違う。女性部の元唄は「赤い鳥」への流れのものではなく、部落の青年らが梅村の母に歌ってもらって録音したものだ。
梅村の妹で女性部長の松田扶邇子(まつだ・ふみこ)(67)は「私は母が歌っていたのを知らなかった。録音を聞くと、わあー、なんてええ歌なんやろ、と思った。ここの生活がにじみ出ていた」と語る。
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梅村姉妹に加えて、橋本君江(はしもと・きみえ)(73)、福田勝子(ふくだ・かつこ)(75)の4人に元唄を歌ってもらった。「赤い鳥」よりテンポが速く、元気がいい。その歌詞のひとつ――。
寺の坊さん 根性が悪い 守り子いなして 門しめる どしたい こりゃ きこえたか
橋本は「私も寺で妹の子守をして、よく坊さんに怒られた」と話す。大阪に子守奉公に行ったこともある。休みに家に帰ろうとして国鉄に乗るつもりが、私鉄に乗ってしまった。
「学校へ行ってへんから、字を知らん。近くまで来て、家から遠ざかっていく。悲しかったわ。歌にある『向こうに見えるは親の家』が実感やった」
女性部の元唄はフレーズごとに「どしたい こりゃ きこえたか」が繰り返される。ここに来ると、みんな気合が入る。
福田が語る。「私らは難しいことはようしゃべらへんさかいに、歌で訴えている。住まいや道路はよくなったけど、差別は昔と変わってへん。どうや、聞こえたか、と」。その福田の、去年の部落内での体験――。
部落外の若者が自転車に紙袋を置いたまま市営浴場に向かった。一緒にいた仲間が「ここは在所だぞ。持っていけ」。通りかかった福田が腹を立て、「部落やさかいって、だれも取らへん」と言うと、「差別していないから在所の浴場に来てやっているんだ」と逆切れされた。
今年も女性部は絣(かすり)の衣装で2月の集会の舞台に立つ。
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「赤い鳥」は74年に解散した。リーダーだった後藤悦治郎(ごとう・えつじろう)(63)と平山泰代(ひらやま・やすよ)(62)は「紙ふうせん」を結成、「竹田の子守唄」を歌い続ける。女性部の元唄の披露と去年の集会に招かれた。
後藤は「竹田の子守唄は守り子一人ひとりの独り言。フォークソングの原点で、ぼくらの原点なんです」と語る。
妻の平山は「この歌は私たちの体の中を通った歌です。だから、聴いてくれる人の体の中も通っていくと思うんです」。
後藤は初め、竹田がどこにあり、どんな背景を持つ歌なのか知らなかった。「赤い鳥」につながる元唄を歌っていた女性を知り、公演に招くと、「部落の恥をさらすことになるので、もう歌わないでほしい」と言われた。あれから30年余り。
「その歌が被差別部落の人たちの誇りになって、合唱団で歌われる。うれしいですね」
被差別部落はどう変わり、部落の人たちはどんな思いを抱いているのか。各地を歩いた。
(このシリーズは文を臼井敏男、写真を近藤悦朗が担当します。本文は敬称略)