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モアイ救出 イチかバチか

2010年4月16日14時18分

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写真黒柳徹子さん

写真高木啓行さん

写真末澤憲明さん

写真左野勝司さん

 モアイ像は、絶海の孤島から地球を眺め渡して動かない。

 チリ領イースター島にある不可思議な石像の群れは、その昔の部族間の戦いがもとで、200年近くもなぎ倒されたままだった。もとの姿に戻ったのは、日本の一会社員の発奮による。

 1988年秋、クレーン会社タダノの高木啓行(たかぎ・ひろゆき)(52)は、テレビでクイズ番組「世界ふしぎ発見!」を見ていた。横たわるモアイ像が映り、島の知事が現地から話している。

 「もしクレーンがあれば立派に修復できるのだが」

 解答者の一人、タレントの黒柳徹子(くろやなぎ・てつこ)(76)が「私たちもできることがあれば」と呼びかけた。

 うちの出番だ、と高木は思った。「何でもやっていいぞ」と言われて高松市の本社から東京駐在になったが、上司は大阪に転勤して自分1人だけ。もしかして辞めろということかな、と思っていた頃だった。イースター島は少年時代にヘイエルダールの「コンティキ号漂流記」であこがれた地でもある。

 チリ大使館で事情を聴いた。外務省に足を運んだが、援助には気乗り薄だった。クレーンだけでも寄贈するか、でも社内で通じないよなあ――。

 ところが社長の多田野久(ただの・ひさし)は話に乗った。「クレーンが社会に役立つことを知ってもらうには絶好の機会じゃないか」。予算はひとまず1億8千万円、「これじゃイチかバチかだね」と社内で笑い話になった。

 日本は景気が良かった。チリはピノチェト独裁とその後の混乱で、モアイ像どころではない時期にあたる。

    ◇

 高木は当初、ざっと千体あるモアイ像すべてを立て直そうと思っていた。考古学などの専門家の調査委員会は、それには膨大な時間と費用がかかるという。結果、島最大の遺跡アフ・トンガリキの15体に絞られた。

 クレーンが島に渡ったのは92年、タダノの末澤憲明(すえざわ・のりあき)(57)は以後半年かけて島民に操り方を手ほどきした。

 「覚えてもらわんかったら帰れない。でもこっちは讃岐弁しか話せない。通訳も大変で、身ぶり手ぶりで必死に教えたよ」

 修復には石のプロも要る。高木が人づてに声をかけたのが、奈良県の石工左野勝司(さの・かつじ)(67)だった。唐招提寺の宝塔や春日大社の石灯籠(いしどうろう)を修理し、藤ノ木古墳では未盗掘の石室を無傷で開けて腕は知られている。

 そんな左野も、高木からの突然の申し出には戸惑った。「モアイとなれば世界が注目する。失敗は許されない」。それでも93年に島に入った。

 もろい凝灰岩のモアイ像は、ロープのかけ方ひとつで重心がずれ、クレーンごと倒れる危険さえあった。高さ5メートル前後、40トンほどもある像をそっと持ち上げ、空中で垂直にすると、ゆっくり基壇に下ろしていく。

 95年5月、15体すべてが並び立った。地元の人が「ラパ・ヌイ(大きな島)」と呼ぶイースター島はその年の12月、ラパ・ヌイ国立公園としてまるごと世界遺産に登録された。

 孤島が育んだ独自の文化、それが登録の理由だった。モアイ像は10世紀ごろ島民が造り始めたらしいが、なぜ造り、どうやって運んだのか、確たることは今もわかっていない。

 人間にはまだまだ謎がある。

    ◇

 15体の完成時、高木は仕事で日本にいた。モアイ像の晴れ姿を見たのは、新たなクレーンを寄贈するために訪れた2006年だ。修復を思い立ってから18年、知らず涙がこぼれた。

 「人ひとりでは限界があるが、思いを共有すればとんでもないことが出来てしまう」

 すべては人の縁、とも高木は思う。左野との協力は、高松塚古墳の石室解体やカンボジアのアンコール遺跡修復で続いた。

 ところで、テレビで呼びかけた黒柳は、モアイ像のその後を気にかけながらも、経緯を知って驚いたのは最近という。「この取り組みは無償の愛。文化に対する敬意から始まったことなんですね」

 ユネスコが登録を進める世界遺産は、現在148カ国890カ所に上る。様々に刻まれた人類普遍の価値、そこに魅せられた人びとを各地に訪ね歩く。

 (このシリーズは筒井次郎が担当します。本文中は敬称略)

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