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地獄 話すまで死ねない

2010年11月18日14時38分

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写真友田浩さん

写真板橋孝太郎さん

 「とにかく生き地獄だわね」

 9月中旬、友田浩(ともだ・ひろし)(91)は長野市の自宅で語った。1944年、英軍の根拠地、インド東北部のインパールを攻略する作戦に、第33師団山砲兵第33連隊第4中隊長として従軍した。

 英軍は、大量の砲弾を撃ち込んできた。まるで滝のようだった。日本軍には飛行機も食料の補給もなかった。撤退の途中、友田は、日本兵の遺体が路傍に折り重なるのを見た。

 「日本に連れて帰ってくれ」

 瀕死(ひんし)の兵の声が友田の背中に張りついた。友田の部隊も大半が餓死、病死し、生還したのは200人中5、6人だった。

 「なぜ、戦友は死んで自分が生き残ったのか。そればかり考えてきました。二度と戦争をしてはならない。そのことを死者たちにかわって後世に伝えるためではなかったでしょうか」

    ◇

 一人の若者が友田と向き合っていた。学習院大2年生の板橋孝太郎(いたばし・こうたろう)(20)だ。家庭用のビデオカメラを操作しながら時折、友田に質問を投げかける。

 板橋は、元兵士の戦場体験を記録しようと6年前から活動している「戦場体験放映保存の会」(東京)の会員だ。インターネットで会の存在を知り、5月に入会した。

 板橋は中学生の頃、「亡くなった祖父は戦争中、何をしていたのだろう?」という疑問から戦争に興味がわき、軍人の伝記や戦記を読みあさってきた。

 「軍事オタク」と呼ばれることもある。しかし、自分では少し違うと思っている。板橋の関心は戦闘機や戦艦などのモノではなく、人にある。歴史の当事者が今も健在であることへの素朴な驚き。

 「インパール作戦に参加した友田さんに会えるというので気持ちが高ぶりました。いま聞いておかないと貴重な体験談が消えてしまいますから」

 板橋は、意見より事実を聞き出すことに力を注ぐ。何を食べていたか、どう行動したか、具体的に知りたい。友田へのインタビューは4時間に及んだ。

 長野県での聞き取り活動2日目。会の事務局長である中田順子(なかた・じゅんこ)(36)と合流する。列車で県中央部の辰野町に移動し、宮原義彦(みやはら・よしひこ)(92)に会った。36年、志願して陸軍に入り中国へ。旧満州(中国東北部)や現在の内モンゴル自治区、華北地方などで10年近く軍隊生活を送った。

 日米開戦を聞いた時、宮原は「『この戦争は勝てねえ』と、ひょっくら言っちゃった」。物量の差は明らかだと思ったからだ。「それでも軍人か」と上官からこっぴどくしかられた。その思い出が今では宮原の誇りになっている。

 聞き取り3日目、長野市に戻る。今年1月に同市に編入された中条地区(旧中条村)。地元のタクシー運転手も「初めて来た」という山上の家に、山野井公一(やまのい・こういち)(91)は独りで暮らす。

 山野井は戦時下、「満州国」の官吏として牡丹江などで燃料の専売の仕事に携わった。アヘンが「満州国」の大きな収入源になっていることは当時から知っていた。そして、文官でありながら、戦後、シベリアに抑留された。

 「栄養失調で死ぬのは弾に当たって死ぬより残酷で悲惨です。冬は零下40度にもなる世界。毎日1人、2人と亡くなっていく。自分の番は、いつ回ってくるかと……」

    ◇

 友田、宮原、山野井。90歳をすぎた3人は旺盛に語った。

 誰かに語らずには死ねない。そんな思いがひしひしと伝わってきた。語る相手が目の前にいることの喜びをかみしめているようにも見えた。

 戦場体験放映保存の会は発足以来、六百数十人から独自に話を聞いてきた。聞き取りをする会員は全国に約30人。2千人を超す人々から体験を語りたいという希望が寄せられている。聞き取りが追いつかず、希望者が亡くなる例もあるのが悩みだ。

 敗戦を20歳で迎えた人は今年、85歳になった。海の向こうの戦場で何があったのか。自身の体験を語れる人はもはや多くない。戦場の記憶を語り継ごうとする人々の営みを追った。

 (このシリーズは編集委員・上丸洋一が担当します。文中敬称略)

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