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患者150人 空から救え

2011年5月12日16時5分

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写真拡大早川達也さん(左)と矢野賢一さん

写真拡大赤井健次郎さん

 東日本大震災の翌朝、浜松市にある聖隷三方原病院の救急医、矢野賢一(やの・けんいち)(40)はドクターヘリで福島県に飛んだ。大災害時、緊急医療にあたる「災害派遣医療チーム(DMAT)」の任務だった。

 福島県立医大で待機していた3月13日午前10時、出動要請が来た。福島ではなく、宮城県の石巻市立病院から手術患者を運んでほしいという。

 「地震でけがをした人の緊急手術でもしたのかな」。矢野はヘリに乗り込んだ。

 約30分後、汚泥とがれきに覆い尽くされた街に、5階建ての病院がぽつんと見えてきた。「えっ、こんなところで手術をしているのか?」

 その病院には患者約150人とスタッフ約250人が取り残されていた。地震時、胃の手術中だった患者は、仮縫い状態で手術を中断したまま40時間がたっていた。水道、ガス、電気は止まり、発電機は水没。食料は尽きた。電話も無線も通じない。周囲の道路は寸断され、外との連絡のすべすらなかった。

 その日の早朝、循環器科部長の赤井健次郎(あかい・けんじろう)(52)は助けを求める最後の手段として、外科部長の内山哲之(うちやま・てつゆき)(44)を約5キロ離れた石巻赤十字病院へ送り出していた。内山は、がれきだらけの冷たい水に腰までつかり歩いていった。

 そして、ドクターヘリが来た。内山が無事にたどり着き、ヘリ出動につながったのだと赤井は察した。

    ◇

 ヘリから降りた矢野は石巻市立病院の姿に息をのんだ。1階の窓に車や流木が突き刺さっている。「患者1人と手術スタッフを運ぶ」という要請だったが、衛星携帯電話に叫んでいた。「1人運んですむ話じゃありません!」

 矢野が「いしまき、いしまき」と連呼するのを、赤井は横で聞いていた。名も知らぬ街の病院を救おうと、必死になってくれていると感じた。

 日没直前に、追加のドクターヘリ2機と自衛隊ヘリが到着した。危険な状態にあった患者6人を急いで運んだ。

 その夜、福島県に戻った矢野は、石巻市立病院のことが頭から離れなかった。残る140人余りの患者はどうなるのか。だが、矢野のチームの任務は福島県での活動だ。会議で石巻の話は出なかった。

 県境の見えない壁を感じた。矢野は深夜、聖隷三方原病院に電話をかけた。「病院全体を避難させなくては。大変なことになります」

 上司の早川達也(はやかわ・たつや)(44)は、ただならぬ状況を察した。すぐ旧知の宮城県の医師に連絡した。日付が変わるころ、宮城のDMAT本部から支援の正式要請が福島に届いた。

    ◇

 翌朝7時に「全患者脱出作戦」が始まった。福島に集結していたドクターヘリ全6機を使い、病院近くの運動公園にある自衛隊キャンプに、ピストン方式で運んだ。

 病院では、窓がない真っ暗な階段をスタッフが患者を担いで下り、搭乗を待った。

 途中で日が暮れた。残る患者は65人。夜間装備のないドクターヘリでは日没後の飛行は危険だ。矢野があきらめかけた時、電話が鳴った。「自衛隊ヘリが、向かっている」

 夜9時前、自衛隊の中型ヘリが2機到着した。闇の中、搬送が再開した。ありったけの懐中電灯を並べ、病院からヘリへ、通り道を照らした。

 最後の患者を乗せたヘリが飛び立った。闇の中で、だれかが「万歳」と両手を挙げた。歓声と拍手が沸いた。

 3・11後、東北に多くの「震災ドクター」たちが駆けつけた。極限の現場で、見知らぬ医師同士の思いが重なった。長年にわたる医療者たちのつながりに、支えられた活動もあった。

(このシリーズ全5回は、編集委員・中村通子が担当します。本文敬称略)

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