この一言が今の秋葉原を生んだのかもしれない。
「もう次はアキバです」
1997年春、精巧なミニチュア模型で知られる海洋堂の造形師、若島康弘(わかしま・やすひろ)(42)は社長の宮脇修一(みやわき・しゅういち)(54)に進言した。
海洋堂は大阪に本社があり、86年に渋谷に店を出した。特撮やアニメのキャラクター模型、フィギュアを手作りして売る会社として、知る人ぞ知る存在だった。だが風向きは変わり始めていた。
アニメ「新世紀エヴァンゲリオン」やゲーム「ときめきメモリアル」がヒット。渋谷の店には、女性キャラクターのフィギュアを求める客の長い列ができていた。市場は広がったのに、どこか飽き足りない。新天地が必要だった。
「模型好きが高じたというより、美少女ゲームの発売日に秋葉原で並ぶ人たちに近いものを感じた」と若島は振り返る。社内には中野や吉祥寺を推す声もあった。宮脇は若島のセンスに賭けた。
ほどなくして秋葉原店を神田川沿いのビルに開く。おっかなびっくりの船出だった。渋谷では道玄坂の上にある店に足を運んでもらうために、いろんなイベントをした。それが、秋葉原では、何もしないのに売り上げが2倍近くに跳ね上がった。
翌98年、日本経済はバブル崩壊のどん底。空きのあった駅前のラジオ会館に店を移した。すると1年もしないうちに、渋谷で一緒に「オタク村」をつくっていた人形製造のボークスや、模型専門店のイエローサブマリンが、同じラジオ会館にやってきた。
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松永芳幸(まつなが・よしゆき)(49)も、宮脇から秋葉原の活況を聞くたびに、「自分も早く出したい」という思いを募らせていた。
デザイナーのもとで服飾を学び、渋谷に店を構えてコスプレパーティーの企画や衣装のオーダーメードを手がけていた。ものづくりで宮脇とは引き合うものがあった。
松永は20年来の付き合いがある木谷高明(きだに・たかあき)(51)の誘いを受け、秋葉原にキャラクター衣料の店を出す。2001年3月には、秋葉原初のメード喫茶となる「キュアメイドカフェ」を誕生させる。
2人は異業種交流会を通じて知り合った。当時、山一証券にいた木谷は94年に脱サラ。「ベンチャーで覇権を狙えるのは混沌(こんとん)とした創生期にある業界」。冷徹にそろばんをはじく一方、格闘技好きで「オタク心も分かる」。アニメのキャラクター商品を企画・販売する会社を起こし、7年半で上場させた。
片や松永は、欧米のクリエーターらが日本のアニメやゲームキャラクターを「クール(格好いい)」ともてはやすのを耳にしていた。こうした日本発のモチーフを服飾に持ち込めば、欧米の後追いではなく、自分たちの優位を固められる。そう思っていた。
99年からは秋葉原で人気ゲームの世界をそのまま再現した木谷のコスプレ喫茶にコスチュームを貸し出していた。
その延長で、アニメやゲームのファンがくつろげる店はできないか。行き着いたのが、もてなしをする普遍的キャラクターで、著作権が問題にならないメードだった。
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いまやオタクはすっかり市民権を獲得した。しかし、宮脇は最近のオタクに物足りなさを感じている。「オタクが薄くなった」。やがて還暦を迎える第一世代の濃い人たちのたまり場をつくりたい。若島と賛同者探しに走り回る。
木谷は、無理な事業拡大がたたり、上場させた会社の株主から三行半(みくだりはん)を突きつけられた。07年に少年たちに人気のトレーディングカードゲームの会社「ブシロード」を起こす。同社が公認する秋葉原駅前のカード店の対戦スペースは、中学生らでごった返す。
「負けっぷりのよさが似ている」と、アキバ系コスプレファイター、長島(ながしま)☆自演乙(じえんおつ)☆雄一郎(ゆういちろう)(27)のプロレスデビューを支援し、気を吐く。
この10年余りで、メード喫茶は35軒ほどになった。一方、秋葉原のランドマークとも言うべきラジオ会館は今夏、建て替えのため半世紀の歴史にいったん幕を閉じる。変わり続ける街「アキバ」とともに生きる人を追う。
(このシリーズは文を鈴木淑子、写真をフリー伊ケ崎忍が担当します。文中敬称略)